Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

現況証拠をつき付ける

2006-12-17 | マスメディア批評
マルク・ジーモンスの筆は、日本刀のように鋭く磨かれているわけでも、中華刀のようにしなやかでもない、ただ視界が良く効いている。そこから、極東が手に取るように恐ろしくつぶさに見える。

中華人民共和国のCCTV2で、大国の勃興を描いた教養シリーズ「大国の興亡」が大々的に放映されていると伝えている。そこでは、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、日本、英国、ドイツ、ロシアにアメリカが描かれて、中国がここに何時の間にか仲間入りしている番組と云う。

ただの技術産業冷讃主義の告知なのか、暗礁に乗り上げた民主主義への認識を扱っているのか?と訝しげに胸中を覗いている。そしてふと思い出すのが天安門民主革命騒動に多大な影響を与えた「河の嘆き」の黄色い中国文化と青い西洋文化の交感である。そして今回のシリーズは、そのような反体制的どころか多かれ少なかれ政府の立場を代弁していると云う。

この番組は、エール大学のポール・ケネディー教授の同名の著書が下敷きとなり北京大学のシャン・シェンダン監修によるもので、数多くのインタヴューや影像を七つのチームで長期に渡り取材して制作している。そしてここで、中国の「勃興」が政府の公式見解である「発展」に代わって掲げられてきていると云う。

つまり、嘗てのように驚きを以って西洋の改革に学と云うのではなくて、その過ちから学ぼうと云う。であるから、プロレタリアートや非植民地としての視点は消え失せて、虐げられた階層や文化のルサンチマンではない、大国の歴史を刻む心がけを定めている。

そこで、19世紀の初頭からドイツ帝国の統一と成り立ちが、大きなお手本となっていると云う。先進国に遅れをとったドイツは、植民地主義者の春秋として、近隣国との軋轢の中で、関税同盟を実現したフリードリッヒ・リストを称える。そこでは、カール・マルクスは一言も述べられない。

ビスマルクの強力な指導の下、軍事強化し、強いプロシアを実現して、議会を相対化する彼の憲法が紹介される。ビスマルクの思慮深さは、その教育・大学そして社会政策と共に肯定的に光が当てられ、最後にナレーターは「ビスマルクは、遅れて発展する国家に対して、発展のモデルを提示した。どうすれば先進国を追い越せるかと云うモデルである。」と語る。

そして、彼が居なくなったあと、軍事の抑制と見解は失われ、戦後の西ドイツになって始めてそれが克服されるとして、ブラント首相がワルシャワで跪く姿が映し出される。一欠片の第三帝国の影像だけで東ドイツは完全に無視される。

この番組のインタヴューに顔を出す歴史学者ハインリッヒ・アウグスト・ヴィンクラー氏は、FAZの質問に答えて、「一年前の事だが内容は確認出来ていない」として、「判り辛いドイツ語で質問があり、虚飾されたドイツ像の真意も直接に感知できるものではなかった。」としている。「現在のEUの東方政策や対米国への態度をして、多種多様な言論に重きを置く西側を示した。」が、どれほど採用されたかは知らないとして、その制作の意図も分からず、ビスマルク像は私の見解とは正反対であるとする。

中国人がそこから何を学ぶか?それは、経済協力の重要さ、教育、技術革新、社会制度、平和な環境への価値観と現実と矛盾しているものも多い。

19世紀のドイツ統一は、同時に独立国家とその憲章の制定であったとして、「これほどまでに後進国がホモゲニーな力をもった例は無い」として番組は終わる。

ジーモンス氏は、中国が如何に外から見られているかと云う現況証拠となっていると結ぶ。

そして、ヴィンクラー氏は、「多政党主義が西洋の力であり、人権と市民の権利が西側の政治要素である。」ことを強調して、その破局を指して、

「確かにドイツの近代化の一部は、独立国家の創設によってなされたが、同時に 上 か ら の 改 革 は、その内部構造ゆえに他の先進国に比べ改革を遅らせて、重い担保となった。」と答えている。

改めて、ここでその内容を繰り返す必要は無い。ただ一言、この記事は極東の現況が良く見えている者にしか書けない内容である事を付け加えておく。



参照:
ポストモダンの貸借対照表 [歴史・時事] / 2005-09-02
終わり無き近代主義 [文学・思想] / 2005-09-03
世界の災いと慈善活動 [ マスメディア批評 ] / 2005-11-29
革命的包容政策の危機 [ 文化一般 ] / 2006-10-11
三角測量的アシストとゴール [ 歴史・時事 ] / 2005-07-01
野蛮で偉大な時の浪費 [ 歴史・時事 ] / 2006-12-06
「黄禍」の真意 [ 文学・思想 ] / 2006-10-12
古くて新しい赤い賄賂 [ ワイン ] / 2006-11-21
温暖化への悪の枢軸 [ マスメディア批評 ] / 2006-11-17
俺のものは俺のもの [ 歴史・時事 ] / 2006-05-26
脱資本主義へのモラール [ マスメディア批評 ] / 2006-05-16
根気強く語りかける [ 文化一般 ] / 2005-11-17
神をも恐れぬ決断の数々 [ マスメディア批評 ] / 2006-11-22
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自由システム構築の弁証

2006-12-16 | 雑感
国境を跨ぐ大停電は、去る11月4日に起こった。それに遭遇していないのであまり個人的に関心がなかったが、世界的に大報道された。

一次的な原因は、ノルウェーの豪華客船がエムス川で高圧電線を切ったことには違いないようだが、技術的・組織的に大変興味のある背景がある。

欧州23国に電力を配給する上部組織UCTEの事故最終報告はまだ一月ほど掛かると云う。しかし、それに先だって今週その当時者であるEONなどのドイツ電力会社が闇カルテルで、一斉強制調査で踏み込まれた。その背景には、来年からの本格的電力配給自由化に伴うEUストラスブルクの思惑があるらしい。

容疑は、2000年当時に供給過剰となっていたので、上部ネットからの配給制限を自らで規制したことにあり、現在においても需要と供給による自由競争市場が機能していなくて、上部ネットへの優先権などが存在していると云うものである。

つまり、穿った見方をすれば、安定供給への緊急処置などのための十分なネットの構築を故意に怠っている可能性もあると云うことである。上の事故では、現場の対応が十分出来なかったので、風力発電機能は補助として役立ったが、原子力発電供給が速やかに対応出来なかったと云う。50ヘルツから49ヘルツまでに、周波数が落ちたと云う事情は、一度技術的に詳しく調べてみたいと思う。

技術的な興味を除くと、何よりも市場の自由化こそ最も厳格な市場秩序が必要と云う、まるで高等学問の基礎の基礎のようなシステムへの思惑へと興味が移る。偶々、開いたマンの「ファウスト博士」の頁は、作曲家シェーンベルクをモデルとするアドリアンの思索が語られている。

そこにあるのは、「自己規制による束縛は、つまり自由である」とする「自由の弁証」と呼ばれるものである。もちろんここでは、調性から解き放たれて12音を等しく使った音楽のシステムを捉える構造主義的な思考への契機となっている。

しかし、こうした高等な議論と社会システム構築は本来異ならない筈なのだが、現実に駆動する社会を導く構成員は別次元で動いており、とてもまだまだ非構造主義と云うような次元には至っていない。やはり、フランクフルト学派のホルクハイマーやマンと同じくして米国に亡命中のアドルノが著した「啓蒙の弁証」を指す、現代の大衆高等教育の問題にあるのかどうか判らない。

昨晩就寝前に、そのシェーンベルクの第一次世界大戦を挟む時代の作品に耳を傾けたが、古典的なライボヴィッツなどの解釈にも、こうした視点から見ると、その悪評だけでなく、その意義に思いが至る。

新しい仏教と音楽理論に将来があるとする「雨をかわす踊り」のstone-mountainさんの観想なども、それらの抽象的かつ具象的で主観と客観の全体性でなるほどとも思わせる。実際には、数学などの自然科学がこうしたシステム構成と思索に最も適しているのだが、それを高等に解釈出来る一流の学者が少ない事が問題の様である。
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虚業に群がるスパム

2006-12-15 | SNS・BLOG研究
ろくでもないスパムトラックバック対策で、認可後の公開とした。トラックバックを消去する作業は同じ仕事量で、必ずしも気持ち良く一網打尽とはならない。

それ以外のトラックバックだけを選べるようになっているのならば、スパムメールを放置しておいても良いのだが、何れ掃除しないと必要なトラックバックを見落としてしまう。明らかなスパムアドレスにも拘らずフィルターをかけずに対策をせずにサーヴァーに負担をかけるのは愚の骨頂である。

電子メールには、有料のフィルター機構があるがそれを使わずに自分でフィルターをかけている。しかし、これも限がないので、ホームページの公開アドレスの@マークをようやく文字に書き変えた。これで何れはスパムメールも減少すると期待している。

それにしても、ひと目見るからにスパムと分かるようなトラックバックやメールはなんらかの価値があるのだろうか。それも保留として公開される事が一度もないとすれば、ただの迷惑な嫌がらせと云うほかない。

こうした現状を見るとネットビジネス自体が、只の虚業でしかない事が知れる。
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ワイン山のセレクション

2006-12-14 | ワイン
ワイン山には、未だに多くの葡萄の房が残っている。これを専門家は、ゾンマートリーブと云う。これは、夏の剪定が済むと新たに房が成長して大きくなるものを指す。

つまり、今年のように雹の被害などで八月の剪定が大掛かりに行われる必要があると、葡萄の幹のエネルギーはこれらの新たな房に集まる。今年は、それらが特に目立つ理由である。

さらに、今秋の記録的な暖かさは、その房にさらにエネルギーを与える事となった。しかし、それらは夏の陽を十分に受けているのではないので糖価は高まらない。

それらの房は、冬の鳥の餌になるのだろう。すると、鳥の繁殖が進み、生態系に影響を与えるだけでなく、鳥によってそれらの種は運ばれるのだろう。つまり、植生にも影響を与えるかもしれない。

こうした思考を進めていくと、なるほど進化論などと云う発想に行き当たる。しかし、その天候を左右すると云う間引きされる人類は進化するのだろうか?
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極東の世襲政治の様相

2006-12-13 | マスメディア批評
アンネ・シュネッペン記者の朝鮮半島関連の記事を二つ読む。十月末、十一月末と二回、別々に掲載されたものである。彼女の日本関係の記事をここで評価して取り上げる事は殆どないが、両記事ともソウルから朝鮮半島を取材対象としていて極東の構造を良く示している。

一つ目の記事は、北朝鮮の観光特区「現代パーク」に作られたゴルフクラブと温室の取材である。高額の料金を払ってここを訪れる朝鮮の南の同胞は、ピョンヤンのエリート芸術家のばかばかしいサーカスを見物して、目に涙をして貧しい分断された縁者を優越感を持って哀れむのである。国境から僅か20キロメートルしか離れていない有刺鉄線と地雷に隔たれたこの資本主義の飛び地は、秋には金剛山の山陰となり、ハイシーズンを向かえる。しかし、流石に今年は核実験がなされて半分ほどはキャンセルされたという。そして、制裁に寄与しないとして、北朝鮮の外貨稼ぎに貢献しているサファリパークのような市民生活から隔離された、この施設は米国や南鮮タカ派の批判の矢面に立つ。

二つ目の記事は、浮浪者且つヒット曲歌手、大学教授などありとあらゆる職歴を誇り、自殺未遂の常習者である、李王朝最後の朝鮮王高宗の第五子義親王李堈のその十一子ソエク氏への取材である。つまり梨本宮家の、嘗ての裕仁天皇のお后候補方子は、氏の祖母にあたり、兄嫁となる松平よしこ夫人から鍋島家なども遠縁となる。その職歴には、米国での皿洗いやベトナム戦争での従事が含まれて、近年KBSでその波乱万丈の歴史はドラマ化され、本年はセミナーツアーで日本を訪れたとある。おそらく日本では、ブームとなって有名なのだろう。金が入れば酒と女に全てつぎ込み散財する兵を自称する一方、「日本には今でも天皇制があるのに、我々は象徴を失ってしまっている。」と嘆く。朴独裁政権下では売国奴と罵られ、さらにチョン軍事政権下にはその王朝の歴史の一部を放棄されるなど苦汁を舐めて来た様である。しかし最近は、朝鮮王朝の伝統を観光資源として復活させようとする風潮があるらしく、実の姉との正統派争いが過熱しているとある。

放蕩貴族と放蕩独裁者が割拠する朝鮮半島をこうした視点から眺めると、極東の社会の一面が見えるようである。朝鮮半島が大統領制から立憲君主制に逆行するとは誰も思わないが、南の共和制が軍事独裁政権時代をようやく終えて、民主的な手段が機能してくると同時に、世襲制度となった共産政権がいずれ南朝鮮と統一されるとするとき、こうした伝統への回帰が回顧趣味としてが浮上してくるのが面白い。

その国境から遠くない雪嶽山への基地・束草市の砂浜を、朴独裁政権下に散策した事がある。水平線上には、海岸を監視しながら駆逐艦が白波を立てて過ぎて行く、日本海へと何処までも広がる美しい海原であった。旅行中スパイ警戒からカービン銃を何度も突きつけられて、山岳観光の地へとやってくると、ひなびたお土産屋さんや、シューウィンドーに生きたマムシをびっしりと詰め込んだ蛇屋さんがあった。食事を摂った店の地元の爺さんが、一週間の滞在中唯一皇国仕込みの綺麗な日本語で話かけてきて、シイタケ山菜飯を勧めてくれた。

極東だけに限っても真ん中の帝国を中心に永い交友の歴史が存在して、その歴史の一頁として位置付けられる暫しの出来事として、上述するような政略結婚や世襲政治が束の間の時代錯誤として映るのか、それとも今後も末永く繰り返されて行くのかどうかは定かではない。



参照:
Von Anne Schneppen
"Im matten Glanz der Diamantenberge" vom 30.10.06, FAZ
"Der Prinz fährt U-Bahn" vom 25.11.06, FAZ
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煙に捲かれる地方行政

2006-12-12 | 生活
嫌煙権の行使は、健康のための当然の権利であるが、その実施を司る監督官庁の権限となると、公共の場所によって様々である。鉄道や飛行場の管理は連邦共和国が管轄する一方、学校や飲食店などは連邦州の管轄である。

バイエルン州などは飲食業でも喫煙出来るようにと考えており、州によってかなりの違いが出てくる気配だ。大麻や覚せい剤などを含めて嗜好品は、個人の責任で社会に害をかけない限り、個人の問題である。だからこそ正しい基礎教育たる義務教育が必要となる。

連邦制談義に関連するが、個人の自由を公共のために制限する事が必要とすれば、出来る限り生活と身近なところで法案として制限するのが正しい。もちろんショイブレ内務大臣のように公共の健康と公衆衛生と云う点から、「連邦政府が一括して秩序を維持するべく決定するのに憲法上何の問題があろうか」とする意見も存在する。

しかし、自己の健康を守るのはあくまでも個人の問題で、喫煙を制限するためには自己の環境に嫌煙権を勝ち取るべきものである。つまり、地方の問題であるべきだと考える。

ブリュッセルのEUは、ベルリンの議論に圧力をかけて早期の完全実施を促すが、自らが自らを御す法律である限り、そうした圧力を気にかける必要はない。

地方文化予算の話題をラジオで聞いた。バーデン・ヴュルテンブルクは、その四分の一を占める劇場と管弦楽団の援助を切り捨てるべきと声明した。ここでも何度も語っているが、社会的にも芸術的にも今の現状では、残念ながら到底四分の一の価値は無いとしか云えない。不必要な分は、商業的に成立するエンターティメントに任せるべきである。
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ファウスト博士の錬金術

2006-12-11 | 
音節と歌謡は、リズムとなる。先日の「ファウスト博士」のアナリーゼは、ミサソレムニスへの講釈となって行く。そこで、米国人「クレッチマー」の講演は、ベートーヴェンのフーガについてが主題となっている。そのアドルノがアドヴァイスしたと云われる内容について態々議論する過ちは避けるべきと思われるが、端的に云えばここでは多声音楽は高度に思弁的で数学的な音楽且つ宇宙の摂理と見做される。

そして多声音楽の手本としてヴェネチア楽派の創始者ワレアスとフランドル楽派でイタリアで大活躍したジョスカン・デ・プレが唐突に引き合いに出される。しかし、これは、前者が二重四声合唱の作曲家として有名で、マルティン・ルターが意識した中世からルネッサンスへの橋渡しとなる転機にあった音楽芸術を指して、特に後者の事を「楽譜の巨匠」と呼び、「他の者は楽譜がなるようにしかなすすべが無かったが、彼の思う通りに楽譜はなり」との絶賛が、錬金術的に混合されている。

先月から一月ほど、最古のレクイエムであるオケゲムの作品に興味を持っていた。そのあまりに巧妙に組み合わされた多声の書法から生まれる強力な和声的表出力と圧倒的な表現を語るには及ばず、そしてここに来て、オケゲムの手練手管の技法を自由自在に扱い新境地を開いたジョスカン・デ・プレの処女マリアに纏わるミサやモテットへと目を移した。

中世音楽のメリスマと云う音価を伸ばしてコブシをまわす技法は、あらゆる声部の組み合わせを可能にして多声音楽を構築して来た。そして、その機に及んで、歌詞の音節がシラブルとして区切られて音化されることで、初めてテクストが音楽が共に意味を持つ事となる。つまり、受け継がれて来た固定旋律も細かく分けられる事で、初めてテキストのシラブルに綺麗に当てはめる事が可能となる。

要するに、テキストによって曲のフレージングの頂点が形成され、こうして圧倒的な表出力と共に、「音節が明確な歌詞」の意味が再び顧みられる。楽譜は出版されるようになり、「音楽かテキストか」の議論は近づいて来る。

しかし何よりも、こうして述べると、少しなりともクラッシックの特にベートーヴェンの芸術に関心があるものならば、最も焦点となる楽想の分割に気が付くのであろう。そして、そこには中世における完全な三分割から不完全な二分割へと進んで行った過程がある。

さて、ジョスカン・デ・プレの音楽はこうして大変リズミカルで軽妙な表現力を持ち得て、ベートーヴェンは多声音楽の技法ではなく、そうした楽想の処理技術をもって偉大な表現を獲得するのは分かったが、「クレッチマー」の言及ではジャスカン・デ・プレらの位置付けが欠損している。ただ短く、「ベート-ヴェンは儀礼から世俗への解放の時代からは遠く隔たっている」と、当たり前のことを述べて行を埋めている。

ジョスカン・デ・プレからシュトルツァーへと引き継がれさらにバッハへと、若しくはルターを通しての中部ドイツの宗教改革の音楽の流れを見ることは、同時にルネッサンスのヒューマニズムの芸術と解放の芸術を平行に見据えていく事にもなりそうである。

ヨハネス・オケゲムは、眼鏡をかけた人物とみられ、その死を弔って曲を捧げたヒューマニスムの芸術家ジョスカン・デ・プレの影像は、法被りをしたものしか無い。しかし、この二人の巨匠の芸術は人類の至宝であることは間違いない。
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帰郷のエピローグ

2006-12-10 | 
聖母受胎の日が過ぎて、一度この辺りで触れておかないといけない。W.G.ゼーバルト作「目眩」の最後の章「帰郷」のエピローグに、ピサネロの幼子を抱えたマリア像の『聖母子と聖アントニウスと聖ゲオルギウス』が描かれる。

これはゼーバルト本人の故郷帰りが土台となる最後の章で、作者はそこで都合12月初めまでの丸々「死の月」の11月を過ごす。

1987年、ベローナ、南チロルからブレンナー峠を越えてインスブルックで乗り換える情景に始まり、終景で夏から過ごした大陸での日々を振り返りながらのロンドンからイーストアングリアへの列車の風景まで、数多に余る言葉の観念連合で綴られる。

故郷での昔話を真ん中に挟む形で、またその中に壁画や回想などの中間構造を挟み入れる。その効果の程は、しかし残りの三章を読まないと判断出来ない。

ロンドンをまるで旅行者のようにナショナルギャラリーからリヴァプールステーションの方へとふらつき、そしてチューブに乗る。人構わずに唐突に繰り返される「マインザーギャップ」の警告アナウンスの響く地下構内から、あの古い作りの煤まみれの駅舎 ― 先日のブレアー発言で奴隷による成果として挙げられた ― へと登ってくる。そこのシャルターに座る黒人女性を観察して、重くゆっくりと動き出すブリテッシュレールの列車の人となる。そして、誰もが一度見ると忘れ得ない、線路脇のロンドンのレンガ造りの光景に、しっかりと都市の時をみて、草原や垣根の広がる郊外の景色が見え出すと、再びアルプスの奈落の光景へとトリップする。

早朝の中小大都市インスブルックのターミナルの風景は、イン河沿いを走行した後、幾ばくかの広い谷間を耕した牧歌的な車窓の景色となって行く。折りからの天候に藁は濡れ、実りの薄かった夏を、交通量の少ない山の中を走るバスの同乗者の生活に見る。バスは、険しい山肌を回りフェルンパスへとかかる。子供の頃にメルセデス・ベンツD170 で家族と走って馴染みの湖を通過して、ガレ場の落ちる断崖絶壁の広い谷に挟まれるような緑の耕作地に牧畜を見る。バスは、途中次から次へと乗り込んできていた多くのチロルの女たちを、漸く昼前に到着したロイッテで下ろして、方向を変えて再びタンハイマーの谷へと入って行く。

英国の風景もフェルンパス越えも、各々を知っている者にとっては人事のように思われない光景である。そして、幾つも差し込まれる具体的な情景の数々は、読者に必ずしや特定の記憶を呼び起こし、そのエピソードを遥かに越えた物語が自ずと溢れ出すに違いない。

それはまた、故郷を後にしてヘックファンホーランド経由で英国への帰路に付く作者が、ライン平野の色づいたブドウ畑を描いて、ここから北へと「北海道の北の端」を越えるのだと、またはハイデルベルクで若い女が列車に乗って来てプァルツ伯への若いエリザベスの嫁入りが語られる叙述に、偶々そうした地名の記号を乱用しているのではなくて文化の記号を持った数多の用語が選ばれ且つ散りばめられているのだと理解出来る。

また故郷での中間部分には、シュナップスや土地の風習の記載だけでなく、シラーの「盗賊」の上演を挙げて、さらに謂わば ― たとえ其れが作者自身の家族についてだとしても ― インサイダーにしか分からない土地の事情が語られるのを読むと、突然前後のプロローグとエピローグの一見旅行記のような部分がそれらに関連して意味を持ってくるのが解る。

僅か一章を簡単に目を通したのみで、この作品の若しくはこの作家の価値は判断出来ない。しかし、これほどまでにページからページへと読者の観想を掘り起こすそのエピソードの数々を一々挙げていくと、簡単に「失われた時を求めて」の量感を越えてしまうのではないかと思う反面、一体何をどのように綴れるかと問う時、いかにも危うい観想に気が付くのである。まさにそれが、観念連合の正体であるのだ。

この作家が、自宅のある あ の ノーリッジで交通事故で2001年に亡くなると言うのも、どこかに挟まれるエピソードの一つのようで、この作家と作品自体が本当に実在したのかと疑わせるだけの不思議さがある。

なんと、この章、つまりこの作品の終わりには次のように年号らしき数字が記されている。

                - 2013 -

1990年の作品であった。



参照:
最近読んだ本, 続き - Eine bequeme Reise
ゼーベルト『目眩まし』を読む - 時空を超えて
マイン河を徒然と溯る [ 生活 ] / 2006-02-24
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世にも豊穣な持続と減衰

2006-12-09 | 
非常に実りが多かった。一銭にもならず、誰の関心にもならない、至極個人的な事とは言え、この一月程の体験は各々の事象が見えぬ糸で繋がれていたようである。

既に記した速読の習得は、母国語以外の言語における音組織や文法の習得にも大きく係わっていて、音楽の鑑賞などにも大きく影響しているようである。

速読自体は、一般的に視覚的なものと思われるが、実は他の要素が深く関係しているようである。その一つである聴覚は先ず措いておくとして、文法の習得が大きく反映しているようである。嘗て、英語文を大きな単位で括って捉えるという言語学的な意見を聞いたことがある。其れに近いかもしれない。しかし文法と言っても、主語・述語などの分析的な文法は母国語ではそれほど意識して使う訳ではない。寧ろ、構文に近いようなフレーズの纏まりが決まりとして、幼少期から身についているものと思われる。

つまり、速読と言うのは、この大きな単位でもって、略三行以上の文章を一括して捕らえることの出来る能力で、そうすると一ページに十分割分ほどの情報しか無い事になる。また、その前後の文脈があるので、せいぜい一頁に二つほどの大きな文脈があれば良い方であろう。一章五十ページに百文脈とすれば、それほど労を厭わず、大きな書物から狙いの一行を引き出すことが出来る。また大きな流れとその注ぎ方を知ると、全体と部分の関係が掴める。実際に長編の物語を書く作家などは、それとは反対の構成感を持って書き続けるのであろうから、速読する事で全体の構造が解り易くなる。

文法的な考察に加えて、聴覚的な影響は、まさにその大きなフレーズの音による把握に関する。つまり、これも会話学校などでも行われているような一文一フレーズの捉え方で、そこで重要となる箇所は主語と述語を結ぶ活用語の一部である。多くの言語では、微妙な音で発生される部分である。しかし、この音と語が存在するために、初めて文脈として纏まりをもって成立しているのである。

通常の言語教育では、どうしてもリズムを主体とした音節を大切に勉強をするのだが、其れを通してはなかなか至らないのがこの微妙な発声であるようだ。その微妙な音は、例えば音楽において、誰でも直に認知出来る言語毎の音節とフレージングの妙の個性として、音楽の特徴となるものとは異なる。それは、どうも、和声における連結と響きの精妙な関係こそが、言語特有の微妙な音に相当するようだ。

トーマス・マン作「ファウスト博士」で、米国人が米語訛りのドイツ語でベートーヴェンの後期のピアノソナタのアナリーゼを行う場面がある。思弁的な音楽芸術についてのその主題は別として、和声の持続と減衰の彩をピアノの平均率打鍵楽器の真髄 ― オルガンの純正調的に鳴り響く楽器に対して ― とすると、それはそのもの微妙な発声に相当する。

その言語の微妙な発声を聞き取ることは、その音楽の和声の妙を知ることであり、それはまた文脈を理解すると言うことと同義語であるようだ。虹のように浮かび、消えて行く妙を体験する、これ以上にこの世に豊穣なものはないのである。




追記:それでは、なぜ日本語の文章の速読術の習得に長い年月を費やしたかと言うと、それは日本語の文章の視覚的な見通しの悪さに依拠しているようである。それは、なにも視覚的要素が文脈や構文から独立して存在しているのでは無い事は既に述べた。さらに 高 級 な読み物となると平仮名・カタカナ・漢字にアルファベットまで混じるとあってなお都合が悪い。特に、ポストモダーンの衣装を着た作品などは、その内容如何に関わらず、典型的にその置かれている文化的背景を示しているようでとても具合が悪い。



参照:ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
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麻薬享受の自己責任

2006-12-08 | 生活


禁煙法案が通るようである。禁煙権の履行を徹底出来るように、公共の場での喫煙が禁止される。ドイツ連邦共和国は、EUでは大国だけに実施は遅れたが、これで望まぬ受身喫煙被害は減少する。年間三千人のドイツ人がこうして死亡している。

最終段階に来て憲法違反とならないかが審議される。そして連邦州によって、例えばベルリンの左派政権の様にもともと原理主義的な禁煙権を訴えて、学校や病院や飲食店での計画を立てていた地域も存在する。

今回の決定で、過去にあったような喫煙室は学校や幼稚園では認められなくなり全面禁煙となる。また公共の交通機関や建造物での喫煙も喫煙室が無い限り禁止となる。病院の喫煙はどうなるのだろうか?喫煙者の多い外科医は、全てお役目ご免とはならないのだろうか。

レストランでは、禁煙室を別個に設ける事が必要となり、これはレストランの中心となってはならない。但し、バーや一杯引っ掛ける場所では喫煙可能のままであるが、ディスコは禁煙となる。同時に喫煙は労働権ではなくて、例外無く禁煙は実施されなければいけないとする。

自身が喫煙者かそうでないかによるだろうが、葉巻を防虫駆除に燻らし且つ喫煙習慣の全く無い者としては、嫌煙権の行使には関心がある。同時にアイルランドなどは厳しく、禁煙処置によって医療費が削減されたとすると経済的関心もある。ドイツは、スペインと其れとの中間に落ち着くとされる。

しかし、喫煙がタバコを燻らす仲間の時間や一服の楽しみや女性の解放を意味した文化はこれで一先ず終焉を迎えそうである。今後は、一人で部屋に閉じこもって若しくはバーのタバコパーティーで燻らすと云う文化となりそうである。

同時に飲酒による健康や飲酒運転の事故はあくまでも自己責任であるとする非喫煙者の立場からすると、「大麻やマリファナ等の麻薬摂取にも歴史があり、歴史的文化としては喫煙となんら変わり無い。常習性のあるこれら嗜好品は、同等にその悪影響を自己責任として扱うべきで、其れによる税金の増収や産業を育成をしているのがそもそも大きな過ちである」とする見解が導かれる。

山の上での一服やその時間は見ていても決して悪くは無いので、今後もタバコの煙を大自然の中で貰いつつ、地階のヘビースモーカーの紫煙が漂えば直ちに吹き抜けの窓を開けに行く示唆行為を繰り返すこととなろう。

そもそも、子供時分より受身喫煙者であったので、今更ばたばたしても遅い。もし、そうでなかったとしたら神経質な禁煙原理主義者であったかもしれない。

喫煙や麻薬や飲酒の習慣は、家庭環境や教育に因るものが大きい。特にこれらは青少年への影響が大きいので、何を教育するかは重要と思われる。幸か不幸か、麻薬の楽しみは未だに知らないので、臨終の終末治療の時まで取っておきたい。喫煙も十分に受動喫煙しているので今更必要が無い。飲酒も酔いを楽しむと云う環境には無いので、今後とも健康飲料として楽しんで行きたい。
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ビオレック氏のワイン講座

2006-12-07 | ワイン
古い記事「公共放送の義務と主張」の切れていたリンクを張り変える。TV放送を否定しながら、TV番組を話題にするのは恐縮であるが、その梃入れされているホームページをみるとやはり面白い。

その人気料理番組の文化程度が楽しめる。やはり民間商業放送では出来ない。番組の作りや雰囲気に関しては該当頁にあるように、再び繰り返さない。唯一つ気になっていた行儀の悪い「立ち食い」の光景も、カット無しに回し続ける番組制作を強調していると云えるのかも知れない。

料理が全て準備されていれば、撮り直しの必要はないのだろう。ゲストが何時もやる手順で料理を作るための準備は、下拵えを含めて、僅かな打ち合わせで出来る訳ではないので、専門のスタッフがリハーサルを何回も繰り返して、VIDEOで打ち合わせしておくのであろう。いずれにせよ、超有名人の長い拘束時間を考えれば、度重なるスタッフのリハーサルは経済的なだけでなくスケジュール合わせをも可能にするのだろう。

さて今回更新されている内容で特に注目をひいたのは番組のビオレック氏のワインへの造詣である。番組でもグラスを傾けるたびにパラダイスに片足を踏み込んでいる氏であるが、「ワイン愛好家として、パーカーなどの点数システムはおバーカーさんで、なんら愛飲の助けにはならない」として、氏のアマチュアーとしてのワインとの付き合い方を多くの頁を割いて表明している。

掻い摘むと、理想主義的原理主義者にはならずにたとえ現地に住んでいても広い視野を欠かさないようにすることで、現在のマインツを居としてからもワイン商とよい付き合いをしていると云うことが明かされる。

これは、辛口リースリングを愛する氏としては、尋常ではないように響く。しかし実際はお馴染み醸造所で直接買いつけしているのだろうが、赤ワインを初めとする外国産のワインに一般視聴者の視点を巧く振っている。大多数の視聴者のワインへの視点を考えるチェコ人らしい賢明さとでも云えようか。

実際の好みは自らのものであって、専門家の推薦はためにならないとしながらも、知識つけて月謝を払いながら、自らの味覚を磨いて行く事は必要だとしている。

そうして、スーパー売りやデパート売りの利用の仕方だけでなく、価格帯によっての選択方法と楽しみ方を教示している。その姿勢と価格設定は順当に思われる。

また料理ワインにも触れて、赤ワインの方がその価格でも飲めるワインが多いがと、逆説すると料理ワインにも、調味料として飲めるワインが必要であるとしているのは良い指摘である。飲んで試しながら、料理に使いたいと云うことでもある。

また、気候から欧州のように食事にワインを飲む習慣のないオリエンタルな料理には必ずしも食中に飲む必要はないとするのも良い意見である。確かに、ワインを飲む習慣の無い地域の食事は、強い香辛料やら醤油やらで味覚が牛耳られているので、繊細なワインの味覚を壊してしまう。それらの料理には、ビールや蒸留酒の方が良い場合が多く、水や茶も決して悪くは無いであろう。

ワインは何も「辛口に限る食中酒」としてだけではなく、食前酒や食後酒としての飲み方をイタリア料理屋で習ったと述懐している。

そう云えば、本日は聖ニコラウスの日である。



参照:
alfredissimo!
Alfred Biolek: Wein wie ich ihn mag
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野蛮で偉大な時の浪費

2006-12-06 | 歴史・時事
承前)奴隷政策や帝国主義が、殖民経営からなる強国の市民を精神的に奴隷にしてきた事実は、左派の論考を待つ必要も無い。むしろ、その歴史的意味に注目する方が、再び過ちを繰り返さないためには重要である。奴隷は必ずしも根絶していないのである。

先ず何よりも、ドイツの哲学者ヘーゲルが示した当時の世界観が参考になる。そこでは、世界の国々を文明国から未開国までの三段階に分けているようで、奴隷を徴集して来たのはアフリカの「未開国」であった。またその中間にあるようなシナなどは、十分に啓蒙されていない人が住む発展しない帝国の典型であった。

それは、面白いことに第一次世界大戦を挟んで創作されたトーマス・マン著「魔の山」のモラリスト役サッテムブリーニの東洋観に良く出ている。そのサッテムブリーニは青年カストロプに向かって云う。

「空に浮かんだものを語るではありません、君のヨーロッパ的な生活感に見合うものを語るべきです。」

そして、

「内面的に彼らアジア人に合わせてはいけません。彼らの概念に感染してしまわないように、そして彼らの存在に対して自らの気高い其れを掲げ、西洋の神の子として、文明の子として、生まれつき神聖なものを神々しく保つのです。」

さらに続けて、

「時間です。あの野蛮で偉大な浪費は、アジア人のスタイルですよ。だから、御覧なさい、ここに東方からの子息が喜んで屯するのです。」

そうした時間と発展がヘーゲルの手によって編み出される頃、江戸の数学者本多利明(1744-1821)は、蝦夷の実見などを踏まえて、「凡そ、大世界の海洋にエゲレス領のなきはなし」と殖民地経営と海外貿易を説いている。

そして、英国の地理的緯度や条件を「独島なり、極寒の土地なり、国産乏しく、何一ツ採るところなき廃島なるを、如斯大良国となりたる」と紹介して、ロシアの属国になったシベリア領土を顧みて、「国土の貧富も皆 制 度 教 示 にありて土地の善悪に非ず」と説く。

まさにこれこそが、ドイツ連邦共和国の社会民主党が途上国知的援助として行ってきた活動であって、前首相の野蛮な中国政策は異例としか考えられない。

再び、セッテムブリーニの声を借りると、

「ロシア人が四時間と云えば、そのときは我々の一時間ではもはやないと気が付きますね。時間に対する無頓着さは、その荒々しい広大な大地と関連していると考えるのは容易いです。」

「我々ヨーロッパ人には、そうしたものはありません。」

時間の感覚、歴史認識こそが、誤りを繰り返さないための指標である。三民主義を学んで、イデオロギーを学んだ、そして今日も自国民や少数民族に対して、また地下資源を掻き集め工場経営をするアフリカにおいても人権を蹂躙するシナ人がいる。

帝国主義がそのポスト帝国主義に歴史的意味合いをもって清算されるとき、所謂歴史修正主義者と呼ばれる者も、または似非イデオロギー信奉者もこうした歴史的認識を蔑ろに出来まい。

トニー・ブレアーは、商人の横暴と英国の啓蒙思想の矛盾をそのコンテクストで提示している。その影響は、産業革命と云う近代を突き進んだ全ての先進国家に及ぶ。(終わり)



参照:
「幕末における展開と停滞」-日本政治思想史研究より 丸山真男著
"Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte", G. W. F. Hegel
27/11/2006: New Nation page one, The New Nation
「黄禍」の真意 [ 文学・思想 ] / 2006-10-12
ポストモダンの貸借対照表 [ 歴史・時事 ] / 2005-09-02
終わり無き近代主義 [ マスメディア批評 ] / 2005-09-03
世界の災いと慈善活動 [ マスメディア批評 ] / 2005-11-29
グローバリズムの領域侵犯の危険 [ 歴史・時事 ] / 2004-12-10
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遺憾に思う、奴隷売買

2006-12-05 | 歴史・時事
先月末に英黒人紙THE NEW WORLDに載ったトニー・ブレアー発言は、近代史を見て現在を語る話題として格好のものである。

その発言内容は、来年三月に奴隷貿易禁止二百年を向かえるに当たって、英国政府が公式に植民地政策を詫びると云うものである。その歴史的な意味合いは、戦後の英国のポスト植民地主義やイラク紛争で傷ついた、嘗ての植民地である米国の子分英国を、再び欧州の枠組みにおいて位置づける効用があるに違いない。

同時にイスラムのテロに苦しむ英国を逆境から救い、正しい政策を進めて行く基礎となる。つまり、大英帝国を過不足無く評価して、尚且つ将来的な英国像を定めるには、重要な契機となる。それは、同じ第二次世界大戦の戦勝国であるフランスなどの連合国にも通じる必要な近代批判であり、ポスト植民地主義に対する歴然とした姿勢を示す事になる。

具体的には、大英帝国の威光を否定することなく、また第二次世界大戦での反ファシズムの勝利を否定することなく、また一銭も奴隷の子孫への保障などで支出することなく歴史的解決するには、「遺憾」しかないのであって、議論されているようにそれ以上の過失を認めることはないであろう。

「その当時、現在では人権蹂躙となることが合法であったのは、甚だ信じ難い。」とする首相の言葉は名言である。

そしてシェフィールド大学ユルゲン・ツィンメラーは、「トニー・ブレアーの同僚がポスト植民地主義に舞台を見出している状況は、それがどれほどの議論を呼び起こしているかを示しており、オーストラリアから米国、またナミビアから日本まで、植民地主義の債務と負の遺産そして謝罪と補償の議論が頻発している。そのモデルは、ドイツのホロコーストでありその過去の扱いであり、何人も植民地に関してはそこまでに至っていない。」とする。勿論そこには、ケニア・マウマウ蜂起での英国軍の行った虐殺も含まれる。

つまりグローバリズムは、過去においては植民地であったインドや朝鮮半島や中国の発言力が強まる状況を用意して、それらの旧植民地の声を 無 視 出来なくなった事情であるとする。そして、生活の中にそれらの旧植民地の製品が満ち溢れるとき、多くの旧植民経済経営大国の国民は無意識ではいられなくなる。ユニオンジャックやエルガーの威風堂々に歓喜する英国一般庶民も、こうして少しづつ学んで行くのである。しかし教育に生かされるには時間が掛かるだろうとされる。

それは、西洋の干渉がその地域的制限から解放されたあとでも、人道的問題として欧州や北米が他国に干渉する場合、自己批判として反映されなければいけないものとなる。

近代における「欧州革命直後の大英帝国のインド暴動、ロシアによるユダヤ人の迫害、第二次世界大戦をポーランド侵攻かもしくはシナ事変を契機とするのかそうではないとするのかの専門的議論は続く」としても、トニー・ブレアーが採る帝国への姿勢は、現実的で中庸と云えるかも知れない。

なぜならば、一方で大英帝国の栄光としてその解放と寛容と国際性を維持しながら、帝国の蛮行の事実を自己反省の中に取り入れることが出来るからである。それも、トロッツキストのイデオロギーが求めているものを含有すると同時に西欧が現在目指す脱近代の政策ともなっているからである。

そうしてこうした動きが、「世界的な 思 い 出 外 交 の終わりの時を告げる。」と云うがさてどうであろうか?

歴史的コンテクストにおける、まさに当時は合法的であった、奴隷売買禁止後の武器輸出の時代をも、その根拠と共に考えてみなければいけない。(続く



参照:
Jürgen Zimmerer "Tony Blairs letzter Coup", FAZ vom 30.11.2006
27/11/2006: New Nation page one, The New Nation
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買物推薦リスト(音楽篇)

2006-12-04 | マスメディア批評
この時期恒例のクリスマスプレゼント購入のための書籍・CD・DVD 推薦リストをFAZから見て行く。先ずは音楽制作品。二十六人が各々六分野に本年度公開推薦盤を挙げていく。都合6x26すなわち全156票が2006年度リリースに分配されて推薦される。

各々は、ヘッドフォーン愛好家つまり厳密に聴き取り評価の最も厳しい聴衆向き、感傷派つまり心も体も投げ出す聴衆向き、パイオニア向きつまり新たな領域への好奇心に燃える聴衆向き、考古学者向きつまり学術的に洗い直す聴衆向き、若者向きつまり若い心の柔らかな聴衆向き、根気ある人向きつまり辛抱強い聴衆向きと推薦していく。

E-MUSIK関連では、ヤンソンス指揮のショスタコヴィッチの交響曲全集が最高で五票入っている。そのうち四票が根気ある人向きで一票は感傷派。交響曲は、エマニュエルバッハ全集が良さそうであるがその他ベートーヴェンの全集が一つ、リストのベート-ヴェン編曲全集、九番、そしてマーラーの六番、協会版のベルリンフィルによるユンの交響曲が一票づつと交響曲離れが顕著である。さらに関心が集まらないのは管弦楽曲で、バルトーク、ラフマニノフ、ショスタコーヴィッチが一票づつである。

オペラ作品では、ヴィヴァルディーの「グリセルダ」が四票とショスタコービッチ交響曲全集に続く。カイベルト指揮のバイロイト「指輪」ライヴが考古学と根気で二票、DVDを含めて、ラモーとモーツァルト、ロッシーニ、ヴェルディーが一つづ挙がる。

ピアノのグルダのカセット録音一票や四重奏と三重奏とバッハのソナタがかろうじて挙げられているが、声楽を使ったクルタークの「カフカ」が次点で四票。同様に、オラトリオ・合唱曲やシューベルトの歌曲は幾つか挙がり、人気は根強い。クルタークの合唱曲全集も興味深い。

注目すべき作曲家として、二票入ったブーレーズのヴァイオリン集、ジャン・ジョネレ、ケージやカーゲルやブクステーデ、ブルクミューラーなどの作品が取り上げられている。ギボンズその他の作品集も声楽であるが、ルネッサンス期の音楽はこれだけに留まっている。

こうして一望すると制作数をも反映しているようで、制作ブームとなった古楽やバロックオペラや落穂拾い的作品なども一段落して、テキストなどがものを云う音楽が推薦される様になって来ている。ショスタコヴィッチ全集も反純音楽と云う意味から、その範疇に入っているのかもしれない。

U-MUSIK分野で目に入るのは、キース・ジャレットやフランク・ザッパ、フィッツ・ジャラルドなどの古典が挙がる一方、話題となったペーター・リヒトのドイツ「さよなら資本主義」やニールダイヤモンドやナナムスクーリが同時に挙げられてかつ、アメリカンハードコアーと称するパンクロックのアンソロジーが推薦されているのが面白い。
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希望も未来も無いTV放送

2006-12-03 | マスメディア批評
二年前に新調したTV受信機廻りを弄った。すると、十年前以上に初めて使い始めたVIDEOプレーヤーの受信と発信の機能が故障していることに気が付いた。

尤も画像の調子が悪く、まともに録画出来ないことはうすうす気が付いていたが、一方でケーブルTVで渡される画像自体に問題があるとも考えていた。なぜならば、TV受信機へは、VIDEOの発信側の同軸コードを通してケーブルTVに繋がれていたからその原因に気が付きにくかったからである。

数多のコードの繋ぎ方を試行錯誤しているうちに、同軸コードでTV受信機を直接ケーブル端子に結ぶと明快な画像が得られることが判った。

しかし、この期間殆どTVを視聴しなかった事から、様々な興味深い事象が思い浮かんだ。先ず、何よりも画像の質とリアリティーの問題で、これは明快に映される自然の情景などを観て、やはり美しいと思う事実である。

映りの悪い画像では、迫真とはいかない情景も、映りが良いとまるでそこにいるかのように錯覚することさえありえる。

そこまで思いつくと、今度はTV放送において、美しい画像を提供する制作などがどれぐらいあるのだろうかと考える。殆ど無い様な気がする。映画においても、なにもエンターティメントを旨としていなくても、芸術的な映像は回されるフィルムの中で一体どれぐらいの長さがあるだろうかと、ベラ・バラージュの「映画の真髄」の頁を捲りながら思う。

どうもこの辺りにTV離れの原因が見つかるようで、戦後の米三大ネットワークの数々のカルトシリーズを楽しんだ人も、現在では観ようと思う制作が嘗てのように見つからない人が多いような気がする。つまり、なにも新しいものを知らないもしくは軽視するというのではなくて、制作ドラマにおける観るべきものが無くなったのではないだろうかと推測する。

これは、どうも米国社会が世界に流してきた米国の豊かな、広義のライフスタイルというような、消費社会におけるステレオタイプな希望や未来が絶えてしまったからのように思えるがどうだろう。それは、「妻殺しの小児科医者の逃亡物語り」であっても「朝鮮内戦を風刺した野戦病院物語り」であっても「米国が見る欧州の東西陣営の諜報活動を描いたもの」であっても、それらが商業放送と云う広告費をもって運営される機関の制作したものであった宿命であるように思われる。

画面の中で、渇望されるライフスタイルなりトレンドが映されるからこそ、または視聴者の日常生活を豊かなものとして確認して満足する中産階級意識があったからこそ存在価値があったのである。どうも、TV放送を観ないということは、脱米国式消費生活の象徴的な事象であるようだ。


写真は、農薬やら着色保存剤などで危険な食品消費の検証番組。
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