唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (17) 自類相応門 (3) 

2014-07-14 21:00:49 | 心の構造について

 何故、貪が疑と相応しないのかという理由を示します。

 「境の於に決せざるときには染著(ゼンジャク)すること無きが故に。」(『論』第六・十六右)

 愛の境と、疑の境とは相応しないことを証明しているのです。愛の境は必ず決定するが、疑の境は不定であるから、貪と疑とは相応しない、と説かれています。

 疑の心所をふりかえりますと、

 「云何なるをか疑と為す。 諸の諦・理とに於いて猶予するをもって性と為し。不疑の善品を障ゆるを以って業と為す。謂く猶予の者には善生ぜざるが故に」

 「諦」は四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)のこと。「理」はその道理です。私が苦しむのは何故か。その理由を明らかにし、苦からの解放は如何にしたら可能かという道理に対し疑いの心を起こすのです。「本当かな」というためらいをもつのが「疑い」の本性だといっているのです。そしてためらいをもっている限りですね、善という菩提心は生まれてこないと教えています。「疑」とはですね、苦の因は自分に有るということがわからないということでありますし、また苦のない世界があるということにも疑いを持っているということだと思います。道諦はそこに到る道があるということを明らかにしているのですが、私達はどうしても、苦の因を自分の外に求めていますからためらいがある(疑がある)のでしょうね。

 疑は猶予する心所に対し、貪は対象が何であるか決定する心所ですから、貪と疑は相応しないというのは理明らかである。

 後には、貪と慢、及び貪と見(五見)の相応について説かれます。

 「貪は慢と見とは或は相応することを得」(『論』第六・十六左)

 貪は慢と五見とは、或は相応することがある(相応しない場合もある)。 

 原漢文は「得相応」と書かれていますから、「相応することを得」が前提となります。そして、「相応しない時もある」が隠されたされた意味になりましょうか。全体的には不定を表しています。

 『雑集論』(巻第五)及び『瑜伽論』巻第五十五には「貪は慢と相応する」と説かれているが、同巻第五十八には「慢と相応することを得ず」とも説かれているのである。

 次科段ではその根拠が示されます。

 


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