Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

希望も未来も無いTV放送

2006-12-03 | マスメディア批評
二年前に新調したTV受信機廻りを弄った。すると、十年前以上に初めて使い始めたVIDEOプレーヤーの受信と発信の機能が故障していることに気が付いた。

尤も画像の調子が悪く、まともに録画出来ないことはうすうす気が付いていたが、一方でケーブルTVで渡される画像自体に問題があるとも考えていた。なぜならば、TV受信機へは、VIDEOの発信側の同軸コードを通してケーブルTVに繋がれていたからその原因に気が付きにくかったからである。

数多のコードの繋ぎ方を試行錯誤しているうちに、同軸コードでTV受信機を直接ケーブル端子に結ぶと明快な画像が得られることが判った。

しかし、この期間殆どTVを視聴しなかった事から、様々な興味深い事象が思い浮かんだ。先ず、何よりも画像の質とリアリティーの問題で、これは明快に映される自然の情景などを観て、やはり美しいと思う事実である。

映りの悪い画像では、迫真とはいかない情景も、映りが良いとまるでそこにいるかのように錯覚することさえありえる。

そこまで思いつくと、今度はTV放送において、美しい画像を提供する制作などがどれぐらいあるのだろうかと考える。殆ど無い様な気がする。映画においても、なにもエンターティメントを旨としていなくても、芸術的な映像は回されるフィルムの中で一体どれぐらいの長さがあるだろうかと、ベラ・バラージュの「映画の真髄」の頁を捲りながら思う。

どうもこの辺りにTV離れの原因が見つかるようで、戦後の米三大ネットワークの数々のカルトシリーズを楽しんだ人も、現在では観ようと思う制作が嘗てのように見つからない人が多いような気がする。つまり、なにも新しいものを知らないもしくは軽視するというのではなくて、制作ドラマにおける観るべきものが無くなったのではないだろうかと推測する。

これは、どうも米国社会が世界に流してきた米国の豊かな、広義のライフスタイルというような、消費社会におけるステレオタイプな希望や未来が絶えてしまったからのように思えるがどうだろう。それは、「妻殺しの小児科医者の逃亡物語り」であっても「朝鮮内戦を風刺した野戦病院物語り」であっても「米国が見る欧州の東西陣営の諜報活動を描いたもの」であっても、それらが商業放送と云う広告費をもって運営される機関の制作したものであった宿命であるように思われる。

画面の中で、渇望されるライフスタイルなりトレンドが映されるからこそ、または視聴者の日常生活を豊かなものとして確認して満足する中産階級意識があったからこそ存在価値があったのである。どうも、TV放送を観ないということは、脱米国式消費生活の象徴的な事象であるようだ。


写真は、農薬やら着色保存剤などで危険な食品消費の検証番組。
コメント (2)
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