Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ザーレ河の狭間を辿る

2006-12-25 | 文学・思想
トーマス・マンの「ファウスト博士」の第11章は、作曲家ヘンデルの故郷であるハレ市と大学を舞台としてルター派と敬虔派の争いを扱う。前者の組織化された教会とそれを再び改革しようとする所謂ロッテルダムのエラスムスの一派の流れの争いを簡単に描いている。

前者が解放後直に硬直化して行き、物乞いがパンを一欠片求めることすらなくなった状態と、後者の歴史的に啓蒙主義へと繋がる再び訪れる救世を歓迎するか、不幸の使者の常習犯とするかで意見が分かれるとするが、「マルティン・ルターが再び教会を設立しなかったならば人類は多くの血を絶え間なく流すことはなかったとするには、異議は無いであろう」とする。

そこでは、神の仲介信仰は否定される一方、神の啓示や伝統的解釈学は引き継がれ、救済と犠牲は宗教の学問となるとされる。後者の平和なヒューマニストが聖杯を引き渡すことが無かったのに比べ、宗教に理性の基礎を置くルター一派の信仰は啓蒙主義の中で力を失う。

実際ルターは、ハレのルネッサンス的人物クロトス・ルビアニスを指して、マインツの食道楽司教のヒキガエルと呼び、洗礼した悪魔の豚野郎と攻撃している。

ここでトーマス・マンは、アドリアンの友人である語り手に、しかし敬虔主義者(メソジスト)の平和主義は、宗教を人類のヒューマニズム機能として格下げして、宗教の恍惚と逆説を薄めたものだ語らせている。

こうしてこの章で描かれるのは、ルネッサンスからバロックへの流れを象徴する記述でもあり、専制君主制から啓蒙主義へと、教会からの解放から社会の中での個人の独立、主観的横暴と客観的規約、神学と信仰、教会と主権国家の論争を想起させる。そしてそれは、この文芸作品の主題である大命題を扱うに留まらない。

当然の事ながら、人生哲学・不合理主義と組み合わせられた神学は悪霊崇拝となる恐れがあり、「馴染みの無い不気味な感情」はそこでは初めから退けられることになると言うのが本題「ファウスト博士」である。

クロトスに関してネットで調べたりしていると、死去した連邦前大統領ヨハネス・ラウ氏が敬虔派の説教をしていたことが触れてあった。なるほど、氏ならば食卓でお祈りをしそうであり、他者の「不気味な感情や生活臭」に対して寛容を呼びかける信条を繰り返し公にしていたのが合点がいく。だから、そういう少数派の傲慢さであっても、寛容の心をもって受け入れる事が大切であるとなるのだろう。

人物名やその交差する信仰の記述は、事情通でないと分かり難いが、現在のネットサーチ機能を使うと、著者がおそらく時間をかけて確認した事項を容易に辿る事が出来る。過去に訪れたか若しくは地元通から取材をした中欧ドイツを流れるザーレ河畔の嘗ての敬虔派の牙城ハレ市が前後の章でも描かれている。

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2 コメント

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エラスムス (やいっち)
2006-12-25 06:23:26
小生、ようやく第30章です。
ところで、車中では渡辺一夫氏の本(ちくま文学全集の中の渡辺一夫氏の巻)を読んでいるのですが、まさにエラスムス(とカルヴァン)についての文章の真っ最中。
イラク事情を思い起こしつつ、宗教対立の凄まじさを改めて感じているところ。


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形を変え脈々と生きる思潮 (pfaelzerwein)
2006-12-25 18:11:19
前半に長い時間をかけすぎて、間延びしまっているので、こうして振り返っています。ただ後半は運び自体が随分と加速している感じで、音楽で言えばスケルツォ楽章といった按配です。私も年末年始で追っかけます。

確かにこれを読んでいますとエラスムスに地域的に近いカルヴァンに意識が行きます。バロックへの移行と云う美学的な興味もあるのですが、こうして触れられる思潮は、全て現在でも形を変えて脈々と生きているのに気が付きます。

例えばマックス・ヴェーバーの近代の解析は、現在でも批判的に利用されますが、ここで描かれる魔女裁判へ流れと同時に現代のパシフィストへの流れなども興味ある事項です。
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