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或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「わかりやすさの罪」(著:武田 砂鉄)

2021-02-21 15:16:00 | 【書物】1点集中型
 仕事をしているとアウトプットとしてわかりやすく伝えることを常に要求される。理由がない「なんかわかんないけどなんかいい」では成立しない。でもその理由を言葉にできなくて悶々とし、言葉を探し、なけなしの言葉をひねり出しては捨てていく。打ち合わせをすればその場で即、意見や見解を求められる。しかしその場では咀嚼しきれず、あとになってから「こう言えばよかった」「こういうことだったんじゃないか」と思ってみるものの時すでに遅し。そんなことばっかりである。
 いつでも二者択一で話がすむのならこんな簡単なことはない。何かを選び取るためにはそのプロセスがあるわけで、そしてそのプロセスに迷いつつも選ばねばならないという機会は誰にでもある。ものすごくざっくり言ってしまうとそういうことなんだろうと思うが、著者はそんなふうに要約されることを求めている本ではないはずである。そういう本だと思っている。

 理解するなという話ではない。ただ、単純明快に理解できることがすべて正しいということではない。言葉は広がったものを狭めることもあれば、限りなく広がってとっ散らかっていくものでもある。とっ散らかることから生まれるのが人の考えだったり創作だったりするはずなのである。
 そこにある事実を受け入れるという意味での知識なら「理解する」でもいい。いや、それは実は理解ではなくて、言ってみれば「食べる」ことに似ているのかもしれない。口に入れたものを咀嚼し、消化して自分の栄養にするものとそうでないものを分けることこそ、「理解する」ということになるはずなのだ。そしてその手前で「消化不良」を起こすことすら本来、厭うべきではない。リアル書店に行くと買う本をただの1冊を選ぶこともできずに長居する羽目になってしまうのは、知らない言葉に、わからない言葉に囲まれ、時に知りたい欲をかき立てられるからだ。自分の興味・経験に基づくリコメンドから得るものも確かにあり、それを自分が利用していることも知っている。しかし、知らないことや興味のないことを検索することはできない。リアル書店(あるいはもっと広く、街の中でもいい)を歩き回ってしまうのは、それらに出会う偶然にあふれているからである。

 結論を出すことは時に気持ちのいいものだし、時に必要なことだ。しかし、そこにたどり着くことだけを急ぐ必要はないと思っていいということなのかな、と思う。わかりやすいものを求めるのではなくて、わかりにくいものを自分なりに解釈してみる意欲を持ち続けることのほうが大事だ。結論は選んでもいいし、選ばなくてもいい。選んだ結論があるのなら、選んだ理由を自分のものにすればいい。思えば、「よくわからないけどもう1回読みたい」と思う小説って、結局そのわかりやすくないところを自分が求めているからなんだろう。人間の思考とはいつでもシュレーディンガーの猫状態なのだ。


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