Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

キルヒホッフ税制の法則

2006-12-24 | マスメディア批評
先日、公認会計士と話していると、米国経済の問題が一部で盛んに述べられているのが知れた。また、先日のFAZ新聞は、日本の一般消費についても触れており、その伸び悩みと、稀有の財政赤字に苦しむ東京政府の思惑が述べていた。

国家財政となると、最近あのハイデルブルクの税法の専門家キルヒホッフ教授の話題が再び取り上げられていて、氏の学術的意見は重要な指針となることが間接的ながら示されている。

メルケル首相の懐刀として、その足を引っ張り、尻尾切りにあった教授であるが、その言動や実行者として指名された事がそもそも間違いで、担ぎ出されて悪乗りしてその不適正を示していた。

教授の意見は、その国家観として、カール・シュミット、カール・マルクスやミルトン・フリードマンを思い起こすことが必要になるという。例えば、小さな国家と云われるものの中には、議会制度も含まれるようで、代議士数の半減と無給化が含まれている。それは、現在のロビイスト政治への批判であって、この三十年ほどの間に三倍にも増えた国政への正式な圧力団体の数が挙がる。それは、量の問題だけで無くして、現在進行しているような健康行政においても、代議士がなにも十分に理解出来ていない質の問題として、また専門行政官僚の肥大化と専門化が挙げられる。さらに、かれらは、ロビイストとの協調作業者であって、有権者の二パーセントにも見たらない党派性に比べて、行政担当者である官僚の八割が党派性を有している歪な構造を指摘する。

その解決方法として、おそらく市井の専門知識を有した代議士がそのままロビイストとなり、圧力団体の代表が代議士となる議会構造が契機される。強固な地方分権が確立した連邦政府システムの中では、国民投票を組み合わせる事で可能なように思えるがどうであろうか。

問題となった腐敗肉の規制処置などに関しても、行政の介入は費用を投資するだけの結果となるとする。また、憲法裁判所以外に誰が行政権を監視できるのかと代議士自体が疑惑をもっている行政権限制限の必要性を、現状をもって語られる。

これらの言及で語られるリベラリズム自体は大変結構なものであり、自ら不透明さを増す国家権力構造とその行政権を把握するためにも、また今後の指針とするにも、少なくとも税制の専門家には、氏の著書は読む価値の十分にあるものであるようだ。

しかし、総選挙当時恐れられ、毛嫌いされた氏のニューリベラリズム傾向は、こうして読むと、明らかに経済上での対案が欠けている事から生まれた結果であった。消費社会を肯定的に扱う経済システムでは、氏の主張する無駄の無い、効率を回復できる、見通しの利いた簡素な社会システムは不可能なようにしか思えない。

消費生活とグローバリズムの体質は、生活の質の低下を招き、文化の質的肥大現象であるとするのが、ここでの一貫した意見でもあり、小子化現象のように、その消費はある転換点を持つのが自然の秩序であると思われる。
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