おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

岩崎の御嶽さん

2019-01-10 15:24:13 | Weblog
「私って貴女の日記帳がわり?」と言うほど毎日その日の事を、報告してくる友達がある。 昨日は「車で乗せていってもらって岩崎の御嶽山へはじめていってきた」との事。お互い南と北ではあるが、この御嶽さんのふもとで暮らしているのに、「ええ!」と驚いた。 私の場合山向こうの御岳台団地や、こばやし団地へ行くのに少しでも近道をと自転車や歩きでこの山を超えて行ったものである。<御嶽山は、岩崎の北部で名古屋市名東区と境をなして、高さは130メートルから30メートルの丘稜山地である。松、ナラ、クヌギ、ハンの木、竹などの雑木がしげっている。
 この地に40年も住んでいると宅地開発が盛んで、地形もずいぶん変わってきてしまった。春には柳がや鼠色のやわらかな蕾をつけると子供達と山を散策しながら、それを折ってきて、花瓶にいけたものである。滝もあって、子供たちには格好な遊び場であった。 祭りには「火渡り神事」を見たりした。宗教的な深い史実は知らないが1860年御嶽講の内、心願講に属する明確行者(名古屋市古出来町、丹羽宇兵衛)と明心行者(名古屋市門前町、倉知茂兵衛)によって木曽の御嶽大神が勧誘されたことに始まる。万延元年両行者が、西国三十三ヶ所霊場参拝の途次、御嶽講の講祖覚明行者が、現われ,[尾張国愛知郡岩崎村に竹の山という霊山あり、この山に御嶽大権現を勧誘すべし]」とのお告げを受けた。帰国して直ちにこの地に北新田の稲吉源右衛門、岩崎の井上政右衛門・古伯行者と相談、岩崎村の賛同を得た上で,大応寺二十一世願誉賢瑞の助力を得て地頭渡辺半蔵家・寺社奉行所・水野代官所などの裁可も得て勧請した。」と昭和60年に編纂された岩崎誌にはある。
今、信仰への考えが大きく変化して神道十三派の一御嶽山を宗敬する山岳信仰岩崎御嶽講は神社でも寺でもない、御嶽信仰は先達がいなくなってすたっている。私が十年間も町内の役員をしていた最初の頃は当番で筍を刻んだり祭事の御飯炊きをしたものである。
    
          まだ五年生きると決めて日記買ふ
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