Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

人身御供の啓蒙主義

2006-09-30 | 
イドメネオの生贄の余波を記す。

その中でも最も呆れるのは、ベルリンで開かれている内務大臣主催のイスラム賢人会議においての、主催者の次の発言であろう。

「出席者揃って三十人で、イドメネオを劇場に観に行く。」

上半身が不随なのか?「再演の可能性も無きにしも非ず。」とは劇場支配人付きのスポークスマンが、「劇場の安全を保障されるという条件で」と、全ての責任をSPDのベルリン内務相ケルティングに投げ返した。

ケルティングの判断は、プリミエーの二年後にも拘らず不意に警察に寄せられた匿名の電話による。その危険を、急いで休暇中の支配人に電話でしらせたのは八月と言われる。匿名電話の真相は判っておらず。これを指して内務大臣はこの政治家を「頭が無い」と評した。

頭が無いのは問題の演出で、ご存知の通り、ネプチューンであり、ブッタであり、キリストであり、ムハンマドなのである。典型的なドイツ名物の罪の譲り合いと言うか、官僚主義的責任転嫁の嵐である。

再演中止を警備上の理由とした手前、オペラ劇場は芸術上の自主・自由を放棄した。幾ら賢者とはいえ、上の演出のオペラ上演をイスラム教徒が雁首を並べて観劇する事はより一層拡大されたスキャンダルであり、内務大臣が言うような 政 治 的 利 用 はいかなる場合でもオペラ劇場は避けなければいけない。

しかし、こうした責任の放棄状態となれば、劇場の文化的な自主性は木っ端微塵に破壊されて、万が一この演出が再演となった暁には本格的な破壊活動も予期せなければいけないであろう。このままの演出では、再演は不可能であろうと予想される。さもなくば注目されてしまった以上、永遠にお蔵入りとなるかもしれない。政治家如きが先日のローマ教皇を真似て知識人然と、文化的メッセージを発しようとするのが間違いである。

同時にベルリンの歌劇場の合弁統合問題が決着がついていない現在、政治的な介入は死活問題であり、こうした痴態を曝して、いよいよ西ドイツを代表した歌劇場消滅へのカウントダウンは一挙に加速した。

クレタ王イドメネオは不条理な神のもとに苦しみ、息子のイダマンテは自ら進み出て生贄になろうとする。その間に入って人身御供となろうと身を投じるイリアの救済劇となる。バロックオペラの牧歌的なギリシャ神話劇でも悲劇でもなく、有名な四重唱の複雑な心理描写に示されるような古典派オペラゆえに、当時のナポリ風のイタリアオペラやグルックを代表とするラシーヌ劇のフランスオペラを内容的に遥かに超えている。

このオペラは、続くモーツァルト独自のオペラ芸術への始まりとされ、心理劇としての大オペラに違いない。元来、最晩年の作「皇帝ティトゥスの慈悲」とは、啓蒙主義という点では大きく異なり、さらにこうして演出されたオペラは啓蒙を超えて挑発する。だからこそ、内務大臣が選りすぐって賢人会議に挙げた大フリードリッヒの啓蒙の言葉は、大変なお門違いなのである。

芸術や文化における誤解は、特に政治的に利用されるとき、甚だ重大な結果となりえる。現時点では、ビスマルク大通りの旧西ベルリンの劇場にデモ行進が突き進んだと言う情報は入っていないようだ。如何に旧東ベルリン市民が、社会主義リアリズムと外貨稼ぎの輸出品化した伝統芸能に麻痺して芸術文化に音痴になっているかをよく示しているのではないだろうか。



参照:
御奉仕が座右の銘の女 [ 女 ] / 2005-07-26
半世紀の時の進み方 [ 文化一般 ] / 2006-02-19
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
開かれた平凡な日常に [ 文学・思想 ] / 2005-12-30
シラーの歓喜に寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-12-18
街の半影を彷徨して [ アウトドーア・環境 ] / 2005-12-11

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