3月21日から始まる春のセンバツ高校野球大会に、
被災地・宮城県から、初出場の石巻工業高校が選ばれた。
大震災から1年。
大きな被害を受けた石巻から出場する球児たちに、心から声援を送りたい。
http://www.city.ishinomaki.lg.jp/hishokoho/koushien.jsp
石巻工業には、行きずりの縁だが、忘れ難い思い出がある。
半分夢になりかけているような大昔の出来事だけれど…
20歳の頃の、北海道往復自転車旅行中のことである。
1969年(昭和44年)8月9日。
僕は自転車で東北地方を北から南へと走っていた。
岩手県盛岡から平泉、一関を経て、宮城県に入った。
石巻駅へ寄ると、大勢の人で賑わっていた。
祝 石巻 川開まつり 8月8日~8月10日
…という大きな看板が、ド~ンと立っていた。
混雑する石巻駅前の食堂に入って、焼きそばを食べた。
それから隣のマーケットに入って缶詰などの食料品を買い、
店のおばさんに「にぎやかですね~」と話しかけると、
「ああ、日本全国から人がやって来るんだよ。
なにしろ、ここの花火は日本一なんだから」
と、誇らしげに言った。
駅を出て石巻市内をゆっくり走っているうちに夕方になってきた。
泊まる場所の当てはなく、どこかにテントを張って野宿をするつもりだった。
そこへ通りがかったのが網の張られた学校らしき庭の裏であった。
表へ回ると「石巻工業高校」と刻まれた門があり、扉が開いていた。
夏休み中だったけれど、そろりと中へ入っていくと教諭らしき男性がいた。
「すみません。大阪から自転車旅行をしている者ですが」と僕は帽子を脱ぎ、
「今夜、泊まるところがないので、校庭にテントを張ってもいいですか?」
と言うと、教諭らしき男性は、「いいよ~」と簡単に許可してくれた。
僕は門の前に置いていた自転車を押して、校庭の端っこへ行った。
この日は北上川の川開きだったというので、まだ明るかったが、
どどどどど~ん、という花火の音が、この校庭まで響いてきた。
テントを張り終えた頃、男女の子どもたち5人ぐらいがかたまって、
好奇心を顔いっぱいに浮かべながら、僕のテントに近づいてきた。
なんだか宇宙人でも見るような不思議そうな目で、僕を見ている。
そのうちの一人で、いちばんしっかりしていそうな男の子が、
「兄ちゃん、どこから来たの?」と、僕に聞いた。
僕はテントの外であぐらを組み、缶詰を食べていた。
「大阪からや。モグモグ…」
「大阪からずっとこの自転車で走っているの?」
「そうや。北海道まで走って、いま帰るところや、モグモグ」
すると、その小学生の男の子は、僕が缶詰をパクついているのを見て、
「大阪のお母さんやお父さんたち、兄ちゃんのこと心配しているだろうね」
と言って、僕の様子をしげしげと眺めていた。
さすがに僕はほろりとしてしまった。
子どもだと思って適当にあしらっていた自分が恥ずかしくなった。
「さぁ、心配してるかなぁ。僕ももう大人やからね」
そう言って、僕はその男の子を見た。
ほかの男の子たちや女の子たちも、
じ~っと僕を見つめていた。
「写真でも、撮ろうか…?」 と言うと、みんな 「うん」 と言った。
僕は、カメラを自動シャッターモードにセットし、
5人の子どもたちと一緒に「記念撮影」をした。
石巻工業高校の近所に住む子どもたちは、やや緊張気味。
写真右端の男の子が、しっかり者の小学生だった。
あれから、42年7ヵ月という、長い長い歳月が流れた。
あの頃子どもだったみんなも、今では50歳ぐらいかそれ以上になる。
今でも石巻に住んでいる子も、たぶんいるのだろうな。
今回の大きな災害を、無事に乗り切れたのだろうか…
テレビで繰り返し放映される石巻の被害状況を目にするたびに、
あの子たちは、今頃、どこでどうしているのだろうか…と思う。