蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

ルールと理屈

2005年08月13日 | Weblog
小泉総理の郵政民営化反対派への強烈な攻撃が話題となっています。

反対派がつらいのは、小泉さんが理屈の上でもルール上もまちがったことをやっていない点にあるでしょう。
解散権と閣僚の任免権は総理大臣にあるので反対する閣僚は罷免した上で解散する、
郵政民営化を問う選挙だから反対した人はこちら側から排除する(公認しない)、
反対派しかいない選挙区では選挙民が賛成の意思表示ができないから対抗馬を立てる、
自民党の公認権は総裁にある・・・等々、
何一つまともに反論できないのです。だから出てくる台詞が「あこぎだ」とか「長年の同志になぜここまで」といったものになってしまいます。
衆議院の反対派にしてみれば、自分たちの存在感が示せれば十分だったのでしょうし、参議院で(反対派にとって意外にも)否決されてもこれまでの慣例と経験に従えば解散できるはずがないと思っていたに違いありません。
しかし、これまでさんざん「変人宰相」とののしっておきながら、「できるはずがない」という願望によりかかって何の対策も考えていなかったというのはお粗末すぎます。それは民主党も同じで「総選挙になれば大勝できる」と週刊誌なみの希望的観測のみでふんぞり返っていて、いざ自民党ペースになってからあわてはじめてるところを見ると、「解散できるはずがない」と考えていたとしか思えません。

しかし、そろそろ多くの主権者は思い始めています。「少しやりすぎではないのか」と。

かつて外国資本が破綻銀行を買収した後、契約上明記されていた瑕疵担保特約を正当に行使したとき、多くの政治家、邦銀関係者、マスコミがこれを強く批判しました。ルール上も理屈の上でも保証された権限を正しく使ったとしても、この国では非難を浴びるのです。寅さんではありませんが「それをいっちゃあおしめえだ」という情緒的な反応が堂々まかり通る社会なのです。(そういう社会が悪いとか、遅れているというつもりはありません。ちなみにこのケースにおいても小泉さんは「彼らはリスクをとったのだから批判することはおかしい」といった旨のことをいっていたように思います)

最初は痛快な復讐劇に溜飲をさげていた人にも、ルールと理屈をとことんまで追及する小泉さんの姿勢が不気味なものに映りはじめているのではないでしょうか。

「彼はどこか我々とちがっている。あれではまるで異邦人ではないか」

選挙まであと1カ月あります。見事としか言いようのない手管でここまで観衆をひっぱってきた小泉さんも1カ月も彼らの興味をひきつけたままにしておくことはさすがに難しいでしょう。
何か肌にあわないといったちょっとした違和感は、投票所にいった人に「自民党」と書かせることをためらわせるような気がします。ルールと理屈(論理)を追求できる社会に変わったのかそうでないのかが、今、明らかにされようとしていると思います。
コメント
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