デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




道なりに瞻星台の方に向かっていると、それらしい通り抜けられそうな舗装路があった。


広いところに出た。
日曜の雰囲気だなぁ。

中国で見かけるような石碑と古めかしい建物に目が行った。石碑の真ん中の部分は現代の技術で補ったものだろう。
石碑は前人の勲功を後世に伝えるために、堅石に文を刻み建てられるものだが、


觀瀾李先生倡義碑

とある。觀瀾というのは称号だろうから、要するに李先生が倡義(唱義)したのを記念する碑なのだ。
では李先生がどういった勲功をあげたのか?


解説はハングルでなされていた…

李先生については後ろの汶湖社という建物とともに解説があったが、ハングルでなされていた。
解説板によると李先生の正式な名前は李承曾(イ・スンジョン)で、そのあとに李承曾の勲功が紹介されている。私にはきちんと読みこなせなかったが、ここに述べられている
宣祖 25년(1592) 임진왜란이 발발(勃発)
というのは「宣祖 25年(1592)・壬辰倭乱(イムジヌェラン)が勃発」という意味なので、李承曾が、豊臣秀吉の命令を受けて朝鮮半島に上陸した日本の大名や武将と関係するというか、ずばり彼は第一次朝鮮出兵・文禄の役で朝鮮王国側の人間として戦ったことが分かる。


汶湖社(문호사,ムンホサ)

汶湖社は、朝鮮中期の性理学者・觀瀾(称号) 李承曾(イ・スンジョン)先生の書院遺跡地で、ここで忠孝精神を(門下生?)らに教え、〔思想を〕唱え続けた。
李承曾は新羅の佐命功臣・諱謁平の子孫で、司馬両試という難しい〔国家〕試験に合格したものの国からの官爵を固辞しつづけて、〔この場所で〕後進育成に専念したが、第一次朝鮮出兵・文禄の役(壬辰倭乱)が勃発すると、78歳の老齢にもかかわらず慶山慈仁で(国難に際し)義兵を起こし、敵陣を大いに打ち破った。
そして、大邱地方の士林〔派〕に「〔お前たちは〕忠義や忠孝心しか言ってないが国の危機なのになぜおとなしくしているんだ!?」と檄文を発し、それを読んだ大邱とチョンドの民が発起し共に郷土を防衛した。
李承曾は85歳で亡くなったが、王国が葬儀を営み、士林〔派〕は彼の祠を建て祭享を行なった。
彼の子孫?は李承曾の思想の内容の写本を収集し、1821年に「觀瀾・李先生文集」を出版した。
(※義兵とは外敵の進入に際し、国家の命令や徴発を待たずに自発的に立ち上がった民兵をいう。)
(あくまでハングルについては素人以下なので、この大意は誤った訳および意味になっている可能性があるゆえ、そこは自分で調べてやろうという気概でいていただきたい。できれば、詳細について、李承曾が処士なのかどうかも含め、ご存知の方からさまざまなご指摘をいただければありがたい。)

解説板の内容の大意としては、こんな感じだろう。
つまり、石碑の内容は「觀瀾・李承曾が国難に際して義兵を起こした碑」ということになる。また觀瀾は中国の孟子の言葉で「水を観るに術あり、必ず其の瀾(波)を観るべし」からきていて、流れを見極めることを述べたものだそうだ。
ちなみに、性理学というのは、朝鮮王朝の党派の一つである士林派(サリムパ)が政治力学の根本に置いた学問というか思想のことだ。朝鮮朱子学とも大いにかかわりがある学問だが、朝鮮出兵で捕虜として日本に連れて来られた儒学者が「朱子学」を日本にもたらしたこと、「朱子学」と目にするだけで学校で習った林羅山や新井白石といった名前とともに江戸時代の学問のことが頭に浮かぶ方もおられよう。
これらの内容は帰国後に調べてみて分かったことであり、現地では「1592年」と「壬辰倭乱」ぐらいしか分からなかった。
ただ、これまで豊臣秀吉の時代の朝鮮出兵で半島に渡った日本側の武将たちについては関ヶ原に行ったきっかけから、それなりに知ってはいたが、朝鮮王朝側の将軍や武将は、義兵を強化し水軍を率いた李舜臣(イ・スンシン)と、本の中で少しだけ紹介されていたことをかろうじて覚えていた「紅衣将軍」郭再祐(クワク・チェウ)しか知らなかったこともあり、李舜臣や郭再祐以外で勲功をあげた現地の思想家・学者縁の建物や石碑を目にすることができていたことは、本当に貴重なことだったと思うのである。


凧がたくさん上がっていた

やっぱり木に引っかかって
取れないものもあるわな(笑)



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