唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (27) 自類相応門 (13) 

2014-07-31 21:45:05 | 心の構造について

 本科段は、瞋と邪見と倶起する場合と、しない場合の根拠について述べられます。

 「邪見の、悪事と好事とを誹撥(ヒホツ)するときには、次での如く、瞋或は無し或は有りと説けり。」(『論』第六・十七右)

 誹撥(ヒホツ) - 否定する。否認する。認めないこと。

 邪見が、悪事と好事とを認めない時(無いと考えた時)には、次のように瞋が無い時と有る時とが有ると説かれている。

 悪事とは悪行です。好事とは自分にとって都合の好いことを指しています。邪見とは、因果の理を否定する考え方ですが、悪い果報も善い果報も無いと考える見解になり、「因果撥無の邪見」といわれています。このような邪見が瞋と相応する場合と、相応しない場合があると本科段では説かれているのですね。

 『述記』は詳細を説明しています。

 「論。邪見誹撥至或無或有 述曰。惡事・好事邪見撥者。如次説瞋或無或有。謂撥惡事無。便不與瞋倶。喜苦無故。撥樂蘊無。便與瞋倶。憎樂無故。對法依三見一分二取全。説不與瞋倶。瑜伽約三見少分。説瞋相應。見爲一門明故。」(『述記』第六末・三十六右。大正43・450c)

 (「述して曰く。悪事好事を邪見の撥するは、次の如く瞋或は無、或は有と説けり。謂く悪事は無と撥する時には便ち瞋と倶にあらず。苦の無を喜ぶが故に。楽蘊無と撥する時には便ち瞋と倶なり。楽の無きを憎するが故に。対法は三見の一分と二取の全とに依って瞋と倶にあらずと説く。瑜伽は三見の少分に約して瞋と相応と説けり、見を一門と為して明かすが故に。」)

 瞋と邪見の関係ですが、邪見だけを取り上げて撥無であるとしますと、あ、そうかというもんですが、瞋との関係に於て、喜・憎という心理作用が働いてくるのですね。細やかな心理作用かもしれませんが大事なことを教えています。

 「悪事は無と撥する時」ですが、悪事を成しても果として苦は無いと撥するわけですから、自分にとって非常に好都合なわけですから怒りを起こすということはないのです。ですから瞋とは倶起しないと説かれています。造悪無碍という悪を造っても障りなしという邪見になります。

 逆にですね、善いことをして、受けるべき楽が無いとしますとムラットとするわけです。善行の側面ですね。「私はこんなにいいことをしているのに、なんの恩恵もないのか」というイラダチというか、怒りが生じてくるのですね。

どちらも、自分の目線で物事を考えている証拠になるわけですが、瞋と相応する場合と相応しない場合について、ただ邪見というわけにはいかないと教えています。悪果はいらないけれども、善果は要ると要求しているのです。悪果撥無は好都合であり、善果撥無には瞋が生起してくるといわれているのです。

 証文が引かれています。『雑集論』巻第六(大正31・723a)と『瑜伽論』巻第五十五(大正30・603a)です。

 『述記』は『雑集論』の所論は「三見の一分と二取の全とに依って瞋と倶にあらずと説く」と説明しています。つまり、楽がある五蘊を縁じる常見と、苦のある五蘊を縁じる断見と、悪事は無いと撥無する邪見の三見と、戒禁取見と見取見の二取を見として、この見と瞋とは相応しないと説いていると説明しています。瞋を起こす必然性は無いということです。

 『瑜伽論』の所論は、「瑜伽は三見の少分に約して瞋と相応と説けり」と説明していますが、『雑集論』とは逆のことを云っているのですね。常見・断見・邪見の説明が、苦がある五蘊を縁じる常見であり、楽のある五蘊を縁じる断見であり、好事は無いと撥無する邪見を見として、この見と瞋とは相応すると説かれていると説明しているのです。瞋を起こす必然性が有るということになりますね。

 

 


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