近所にEさんという男性がおられる。 年の頃は75歳前後。
町内会の関係でいろいろな要職に就いている世話好きな人である。
2年前に僕が定年退職して、半年ほど経ったときのことだ。
散歩中に、向こうからEさんがやってきて、声をかけられた。
「もう退職しはりましてんなぁ」 と僕の顔をのぞきこむように言った。
「はい。3月末で定年退職ということで…」 と僕はうなずいた。
「たしか松原市役所にお勤めでしたな。 どうも長い間、ご苦労さんでした」
「はぁ。 ありがとうございます」
と僕はそう言ってその場を離れようとした。
実は僕はこのEさんが、以前からどうも苦手なのである。
世話好きで愛想のいい人なのだが、ひとつ間違うと、態度が一変する。
むかし、Eさんから、溝の排水をわが家の溝の方に流させてほしいと申し出があった。
それには、いろいろ付随する問題があったので、丁寧にお断りした。
すると E さんはそれ以後、僕たち夫婦にはいっさい口をきかなくなった。
何年かして、Eさんの奥さんが亡くなられた。
同じ町内なので、妻も Eさん宅のお通夜と告別式の手伝いに行った。
そのとき妻は、告別式場の前に並べる板の 「しきみ」 に氏名を書く役をした。
近所でお葬式があると、妻はだいたいそのような役割をするようであった。
告別式が終わったら、僕たちに何年も口をきかなかった Eさんが、
急に愛想がよくなって、顔をあわせると丁寧なあいさつをしてくれるようになった。
まあ、世の中というのはそんなものだけど…
そこで冒頭の話に戻るのだが、Eさんは、
「ところで、今はどこへも働きに行ってはりませんねぇ」 と僕に言う。
「えぇ、働いていませんけど…」 と正直に答えた。
「結構でんなぁ。 毎日遊んではるんやったら、ちょっとお願いがありますねん」
げっ。 お願い…? なんだ…?
「来年の4月に地区町会の役員改選がありますんやけど、会長になってくれまへんか」
「はぁ…? 会長に…? 地区町会の…?」
地区町会といえば、1単位の町会ではなく、かなり大きな統括的組織である。
僕は市役所の仕事で町会の担当もしたことがあるので、その苦労はわかっている。
「おたくやったら役所のこともよう知ってはるし。 わたしは適任やと思うてます」
とニコニコと笑顔で迫る Eさんにたじろぎながら、
「いや、あの、そんなこと…」 引き受けられません…とそれとなく態度で示した。
しかし、Eさんは頓着なく、
「頼みますわ。 また他の役員も連れて、正式にお願いに上がりますんで」
僕は慌てた。
退職して得た自由な時間を、今後どう使おうかとワクワクしていた時期である。
1町会の会長ならともかく、地区会長なんて…。 行政との関わりも深い。
やっと役所生活を終えたというのに、またそんなことに逆戻りするのは絶対イヤや。
それに、僕の性格からして、そういう役回りはまったく性に合わない。
また、こういうのって案外やりたがる人もいるわけで、そういう人に頼めばいいやん。
「え~っと、今はぶらぶらしていますが、また働こうかな~とも思ってますんで」
と、とっさに、嘘の言葉が僕の口をついて出た。
「あぁ、そうでしたか…? はぁ…」
Eさんは怪訝な顔つきで、僕の言葉に対し、中途半端にうなずいた。
それから何ヶ月も経った。
平日の昼でも、僕は買い物に出かけたり、コスパへ行ったりしている。
モミィを迎えにも行っている。
どうみても、仕事を持っているふうには見えない。
そこで、しょっちゅう近所の Eさんと出会ってしまう。
Eさんは、なんだか腑に落ちないような顔をして、
「働く…と言うてたんと違うのか…?」 みたいな目で僕を見る。
僕はさっと会釈だけして、 Eさんに話す隙を与えず、その場を離れる。
しかし、何度も同じようなことをして逃れ続けるのは、なかなか難しい。
僕が働いていないらしい…と知ると、Eさんは、また触手を伸ばしてきた。
今度は妻に、僕に地区会長を引き受けてもらうように言ってほしいと頼んだのだ。
だが、妻にはあらかじめ僕の意向を伝えていたので、
「主人は心臓の病気で、毎月病院に通っているものですから…」
と、体調を理由に、これも丁寧にお断りした、という。
よしよし。 よく言ってくれた。
僕は不整脈で、いつ発作が起きるかわからない身である、ということを伝えたわけだ。
「あぁ、そうでっか。 ご主人、そんな病気を持ってはりますのか」
しかし…
そのわりには、僕は毎日のように近くの大和川の堤防でランニングをしている。
コスパへ水泳に通っているのは内緒にしておけるが、ジョギングは隠せない。
先日、Eさんは、妻に会ったとき、こう言ったそうだ。
「ご主人、走ってはりまっせ。 どうみても、病気には見えまへんけどなぁ…」
あぁ、今年もまた新年度の地区町会の役員選が近づいてきた。
E さんが他の役員さんを連れてわが家にやって来たりしないだろうな~。
何事も起こらないことを、ひたすら祈るばかりである。