第三能変 受倶門 別徴(安慧の釈明を論破する)
「又、若し彼の論は客の受に依って説くといはば、如何ぞ彼には定めて八根と成ずと説ける」(『論』第五・二十四左)
(安慧の釈明を予想して護法が論破する) もし安慧が釈明して『瑜伽論』が、客の受によって説かれているというならば、どのようにして彼(地獄)には、必ず八根(眼等の五根と意根と命根と捨根)が成立すると説かれるのか。)
安慧の論法では「余の三」に捨根が入ると述べているのですが、それならば、地獄には捨根はないことになります。それでは、『瑜伽論』に説かれる地獄に八根が存在するとは、どのような理由でいわれているのか。彼には「地獄に生ずるは、八なり。楽・喜・憂の三根は除く」(取意)といわれているではないか。この間の事情を『述記』では「如何ぞ、地獄に定んで八根を成ずと説く。第八とは何ぞ」という問いを設定しています。捨根を除く七根は共許のものです。護法は次に第八番目の安慧の答えを想定して論破していきます。その想定は(1)憂根 (2)苦根 (3)一形 になります。護法は次の科段より、順次論破していきます。
「若し謂く、五識は相続せざるが故に、定んで憂根を説いて第八と為すといわば、死と生と悶絶とに寧んぞ憂根有らん」(『論』第五・二十四左)
(安慧が五識は、相続しないので、必ず第六意識と相応する憂根を第八の根とするというならば、死と生と悶絶とに、どうして憂根があるというのか、ないではないか。意識は常に現起するといわれるけれども、死ぬ時と、生まれる時と、悶絶では間断するのである。間断している時には意識は働いていないので、意識と相応する憂根は地獄の純苦に於いては存在しないのである。)
『述記』には安慧の釈明がしるされています。「彼れ若し救して五識は間断するを以って苦定んで成ずること無きを以って、但憂根を説いて其の第八と為すと言はば、」と。前五識は間断する。したがって五識と相応する苦受は常に成立しているわけではないので、意識と相応する憂根を第八番目の根とするのであれば、という釈明と問いですね。「今之を難じて云く。若し生と死と悶絶と三の時に如何ぞ憂根ある。此の時には意識も亦定んで無きが故に、故に知る定んで成ぜりというは、第七・八の意根と及び第七・八の捨受となり。・・・」(『述記』)
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