NHKの連続ドラマ「おひさま」の今朝の放送は、主人公陽子と赤紙(召集令状)が来て一週間後に入隊する蕎麦処の息子との結婚式の場面であった。
戦前はこのドラマのように嫁ぎ先での結婚式が一般的に行われていた。
子供の頃の私はその家の上りがまちや開け放たれた往来から、芝居のかぶりつき宜しく一部始終をよく見たものである。 今でも昔の街並のあの家の結婚式を見た、この家のも見たと三、四軒は覚えている。
相手の男性の多くは戦死をしているが不思議と国策通り子供は残している。
小学二年生の折、私は親戚の結婚式に頼まれてその家のみよちゃんと雄蝶雌蝶になってお酌をしたことがあった。学校から三キロ程を急いで自宅に戻り、さらにまた急いで延長線の二キロほどを歩いて、本格的な高砂の謡いをする叔父がよしと言うまで叔父の家で幾日も練習をさせられた。
我が家にあった婚礼衣装は頼みに来られると、いつも貸衣装よろしく出払っていた。
先日息子が「朝ドラ見てる?お母さんの子供の頃だろう」」と言うので「陽子先生に教えられていた子供くらいだったわ」と答えた。
小学六年の時受け持ちの女の先生が胸を患い長期休職されたので友達四、五人で見舞いに行ったが、今思えば、毎日竹槍や薙刀の授業が必須であったから欝病だったのであろう。
他の女先生二人が母の女学校の同級生だったせいか、私は頬を両掌ではさまれ「この子は先生になる子よねー」などと言われたが、戦争が終わるとアメリカナイズの自由主義に当分馴染めず、代用教員の話が来ても三島由紀夫を読んだりしていた。
朝鮮戦争が始まって「糸偏景気」になったが、実際は結構就職難であった。私が就職した会社の同室の胡桃さんはドラマの舞台と同じ安曇野から中卒に混じって集団就職をして来ていた。
彼女の親は学校の校長先生で姉さんも教職についていると言っていた。信州らしくなつめの干したのが送られて来ていたりしたが、親心を思いやっての事であろう一つも呉れる事はなかった。
「おひさま」の安曇野のドラマの展開が楽しみである。
俳句 木曽路から信濃へ抜けて松落ち葉
補植する爺と白鷺田の中に