貪と他の煩悩との相応についての説明が終わり、次に瞋との煩悩との相応について説明がされます。
瞋は、慢と及び疑とは或は相応する。(或は)相応しない場合もあることを含んでいます。理由は、境相必ずしも相合しないからであると説かれます。つまり、境相が同一の場合も有れば、同一でない場合もある。見については、瞋は見取見・戒禁取見とは相応することなく、他の三見とは境相同一の場合は相応し、同一でない場合は相応しない。
「瞋は慢と疑とは、或は倶に起ることを得。」(『論』第六・十六左)
「所瞋(ショシン)と所恃(ショジ)との境一に非ざるが故に、相応せずと説けり。所蔑(ショメツ)と所憎(ショゾウ)とは境同なる可きが故に、倶起することを得と説けり。」(『論』第六・十六左)
- 恃 - たのむこと、或はおごること。
- 所瞋の境 - 瞋の対象であり、怒りの対象である。
- 所恃の境 - 慢の二種の中の恃己の慢の対象のこと。自分自身を縁じる場合の対象のこと。
- 所蔑の境 - 慢の二種の中の陵他の慢の対象のこと。陵他とは、他を蔑視し見下す煩悩のことであり、その対象が所蔑の境である。
- 所憎の境 - 瞋の対象。憎む対象。
「論。瞋與慢疑至説得倶起 述曰。第二瞋爲首。瞋・慢・疑有時或得倶起。如何不得。謂若内境慢所恃已。非瞋所憎。境不同故。對法第六・五十八。説瞋不與慢相應。若外境之上慢所陵蔑瞋之所憎境可同故。五十五説瞋與慢得相應。又必不於自起瞋。後瞋他復慢彼故。」(『述記』第六末・三十四右。大正43・450b)
(「述して曰く。第二に瞋を首と為して、瞋とは慢と疑と有る時には或は倶起することを得。如何ぞ得ざるや。謂く若し内境が慢の所恃となり已れば、瞋が憎する所に非ず、境は不同なる故に。對法第六、(瑜伽)五十八に説く、瞋は慢と相応せず。若し外境の上に慢の陵蔑する所と、瞋の憎する所と境同なるべきが故に、五十五に、瞋は慢と相応することを得と。又必ず自に於て瞋を起こすにはあらず、後に他を瞋するときには、復彼を慢するが故に。」)
「我」という我執は他を排斥することを唯一の働きとしていますから、自を排斥することはありません。
瞋の対象は怒りですが、自に怒るということはないのですね。つまりですね、瞋の対象が自分自身では有りえないとのです。しかし慢の対象は自分自身を対象としていますから、瞋と慢とは境は同一ではないということになり、相応しないということなのです。
すみません、ちょっと出掛けますので、この続きは明日にします。
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