今年は元旦から石川県の能登半島で震度7という強い地震があって、それから半月以上経った現在も大変な状況が続いているようです。
あの元旦の午後4時過ぎ。キッチンにいた僕は、ユラ~っと床が揺れたのにハッとして、「え?」と思った瞬間に電球が揺れ始めたので地震が起きたことがわかった。すぐにテレビをつけるとNHKで速報が流れていたし、他のすべてのチャンネルが通常番組を中断して、この地震のことを報じていた。まさか能登半島という遠い所で起きた地震だったとは思いも寄らなかったのだけど。
今も安否不明の方がおられ、電気や水道も止まったままで、自宅におられる方、避難されている方などが大変不自由な生活を送っておられる現状です。
そういう中で、僕自身は先月から、不整脈に加えて耳鳴りまで大きく感じ始め、心身とも不調で落ち込んでいるんですが、被災地の皆さんの辛いお気持ちやご苦労を思えば、こんなことで沈んでいる場合じゃないだろ、と自分自身に言い聞かせたりもしています。
まぁ、それとこれとはまた違うやろ、みたいな気持ちもふと湧いたりして、相変わらずパッとしない毎日を送っていますが、年末に不整脈の新しい薬をもらって服用し始めたら、今年に入って不整脈は一度(10日~13日)出ただけで、12月よりマシになりました。次の診察日の22日まで、どうかこのまま発作が出ないようにと願っている日々です。
さて、その震災に関することですが、昨日の1月17日は、あの阪神淡路大震災が起きた日でした。
テレビでも、それに関する特集番組がNHKなど各局で組まれていました。
1995年(平成7年)のことでした。
あれからもう29年も経ったのですね。あの年は3月にオウム真理教の地下鉄サリン事件も起きたりして、厄災の多い年でした。そして、僕たち家族が経験した地震の中でも、最も恐ろしかったのが、あの地震でした。
このブログでも、何度か、阪神淡路大震災のことを書いています。
能登地方の地震被害が今も続いている今年は、例年以上に地震の恐ろしさを痛感しています。
それで、今年も阪神淡路大震災に関する記事を再掲したいと思います。
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当時から保存していた震災当時の新聞記事を掲載します。
1995年1月17日(地震当日)の夕刊一面。
同じ1月17日夕刊の社会面。
高速道路が途中で折れ、バスが落ちかけている写真もありました。
翌18日(水)朝刊。
地震発生から半日が過ぎても燃え続ける神戸市街。
1月18日夕刊。
激しい地震で家が倒れ、焼け野原になった神戸市街。
1月19日(木)朝刊。災害の全貌が、徐々に明らかになってきました。
写真は、活断層が動き、地表に生じた亀裂が一直線に延びたさま。
1月19日夕刊。
19日になっても、三宮中心街の高層ビルで火災が発生しました。
(写真は、煙に包まれる高層ビル)
救助に当たった自衛隊や機動隊は、生存可能者を優先しました。
生き埋めになった遺体の捜索・搬出まで手が回らないので、
それらを、地元住民の手で行なった地域も少なくなかったそうです。
1月20日(金)の朝刊。
写真は、倒壊したビルの中から57時間ぶりに救出された子ども。
この9歳の男児は、救出の瞬間「まぶしい」とつぶやいたそうです。
新幹線の新大阪~京都間は、この日から運転が再開されました。
1月21日(土)朝刊。
当初、震度6と発表されていましたが、気象庁の詳しい調べで、
神戸の三宮地区と淡路島北部は震度7だったと判定されました。
僕が生まれた昭和24年に震度階級「7」が設けられて以来、実際に
震度7が確認されたのは、これが観測史上初めてということでした。
(16年後の2011年3月、東日本大震災の時の宮城県も震度7でした)
1月24日(火)朝刊。震災から1週間が経った。
死者はついに5,000人を超えたと報じられた。
(最終的には6434人が亡くなられたとされています)
今回の能登地方の被災地の皆さま。
一日も早い復興を、心から願っています。
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