美濃市上有知の町は、約400年前に金森長近の城下町建設にはじまりますが、金森氏は在城10年にして断絶し、一時幕領となったが、まもなく尾張藩領となって明治に至りました。
街並みは、一番町と二番町、それをつなぐ4本の横町によって目の字型に構成されています。これは金森長近が美濃に移る前に居城としていた高山の街並みにも似たような構成となっています。
金森長近は長良川に上有知港を開き、それと町を結び、交通の要衝として発展させていったようです。その街づくりが功を奏し、街道により郡上、飛騨への物資集散地となり、さらに岐阜、桑名方面への舟運によって商業が大繁盛し中濃屈指の町となっっていったようです。

町は丘の上にあったため水の便が悪く、古来度々の火災に遭ったそうです。特に享保8(1823)年の大火によって町は全滅したようです。その時、町民の防火意識の高揚により一番町、二番町の道幅を従来の二間から四間に拡幅し、防火壁を兼ねた卯建(うだつ)が形作られていったと思われます。


むくり屋根のうだつもありました。






おさかなは四国に住んでいるから、うだつといえば「徳島の脇町」が頭に浮かびますが、ここ美濃市美濃町のうだつもなかなか見ごたえがあります。
多彩な格子やむしこ窓、正面下屋庇上に設けられた辻堂風もしくは箱型の火防神などの意匠や造形に特徴がありました。
道幅が広いから、建物も総じて大きなものが多く、とても豪快な空気感が漂っている街並みが形成されていました。
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街並みは、一番町と二番町、それをつなぐ4本の横町によって目の字型に構成されています。これは金森長近が美濃に移る前に居城としていた高山の街並みにも似たような構成となっています。
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