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蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

天は二物を与えず

2005年10月24日 | Weblog
「天は二物を与えず」という成句の意味は、一人の人間にそうたくさんの長所があるわけではない、とか、何か長所があれば欠点もあるものだ、くらいの意味で使われている。
ジェラシーに満ちた、凡人のぼやきのような成句ではあるなあと思う。
二つ以上の秀でた才能を発揮している人が現れると、この成句に反する例がいっぱいあるじゃないか、などと凡人は怒りを感じる。
最近ではマリア・シャラポアとかミシェル・ウィーがその例だろうか。
あんなに美人であんなにスポーツがうまくてあんなに金をもうけてあんなに・・・

私は、学校の座ってやる勉強は人並みだったけれど、体育と音楽は絶望的なまでに出来が悪かった。特に体育については「ここまで運動神経が鈍いのだから身体障害者に認定して体育の授業は毎回見学にしてほしい」と真剣に思っていた。
国語や算数、社会、理科、英語のテストが全部クラスで一番でも、(私の感覚では)それは5冠王ではなくて、「勉強ができる」という1冠王にすぎない。勉強の1冠王は、「体育の時間は大将」という1冠王と同等か、しばしば劣後する王として見られていると感じていた。「頭脳」部門と「肉体」部門が明確に区分けされていて、その両方で優れている人が二物を与えられている人だというのが、私の個人的な定義だ。

そのせいか、スポーツのできる見目形の麗しい人がいても(その2つともが自分になくても)あまり嫉妬を感じない。私の中ではスポーツと容姿は「肉体」部門に分類されるもので同類だからだ。
また、お金持ちか否かは、私の考えでは頭脳部門に属している。

だから、長○一茂はOKだけれど、東大卒なのに美人のタレントとか、阪急の御曹司で二枚目でプロテニスプレーヤーだった松岡○造にはむかつく。(それにしても、金もコネも有り余るほどの彼は、なぜテレビショーに出続けるのだろうか?)

この流れで、東大中退で大金持ちだけど見かけがオタクぽくって(実態はしらないけど)あまりスポーツが好きそうじゃないホリエ○ンにはシンパシーを感じるけど、一橋卒でMBAなのに大学のテニス部主将だったという楽○のオーナーは嫌い。(それがどうしたといわれると困るけど)

風の名前

2005年09月22日 | Weblog
アメリカではハリケーンに人の名前を付けている。最近有名になったのは「カトリーナ」とか「リタ」とか。
世界中にかなりの人数がいると思われるカトリーナさんやリタさんは気分が悪いに違いない。自分の名前が数多くの人を死傷させた原因として連日TVなどで連呼されるのだから。
アメリカ人なら、「私の名前を使うな」なんて訴訟でもおこしそうなものだけれど。長年この習慣が続いているところをみると、皆「そんなものだ」と思っているのだろう。
アメリカでは軍艦や戦車の愛称にも人の名前を付けることがある。「ルーズベルト」とか「パットン」とか。

イギリスでは王様の名前まで軍艦の名称としていることがある。「キングジョージ5世」とか。
王様の名前がついた軍艦が撃沈された場合、王室の方とか国民一般にあまりいい影響を与えないんではないかと他人事ながら心配になる。それとも、他国との戦乱にあっては貴種は先頭に立って戦うべし、というノブレスオブリージュから発想されたものだろうか。例え撃沈されてもそれこそがむしろ王族の誉れ?

日本ではいくら不沈艦という自信があっても、軍艦に「ヒロヒト」とか「ゴダイゴ」あるいは「トウゴウ」なんて命名することはありえなさそう。もっとも我が国の代名詞ともいえる「大和」が撃沈されてほどなく戦争は終了したのだけれど。

やたら台風が上陸した去年まで知らなかったのだけれど、日本周辺で発生する台風にも名前はつけられているらしい。アジア諸国の気象関係者(だったか・・?)が協議して、あらかじめ今年の1号は○○といった調子で動植物の名前などを(各国の現地語の発音で)決めておくらしい。現地語の発音なので大半は何のことかわからないが、日本語のものもあって、去年は確か「トカゲ」という名前の台風があったように思う。
日本の軍艦の名前も大半は山や川の名前や自然現象から命名している。

けれども、欧米人からすると、日本人こそやたらとモノに人名をつけてるじゃん、と思っているかもしれない。
例:車→トヨタ・ホンダ、バイク→スズキ・カワサキ、マウンテンバイク→シマノ、テレビ→ソニー
カワサキやソニーは人名じゃないけれど、かの地では日本人の名前だと思われていると聞いたことがある。(ホントかどうかは不明)

ゆとりなき教育

2005年09月05日 | Weblog
いわゆるゆとり教育の見直しがすすめられている。何十年かぶりに全国統一学力テストも復活するという。

私は小学校の頃の記憶を呼び起こされた。
その頃、知能テストという、知能指数を測定できるという触れ込みのテストを毎年受けさせられた。私はたいがいの場合クラスでほぼビリの順位だった。
先生は、私の母親との面談で、そのテストの結果を示して
「普通の学科の成績はいいのですが、将来は心配ですね」といったという。
(そういう言い方をした教師も許せないが、今にして思うとそのまま子供に伝えた母親もどうかと思う。私の母は「だからもっとがんばって勉強しろ」といいたかったのだろう)
それを聞いて私は生涯初めて絶望を感じた。
将来のすべての道が閉ざされたような気持ちになった。

今は知能テストは実施されていない(されている地域があるのかもしれないが、私の子供の通っている学校ではなかった)ようだが、パズルのような形式のテストには向き・不向きがあって、あのテストで総合的な賢さが測れるとは思えない。

会社や役所で本当に戦力になる人を紙に書かれた試験で選抜することはできないということは、会社や役所にいる誰もがわかっていることではないのか。

紙に書かれた定型的な試験によって人の能力を測ることのむなしさを、豊かになったこの国の人々はようやく悟ったのではなかったのか。

すでに豊かになった後の国をどうやら破滅の淵にまで導こうとしているのは紙に書かれた試験で高い得点をあげる能力は抜群であることを証明できた人たちではなかったのか。

思い出してみてほしい。
学力偏重教育と批判された役人達がいわゆるゆとり教育に舵を切るのにどれだけ長期間を要したかを。
それに比べてその反対のペーパーテスト万能に戻るのがいかに素早かったかを。
数字で表現できないゆとり教育に比べて、テストによる成果の表現(というか出題・採点基準の人為的操作)がいかに容易であるのかを。

スタンプラリー

2005年08月22日 | Weblog
ここ数年、子供の夏休みに、首都圏のJR東日本の駅でポケモンスタンプラリーが開催されています。これは首都圏の各駅に、駅ごとに違うポケモンのスタンプが設置してあり、これを一定数集めると賞品をもらえるという企画です。

はじめは山手線内の駅から始まったのが、年を経るごとにだんだんスタンプ設置駅の数が増えて、地理的範囲も広がっていきました。
今年はついにスタンプ数が100個になり、北は熊谷、南は大船、東は千葉、西は八王子という範囲に。しかも今年から奇数日と偶数日ごとに違うスタンプを設置する駅までありました。

はじめは子供に奥さんが同伴してやっていたのですが、奥さんと子供が郷里に帰っている間に完成させておいてくれといわれ、昨日とおととい、のこり約30駅をめぐりました。奥さんと子供は山手線とかの23区内のおいしいところばかりやっていて、周辺部ばかりが残っていたので、おもったよりずっと大変でした。

前に書いた範囲内でなら乗り降り自由のホリデーパスという切符(2300円)がある(スタンプは改札外にあるのでいちいち切符を買っていたら大変な出費になってしまいます)のですが、これをフルに使っても100個集めるには、まるまる4日くらいはかかりそうでした。(時間制限があって、9時半から始まって午後4時になるとスタンプはしまいこまれてしまいます。平日にもやっているのでラッシュとかさならないようにという配慮でしょうが、土日は延長してもらいたいものです。)

売上にそれなりに貢献してきているからこそどんどん駅数を拡大しているのでしょうが、せめて2日くらいで余裕を持って終われる程度の駅数にしてくれないと親もつきあいきれなくて逆効果のような気もします。また、同じ駅に日によって違うスタンプをおくというのはちょっと行き過ぎかも。

しかし近頃、とみに商魂盛んなJR東日本のこと、駅数を増やすのは限界に近いので、来年は複数スタンプ駅が拡大しそうな予感がします。

生体認証

2005年08月16日 | Weblog
商売をする上で取引する相手が本人であるか否かを確認することは非常に大切なことで、この確認をするために、重要な契約を締結する場合、多くは公的な本人確認方法である印鑑証明を使用します。

私たちの日常生活で最もなじみ深い本人確認の方法は銀行のキャッシュカード(+暗証番号)でしょう。

最近ではキャッシュカードの基本情報を特殊な装置を使って読み取って複製し、暗証番号は生年月日や住所などから推定して銀行預金を詐取するという事件が相次ぎました。そこで指紋や静脈、虹彩などで本人確認をしようという銀行もあります。
しかし、認証するのはしょせん機械なので、しばらくしたら“なりすまし”ができるような方法を考え出す人がでてきそうです。

乱暴で非現実的なアイディアですが、指紋や静脈認証なら、強盗にはいってキャッシュカードを盗んだついで(?)に本人の手首を切断し手首で本人と認証させる、という方法が思いつきます。
似たような話として、トム・クルーズが主演した「マイノリティレポート」というSF映画では、網膜による認証が物語の鍵になっていて、敵に追われる主人公は、別人になりすますために他人の眼球を移植します。

すぐ思いつくアイディアだけにすでに対策はほどこされていて、ある銀行のATMは生きのいい(?)手のひらしか認証しないそうです。つまり血液が流れていない血管とか体温のない手首には反応しないというのです。

しかし、よく考えて見ると、生体認証より暗証番号の方が安全性は高いことがわかります。服や財布の上からでもカードの基本情報を読み取れる機械がすでにあるのですから、認証する機械の仕組みがわかっていれば、指紋、網膜、静脈、虹彩などを読み取り機械に認証させることができるカラクリが開発できそうです。顔や手のひらは毎日他人にさらしているわけで、読み取る機会は財布の中のカードよりはるかに多そうです。暗証番号は本人を脅迫などして言わせる以外に盗み出す方法がありません。(本人に聞かなくても推定できてしまうような暗証番号を設定してしまうのは、自己責任のうちかと)