Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

芸術家先生の言い分

2006-12-21 | 文化一般
一昨日の「イドメネオ」の再演の評が掲載されている。最後に纏めておく。赤絨毯でVIPたちが語り合い、招待に応じた一部のモスリム文化人のばかばかしい反応が描かれている。

ある社会学者は、「印象的でした。愛をセンシブルに描き、古代宗教の生贄を批判するときです」とコメントする。まるでどこかの首相のオペラ批評のようである。挙句の果てに「なぜモーゼの首が無い」と言う輩まで登場して、まるでイスラム長屋の花見風景である。

常連の音楽批評家は、モーツァルトの音楽さえ良ければ救われたのだがと、「大胆に、オペラセリアの遺物に憑かれたような作曲の息使いは、ここのオーケストラから僅かなりとも聞くことは出来ず」、総歌手陣も失望させるものであったとして、臨席しなかったハンス・ノイフェルスの演出を、「ごつごつと場面から場面へと、練習不足とか十分に練習したとかよりも、 つ ま ら な い と極評する。

VIP臨席の政治家達は、「いやー、素晴らしい音楽ですなー、保守的な演出で変化に富んでいて宜しいですな」、「スキャンダルにならなかったら、まあこうしてここには居なかったでしょうが」と語る。

一方、何を嫌ったのか、臨席しなかった演出家は、先月末にインタヴューに答えて居る。コンピューターゲームの規制処置を聞かれ、そのエロ・グロ一元論と芸術の「美と醜悪」との二元論の相違を語る。どうも、この芸術家にとっては、自らも言うようにキルケゴール的発想の飛躍が大事そうな。つまり、イドメネオにおいても「その絶望の経験と回帰とのバランスが大切なのだ」とする。

「イドメネオの凶暴性を回復させるには、最後のあれが大切なのです。最後の最後で、一寸もう一度脳を開いてみる。するとですね、ほら、キリスト教の旧世界にもです、芸術が再び戻ってくるんですね。絶頂のレズメーですよ。こうした現象こそが、しばしば我々が説明を探しているものです。なぜ起こったのか?なぜにまたそれが起きえたのかとね」。

そして、「芸術を楽しむ事などは出来ません。メッセージと同じで、突然の認識の出現を齎すものなのです。そこから、カタルシスとして名づけるものが生まれるのです」としてギリシャ悲劇を例とする。

しかしギリシャの民主主義が誤って捉えられているとして、現在では「誰でもが、ネットで写真や詩を発表するような風潮は危険です」と言う。

こうした芸術家先生を税金が育てる事を我々は、認知しなければいけない。そして、こうした芸術・文化政策と社会構造を上のような政治家の手に任せる事が出来るのだろうか?

「イドメネオ」のミュンヘンでの初演に備えて、創作者の父レオポルドは息子に向けて、1780年12月11日に手紙を認めている。「音楽通だけでなくそうでない者を考えて作曲しなさい。10人の 耳 利 き に対して100人の 素 人 が居るのです。ポピュラリティーを忘れてはいけませんよ」と、いやに妥協なく作曲に打ち込む24歳のアマデウスに対して、また支払いに応じて曲から曲へと小出しに仕事を進めるようにと、ステージパパ振りを示している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする