デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



バルガス=リョサ(旦 敬介 訳)『ラ・カテドラルでの対話』(上・下、岩波文庫)読了。

読み終えたのは4ヶ月前である。

人はそれぞれに可能な方法で、ペルーから身を守るしかないのだから。

出だし17ページ目の語りかけからガツンときた。なんという絶望だろう。読んでいるうちに、読み終える頃には暗澹たる気持ちになっていそうな予感があったが、読むのをやめられなかった。腐敗した社会の現実を容赦なく描いた作品は読んでいてきついが、下巻の解説で紹介されている、リョサのノーベル文学賞受賞理由の

「権力の諸構造の地図を作成し、個人の抵抗と反乱と敗北を鮮烈な映像で描き出したことによる」

の言葉通りだった。
文芸って読み手の頭にどれほどの映像を「もよおさせる」かで、作品がその読者にとっての衝撃度や評価が決まっていくように最近思う。「もよおす」とは変かもしれないが脳内で生理的に湧き起こってくる映像が豊かで真に迫るものという意味でそう書いたが、読んでいる間に覚える臨場感といっても良いだろう。
『楽園への道』の時にも感じたが、リョサの作品にはアフォリズムや安っぽい現状批判を作中に入れ込んだら傑作小説っぽくなっているじゃないか?などという、あまりにも安易な読者への侮りや作家の自慰は微塵もない。
つまり有名な場面の名台詞やアフォリズムを読者が引用して、作品の全体像として代替させるようなことはできないし、たぶんリョサはそんなことは許さない。
なぜならすべてのエピソードが映像的ゆえ改まった金言や警句の入り込む余地など無いのだ。すべての優れた小説はそうだ、といわれればそれまでだが、この作品も読んだ者しか作品の凄みを感じることはできないだろう。
とはいえ、作品の凄みってどういったもの?と問われると、正直答えに窮する。たぶん、作品の語りの方法が複雑で読者を面食らわせるつくりになっているが、その語りの方法の複雑なところを駆使して、作品が採り上げた時代のペルーを多面的な映像として読者に「もよおさせる」ところが凄みの一つかなと思った。
実は、読んでいて、「この人物の唐突な話題転換がどうしてここで?」みたいなことがしょっちゅうあって、作者のミスかいな?編集者のミスか?などと思った。でもそれは読者に、登場人物たちの過去と現在進行形の現状を映像として反復して捉えるさせるテクニックが用いられているからであって、個人的には時にL・スターンの『トリストラム・シャンディ』や20世紀以降の「意識の流れ」文学の手法もふんだんに取り入れた感じがしていた。
リョサは作品の緒言で

「これまでに書いたすべての作品の中から一冊だけ、火事場から救い出せるのだとしたら、私はこの作品を救い出すだろう」

といっているが、この言葉には実験的な意欲作として作品に心血を注いだ思い出と自負も伴っている気がする。



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