蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

金融VS国家

2009年01月31日 | 本の感想
金融VS国家(倉都康行 ちくま新書)

金融を国家の成長エンジンとして活用できるかを、歴史から考察した本。

金融の発達は(他の制度や科学、産業と同様)戦争によって促されていることが多いことから説き起こされ、金融というのはひとつの社会制度なのだから、国家の関与なくして育成しいくことは(他の産業に比べて)困難であるとする。

国家の金融力の尺度は次の三つであり、日本はいずれも見劣りするという。
①制度設計力
②環境適応力
③金融育成力

著者が金融業界出身せいか、太古の昔から金融業界が卑しいものとして世間から毛嫌いされるのはなぜだろう、という点に何度か言及される。
よくいわれるように、文字通り汗をかくことなく儲けていることもあるだろう。
おカネというのは、しょせん人間の「おカネには価値がある」という幻想に支えられているので、その幻想がゆらぐとあっという間にどこかにいってしまう。そういった胡散くささが世間の評判を落としているように思う。

例えば、金融立国を果たしたかに見えたアイスランドやアイルランドの栄華が実は全くのまぼろしであることが暴露され、まぼろしを信じた人は一瞬にして人生を台無しにされてしまった。それを見て「やっぱりカネ貸し(金融業界)は・・・」みたいに思う人が多いはずだ。

もの作りの技術革新や流通制度のノウハウは、経済情勢がどうなろうと普遍的で人間社会を豊かにしてくれる実感があるのに、カネは手元から消えたらそれまでで何も残さない、むしろ借金という制度のためにマイナスをもたらしてしまう。証券化に代表される金融工学は、「それが社会に貢献した」と思われる期間より、その反対に考えられる期間の方が長くなることだろう。

ところで、著者も指摘しているが日本が国際金融の主役となりえない原因として大きいのは言語(英語を使いこなせる人が少ない)の問題だろう。
金融に限った話ではないが、日本語という修得がかなり難しい(文字数だけで考えても日常的にも数千も文字数がある(英語は26文字)。その上文字の読み方が全く不規則)言語が国際化を阻害しているのは確かだが、半面で言語が日本という世界有数の富裕な市場の参入障壁になっているのも確かである。

日本が豊かな国でないのなら、皆懸命に世界標準語である英語を習得しようとし、英語を日常的な言語とすることもできたろうが、幸か不幸か日本は猛スピードで豊かな国になってしまい巨大な国内市場を築きあげたので、もはや何が何でも英語を使わなければ・・・というインセンティブが生じ得ない。

日本がその産業力・経済力を維持できている間は、日本人は英語が苦手かもしれないが、苦手であることが産業力・経済力の維持に一役買っているというのが皮肉な構造だ。
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