東京オリンピックのあった1964年(昭和39年)の末から翌年始めにかけて、開高健は週刊朝日の臨時特派員としてベトナム戦争の前線へ取材に行った。 カメラマンの秋元啓一が同行した。 その臨場感あふれるルポルタージュが、世に名高い 「ヴェトナム戦記」 である。
このルポの中に、開高と秋元の2人が南ベトナム政府軍に従軍して最前線に出たとき、ジャングルの中でベトコンに包囲され、一斉砲撃を受けて絶体絶命の危機に陥る場面がある。 その描写は実にリアルで、読んでいても戦慄を覚えるほど壮絶な迫力に満ちていた。
開高たちを含む200人の政府軍の第一大隊は、ジャングルの陰にひしめく 「姿なき狙撃者」 たちの突然の銃撃で、散り散りばらばらになり、気がつくと17人になっていた。 マシン・ガンと、ライフル銃と、カービン銃の銃音が森の中に響きわたった。
「ドドドドッというすさまじい連発音にまじって、ビシッ、パチッ、チュンッ!… という単発音が響いた」
「鉄兜をおさえ、右に左に枯葉の上をころげまわった。 短い、乾いた無数の弾音が肉薄してきた。 頭上数センチをかすめられる瞬間があった」
( 「ヴェトナム戦記」 より )
生死をさまよう開高と秋元。
カメラマンの秋元は、後の手記で 「もうダメだと思った」 と書いていた。
「私たちはたがいの写真をとりあった。 シャッターを押したあと、ふたたび枯葉に体をよこたえた」 と開高は書いた。 秋元はその時のことを、 「写真をとり合ったというより、疲れ果てた開高氏を見たとき、職業意識がめざめてシャッターをきったのだった。 そして、僕もとってくれませんか、とカメラを開高氏に渡した」 と手記で述べている。
そのときの開高の写真がこれである (有名な写真ですが)。
スタイリストで、写されるときは、いつもレンズを意識していたという開高。
その人が、こんな抜け殻のような表情を見せるのは、よほどの状況だったのだろう。
その後2人は、離れ離れになりながら敗走し、生きて戻れたのは奇跡に近かった。
僕はこれまで何度もこのくだりを読んだ。
当然のことながら、自分自身にこんな恐怖体験はない。
しかし、これがもし自分であればどう思い、どう行動していただろうか、と考える。
ジャングルで、敵から無数の銃撃を受け、弾丸が頭上数センチを通過する…。
チラッと想像しただけでも、心臓が凍りつく。
無我夢中で 「死にたくない、神様、助けてぇ」 と叫ぶのでしょうね。
極限の恐怖と緊張で、不整脈も出て、おしっこも漏らすのでしょうね。
しかも、そういうことにもまるで気がつかず、ただあたふたするだけ。
人一倍怖がりの僕なので、たぶん、そんなところだろうなぁと思う。
九死に一生を得る、ということは、今後の人生にどんな影響をもたらすのだろうか。
………………………………………………………………………………………………
なんとか危地を脱して一命をとりとめ、ホテルのベッドに転がり込んだときの喜びはどれほどのものだったろう。
じゃいさんに教えてもらった 「NHK映像ファイル ・ あの人に会いたい ・ 開高健」 の中で、
開高はこのときの状況について、こういうふうなことを言った。
「おれは生きている、という実感が全身にあふれ、ベッドにしがみつき、ベッドをたたいた。
なんとも言いようのない生の充実感に浸った」
そりゃそうだ。 誰しも同様の体験をしたとすれば、やはりベッドをたたいて喜び、九死に一生を得たことを神様に感謝したことであろう。 いま生きていることに感謝し、これからはあらゆるものに感謝して生きていこう、と思うはずである。 開高も、ベッドに転がったときは、そう思ったという。 しかし、彼はこのあと、予想もしなかった言葉を放ったのである。
3時間ほどうたた寝をして、目がさめると、ベッドはもう普通のベッドであった。
生きのびたことを感謝する気が起こらない…
生きている人間は絶え間なしに意識が動く。
今日の私は昨日の私ではない、というような…。
人間というのは永遠に不満な動物ですけど。
傲慢なんでしょうか、生きている人間は。
なんとまあ、 「生きのびたことを感謝する気が起こらない…」 とは…。
生きている実感があふれ、ベッドをたたいてから、わずか3時間後のことである。
人生最大の危機を切り抜けても、1回うたた寝をしたら、その喜びは消えている。
そういうものなのか…と、僕はこれを見て、自分の人生観が変わった気がした。
今でも、その言葉は耳から離れない。
永遠に不満で傲慢。 それが人間なのでしょうか…
…とつぶやいた開高健の言葉が。
……………………………………………………………………………………………
3年ほど前から、また開高健の本が売れ始めているそうだ。
「太るなんてまるで気にせず、どんどん食って飲む。 見ていて気持ちのいい人だった」
と開高を知る編集者が述懐する。
「開高が描き出した昭和の熱気を知る中高年世代が、タイムトンネルをくぐるような思いで改めて彼の作品に手を伸ばしているのではないでしょうか」
何も気にせず、どんどん食って飲んだ開高健は、1989年12月9日、58歳のときに食道腫瘍に肺炎を併発して地上から消えた。
まさに疾風怒濤の人生だった。