goo blog サービス終了のお知らせ 

 僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

スペイン広場やトレビの泉

2019年08月12日 | 旅行

ローマの地下鉄の路線は、A線とB線の2つだけで、その2つの線が交差する唯一の駅がテルミニ駅なので、僕たちが泊まったホテルと目と鼻の先にテルミニ駅があったのはとても好都合でした。

さて、テルミニから地下鉄に乗って3つ目のスパーニャというところへまず行きました。これがローマ市街の大ざっぱな地図です。

 
右のほう、黒い矢印を付けたのがテルミニ駅です。
この日は北のスペイン広場からトレヴィの泉、パンテオン、
ナヴォーナ広場、真実の口まで歩き、そこから地下鉄で戻りました

さて、スパーニャの駅で降りて

 
 地下鉄から外へ出たところです。

 
 この路地を歩いて行くと、すぐに


 
「ローマの休日」で有名なスペイン広場に出ました。

 
義姉が撮ってくれました。

この階段の上のほうに見えるのが「トリニタ・デイ・モンティ教会」です。
「ローマの休日」でも、大きく映っていましたね。

 
「ローマの休日」の有名な1シーン。
オードリー・ヘプバーンはジェラートを手にしています


この階段を上がって、今度は教会から下を眺めて見ると、

 
と、こんな具合です。

さて、階段を下ると、広場に大勢の人たちがいます。
さすがに世界でも有数の観光地ですね。

 

いいお天気で、日が照り付けていますが、不思議なことにほとんど帽子を被っている人がいません。パリでもそうでしたが、カンカン照りなのに誰も帽子を被っていない。僕はこれまで真夏にヨーロッパを旅行したことがないので気がつかなかったのですが、帽子を被るという習慣が、これらの国の人たち(特に男性)にはないのでしょうか? 僕はむろん帽子を持って行ったのですが、誰も被っていないので、1人だけ被るのも何なので、被りませんでした(笑)。それでも、別に暑くなかったですね~

 

スペイン広場から地図と磁石を頼りに、次はトレヴィの泉の方面に向かって、適当に歩いて行くと、前方にそれらしき景色が見えてきました。

 
 突き当りがトレヴィの泉です。

トレヴィの泉にコインを1枚投げると再びローマに来ることができる、と言われています。僕らも今からちょうど20年前に一度ローマへ来たことがあり、その時にここでコインを1枚投げました。ローマにまた20年ぶりに来られたのは、あの時にコインを投げたからでしょうね。
でもまぁ、今回は投げませんでした(笑)。

しかしモミィだけは、大混雑している泉のそばへ行ってコインを投げていました。またいつか、きっとローマに来ることがあるんでしょうね。


 
 トレヴィの泉。ほぼ真ん中に、モミィがいます。

ところで、ご存知のようにイタリアではジェラートが人気です。20年前もこのトレヴィの泉の前の店でジェラートを食べたのを覚えています。で、泉の前にある小さなお店に入りました。ジェラートを求めるお客さんたちでギッシリ満員。モミィも立ったまま、美味しそうに食べていました。

 
 モミィは食べている時が一番うれしそうです


ローマでもパリでも、なかなかトイレがなかったのですが、この時は、僕はジェラートより、お店の奥にあったトイレに行けた方が嬉しかった~(笑)。

ローマの街は案外狭くて、さっと見て回るだけなら1日で歩けそうです。
「ローマは一日して成らず」と言われていますが、1日で歩けますね~

ではまた次回ということで

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローマ、パリ旅行へ さぁ出発

2019年08月10日 | 旅行

今回の旅行は、まずローマで3泊、次にパリで3泊という行程でした。この2つを選んだのは、モミィを初めてヨーロッパに連れて行くにあたり、やはり最もポピュラーな街として、この2大都市がいいかな~という簡単な理由でした。

7月31日に、関西国際空港から、午前10時半発のエールフランス機で12時間かけてパリの空港へ。そしてその空港で4時間半の待ち時間を過ごし、次のローマ行きの飛行機に乗り換え、ローマに到着したのが現地時間で31日の午後11時過ぎでした。とは言っても時差があるので時間の感覚がよく分かりませんが、つまり関空を出てからパリ空港での長い待ち時間を含め、ローマの空港に着くまで、合計で18時間半以上かかったことになります。

ちなみに日本とパリ・ローマの時差は7時間。つまり日本が7時間早いわけですね。ローマのホテルに着いたのは深夜の12時頃だったのですが、日本時間で言えばすでに翌日の午前7時。日本ではこれから1日が始まろうとしている時間に、僕たちは深夜にローマに着き、これはもう「早く寝なければ!」という時間帯ですもんね。完全に時差ボケで、体調が狂いますわ。


 
パリの空港での待ち時間は長かったけれど、
広くて賑やかな空港なので結構楽しく過ごせました。
(写真左から、義姉と妻とモミィが写っています)


ま、ややこしい時間の話はそれくらいにしておきまして

今回の現地での行動は妻が計画を立てたのですが、モミィともいろいろ相談していたようです。モミィもまだ13歳の女の子ですから、有名な史跡や観光地めぐりよりも、どんなおいしいもの(それもパンやお菓子)があるのかという興味の方が強かったようで、自分で本を買ってきて、あれやこれやと調べていました。


 
モミィが事前に買っていた本。
「旅好き女子のためのプチぼうけん応援ガイド」
という文が表紙に書かれています。

この本の中身は

 
 パンとかお菓子とかお土産の紹介がほとんどです。

ま、モミィは食べることが大好きなので、お菓子類に目を奪われるのも無理なからぬところですが、それでも一応、有名な史跡・観光地へも行っておかなければね~。

………………………………………………………………………………………

一夜明けて、まずローマの街めぐりでしたが、ローマもパリも、地下鉄で移動しながら、あちらこちらをテクテク歩きながらいろいろと巡りました。幸いにして妻も義姉もモミィも、脚力は割に強いので、僕が「地下鉄に乗る?」と聞いてもよほど距離がない限り「歩こうよ」という返事が返ってきました。ローマは今の日本各地のような猛暑ではなく、かなり歩けたのは幸いでした(さらにパリではそれ以上に暑さはマシでした)。

さて、僕たちが泊まったホテルは、テルミニ駅という、ローマの玄関口と呼ばれるイタリアで一番大きな駅から、徒歩で3~4分の場所にありました。テルミニ駅構内にはショッピングセンターやら飲食店街やスーパーやら、何でもあるので、とても便利でした。日中、ローマの街を歩き回ったあと、夕方にいったんホテルに戻ると、僕はもう冷蔵庫で冷えているビールを飲んで部屋でリラックスするのですが、3人は再び部屋を出てテルミニ駅界隈へ行き、モミィは好きなパンやお菓子やお土産物を見て回ったり買ったり、結構楽しんでいたようです。まあ、女性軍はそういうところを見て歩くのが好きなんですよね~

僕のほうは、いったん部屋でビールを飲み始めると、もう動くのが嫌になります。だから、だいたい夜の食事はテルミニ駅地下のスーパーなどで買ってきたものを4人で部屋で食べました。時間の制限もないし、僕はベタっと足を投げ出して座り、みんなでおしゃべりをして過ごす夜の、の~んびりとした時間が、昼間の疲れを取ってくれます。

朝食はホテルで。昼食は街のカフェや気軽な食堂で。夜は部屋で。というのが、僕たちの基本的な食事パターンでした。

一度だけパリで、最後の夜、レストランに入り、セットメニューを頼んだのですが、量があまりにも多く、僕以外の3人は半分以上残し、特にモミィはほとんど食べられませんでした。僕も少し残したのですが、無理して食べたこともあって、お腹が破裂しそうでした(笑)。

ということで、次回はローマでの最初の日。映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場と「真実の口」、トレビの泉、その他、観光地の様子を、例によって話がコロコロ変わったりしそうですが、いろんな体験談をご紹介していきたいと思います。

 

 

 

 
ホテルを出て、角を右折するとすぐにテルミニ駅が見えてきます。
写真の一番手前を歩いているのがモミィです。

 

 
観光客等でにぎわうテルミニ駅。

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いきなり 「進次郎・滝クリ」 ですかいな

2019年08月08日 | 旅行

昨日、ローマ・パリへの旅行から帰ってきました。

7月31日に出発し、8月7日に帰国という8日間の旅でしたが、それはまぁそれで楽しかったわけですが、個人旅行だったのでいろんなトラブルや戸惑うこともあって、かなり疲れました。

昨日のお昼頃に帰宅した時「あぁやれやれ、無事に帰って来れてよかったねぇ」とホッと一息つき、とりあえず昼食を摂ったのですが、妻とモミィはカップ入り即席うどんの「赤いきつね」にお湯を注いで「おいしい~」と言いながら食べ、僕は缶チューハイを開けてグイ~ッ。

やっぱりね~。ローマやパリのワインよりも、日本の缶チューハイのほうがおいしいですわ(笑)。モミィも「赤いきつね、メチャおいしい!」と感嘆の声をあげていました。1週間、パンが主食だったもんですからね。

そして、テレビをつけたら

「速報」と出たので何があったのかと凝視したら、小泉進次郎と滝川クリステルが結婚する、というニュースで、2人の記者会見の生中継が始まりました。

そのあと、延々と会見の生中継とその話題が続いていました。

このテレビ画面を眺めながら、確かに2人の結婚報道には驚きましたが、でもまぁ、ローマやパリではホテルの部屋のテレビをつけても、何が何やらよくわからなかったので、これでまた普通の生活に戻ったんだな~という実感はありました。

今回は妻の姉も加えた4人の旅行でしたが、4人とも病気や怪我もなく、元気で帰って来ることができて本当によかったと、しみじみ安堵。何しろ2年半前のロス旅行の時は、僕が帰国2日前からインフルエンザにかかってホテルで寝込んだという苦い経験もありますのでね。

長い間ブログを休みましたが、次回から、旅のエピソードなどをお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バチカン美術館ネット予約 その結果は?

2019年07月24日 | 旅行

前回の続きです。

わが家からパソコンでローマのバチカン美術館の公式ホームページを開けて入場券の予約購入をし、カードで支払いも終えたのに、向こうから来たメールの添付ファイル(PDF)を開けてみると、全11ページ中、第1ページ目だけが白紙だった。2ページ目からは美術館の宣伝資料なんだけど、それは全部入っていた。しかしそんな資料なんかはいらないんです。肝心なのは「予約を受け付けました」という1ページ目の確認書なんです。

別のサイトで日本語で解説されているページを見ると、添付のPDFファイルの1ページ目には申し込んだ日時や人数、支払い金額などの詳細が載っていて、QRコードもついていた。それをプリントして、当日見せたらそのまま入れます、とその解説ページには書かれていた。なのに僕に来たメールの添付ファイルには、その部分に何も書かれていなかった

と、ここまでは前回に書きました。

そこで、僕たちは翌17日、旅行を申し込んだアベノのJTBへ行って事情を話しました。相手をしてくれた女性係員は少し年配の方だったけれど、最初、僕が説明すると、 「そうですねぇ。お客様個人で予約されたことですからね」 と、丁寧だけど、やはり予想通りの答えが返って来た。しかし、親身にはなっていただいていたようで、「一度、その画面を見せてもらえますか?」と言われたので、僕は自分のスマホを取り出し、Yahooのメール欄を開け、バチカンから送られて来たメールを見せた。

メールの内容はイタリア語と日本語の両方で書かれていて、係員さんは英語の方を声を出して読まれた。「なるほど、当日はこの添付ファイルを入口で示してください、ということが書かれていますね」


 
これがメールの最後に添付されていたPDFファイル。

そし女性係員は「では、この添付のPDFファイルを開けてください」と言ったので、僕は添付ファイルをタッチし、次に「ダウンロード」をタッチした。するとやはり例のごとく、予約に関することが何も書かれていない1ページ目の画面が出た。


 
前回にも載せましたが、何も記載されていませんよね

「これです」と見せると、 「ふ~ん。ホントですねぇ。おかしいですね」と女性はつぶやく。 と、その女性係員は少し考えてから 「もしかすると、開け方によるのかも知れませんね」 と言った。「えっ?開け方?」 その意味がわからない。

「アドビ(Adobe)で開けられましたか?」
それでも何のことかわからないので、スマホを彼女に渡した。

今度は彼女が「添付ファイル」をタッチしたあと「ダウンロード」をタッチ。その時、いつも「〇〇(何だったか覚えていない)で開ける」という文字が出る。僕は深くは考えず、いつも「これで開く」の部分を押していたのです。それで、常に1ページ目が白紙で出てきたのです。それを伝えると彼女は、なるほど、と納得の表情でスマホを改めて僕らに示しながら、
「ここを見てください。画面の下に『他のアプリで開く』というのもありますよね」
「あ、ありますね。触ったことはありませんけど」
「ここを押すと、Adobeという名前が出てきます」
なるほど、「Adobe」というのが出てきた。 そして彼女が、「Adobeで開く」をポチンと押すと

なんとまぁ!

これまでずっと白紙だったところに、僕たちが申し込んだ詳細が記載され、QRコードもついており、サンプルとまったく同じ画面が出てきたのです。


 
出ました。僕たちの予約確認書が!

「わっ。出たぁ」

僕たち夫婦は思わず両手をパチパチ叩きました。すると係の女性もパチパチと叩き「よかったですね~」と言ってくれました。そして 「Adobe Acrobatというのは、世界でもっとも広い範囲でPDFファイルを開くのに利用されていますから。やはり、支障になっていたのは開け方だったのですね~。よかったですね」

いやぁ、さすがによく気がついてくれました。パソコンやネットの知識に弱い僕たちだけでは、おそらく解決できなかったと思います。

僕たちは何度もお礼を言い、その女性係員の方も嬉しそうな表情を浮かべていらっしゃいました。「来てよかったねぇ」と妻と話しながら、もうお昼も過ぎていたので、近くにあるイタリア料理店に入って昼食を取りました。といってもサイゼリアですけどね(笑)。

そこで僕はいつもの辛味チキンやプロシュート(生ハム)などを注文し、赤ワインのデカンタ(500㎜)を飲んでいい気持になりました。そのあと帰宅してすぐに、パソコンを開け、女性に教えていただいたとおり「Adobeから開く」で予約確認書を画面に出し、それをプリントしたのです。

やれやれ。これを持って行けば、ローマのバチカン美術館には、長蛇の列に並ばなくても入れそうです。よかった、よかった。


 

あ、ところで話は変わりますが… 


おととい、病院へ心臓の検査に行きましたが、1年前の状態と変わっていないということで、ホッとしました。もし入院なんて言われたら、バチカン美術館どころではありませんものね~

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローマ・バチカン美術館をネットで予約したら…

2019年07月20日 | 旅行

海外旅行というのも、添乗員付きの団体ツアーであれば楽なのですが、個人旅行となると、やはり事前の準備や何らかのトラブルへの備えなど、十分な「予習」をしておくことが大事かなぁと思っています。

モミィの夏休み中に、ローマとパリへ旅行する予定があることはすでに書きましたが、事前にいろいろやらねばならないことがあり、なかなか忙しいです。

パリには僕は過去4回(妻とは3回)旅行し、ローマには2人で一度行ったことがあるのですが、かなり以前のことです。それと、今回は2人だけの旅行ではなく、モミィと義姉(妻の姉)を加えた4人の旅行なので、しっかりと準備しておく必要があります。2人だったら旅行中も行きあたりばったりで行動できますが、4人となればなかなかそうもいきません。で、妻は毎日ガイドブックを見ながら、どういう順序でローマとパリの街を巡るのか、どんな点に留意すべきなのか、などと、詳しくメモをとりながら、あれやこれやと思案しているようです。

で、観光地巡りのコースや食べ物などのことは妻に任せ、僕は、その場その場での対応を少しでもスムースにできるようにカタコトのイタリア語を勉強したり、英会話もまた昔のテキストを引っ張り出したり、歩きながらウオークマンを聴いたりして、主に2か国語の勉強をしています。(フランス語は昔から苦手なので、パリではカタコト英語で乗り切らなければ)。

そんな時、先日、妻から、ローマのバチカン美術館は世界中の観光客にすごく人気が高く、たぶん2時間以上も並ぶことになるので、予約をしておいたほうがいいのでは? と持ちかけられました。

バチカン美術館は、ご承知のように「世界で一番小さい国」として知られるバチカン市国にある有名な美術館で、特にミケランジェロによって描かれたシスティーナ礼拝堂の天井画などは、よく知られていますね。

実は前回(20年前)ローマを旅した時、バチカン美術館にも行ったのですが、切符売り場で少しは並びましたが、そんな大して混雑はしていませんでした。でも今はものすごい観光客数であふれかえっているという妻の言葉を聞いて、ほんまかいな、と思いながらネットで調べると、たしかに長蛇の列の画像が写っていましたし、どのガイドブックにも、並んでいる時間がもったいないのでチケットを予約しておいたほうがいい、ということが書かれていました。

でも、予約を旅行社に頼んだり、ネットで業者に依頼したりすると、すごく高いんですよね。自分でネットで予約をすると、正規の入場料と予約手数料で済むのですが、業者に頼んだらその2倍近いお金がかかります。僕たちは4名ですからね、旅行社やネット業者に頼むと金額がメチャ高くなります。

2年半前にロサンゼルスに行った時も、渡米時にはエスタ(ESTA)という、アメリカにビザ無しで90日以内の旅行の際に必要な「電子渡航認証システム」というものを申請しなければならなかったのですが(むろんすべて英文です)、それも業者に頼むと驚くほど高い。なので、自分で苦労しながらもパソコンから申請した経験があるので、今回も頑張って自分で予約してみよう、と思ったわけです。

そんなことで、こちらのサイトから予約をしました。ここに順次、必要事項を打ち込んでいきます。

僕のyahooのメールアドレス、訪れる日時、人数(大人3人、18歳未満1人)、4人の氏名、代表者(僕)の生年月日をはじめ、いろんな欄を埋めていきます。

最後にカード番号などを打ち込み、すべて終了。これで予約チケットの購入完了。やったぁ~

が、しかし、その後に問題が起きました。

僕のパソコンに、さっそくバチカンからメールが届いたのですが、本来はそのメールに添付されているファイルを開けると、このような予約確認証が出てくるはずだったのです。


 
 これはネットに載っていたサンプルです

ここには予約者の氏名、予約番号、訪問日時、人数、カードで支払った金額などが記されており、そしてQRコードもあります。これをプリントして、バチカンの予約者専用の入口で提示すればすぐに入場できるということなのでした。添付ファイルは全部で11ページあるのですが、2ページ目以降は美術館の宣伝や地図などの案内文書がついているだけ。つまり重要なのはこの1ページ目だけでした。

ところが僕がその添付ファイルをダウンロードしたら、その大事な1ページ目が、なんとまぁ、白紙だったのです。

こんな画面でした(僕のパソコンの画面です)

 
「NON CEDIBIRE」というのはイタリア語で
「譲渡禁止」というような意味です。そんな 
関係ない字だけが出ているんですからね~

ご覧のとおり、僕がいま予約した事項は何も出ていません。サンプルの添付ファイルには、各項目が出ているのに、なんで僕の添付ファイルはその大事な1ページ目だけが白紙なのだ。たった今、パソコンから4人分の料金をカードで支払ったばかりなのに。いったいどうなってるの? 

僕は今度はスマホを取り出し、yahooのメール画面を出して、もう一度パソコンでしたのと同じように、バチカンから来ていたメールを開け、添付ファイルをダウンロードしてみましたがそれもやはり同じ白紙でした。

何だこれは。わけ、わからへん! どう考えてもその理由がわからない。向こうがきちんとしたファイルを添付するのを忘れたのか? ローマへ電話で問い合わせることもできないしな~

誰に相談すればいいのかわからないまま、その日が終わった。

そして翌日、こんな用向きで行っても相手もたぶんわからないだろうな、と思いつつも、藁にもすがる思いで2人で阿部野のJTBのお店へ向かいました。僕が個人で予約したことだからJTBの人に責任はない。でも、わけを話したら何かアドバイスをもらえるかも知れない。それが3日前の7月17日のことでした。

あぁ。書いているうちに疲れてきました。

では、この続きはまた次回に。

チャオ~

 

 *追伸

明後日の22日(月)午後1時から、BSプレミアムで、映画「華麗なる激情」が放送されます。ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を描く情熱と苦悩を描いた有名な映画ですが、今日のブログで、バチカンのシスティナ礼拝堂のことに触れましたので、ご参考までに。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コアラを抱っこ

2019年07月09日 | 旅行

昨日のブログでゴールドコースト・マラソンに関することを書きましたが、本当はニュースで「ゴールドコースト」という地名を聞いた時、以前そこへ家族で旅行した時のエピソードを思い出し、それを書こうとしたのです。なのに、ついマラソンの話になってしまいました。相変わらず、脱線ばかりで

で、今日はゴールドコーストで体験した「コアラを抱っこ」のお話を。

ゴールドコーストはオーストラリアのクイーンズランド州というところにあるのですが、この州以外では、観光客がコアラを抱くことについて厳しく制限されている、ということでした。まぁ、20年ほど前の話なので、今はどうか知りませんが、当時はそうでした。

だからこの地へ来たからにはコアラを抱っこしたい、と僕たちは思ったのです。

この旅行は妻と長男と3人連れだったのですが、ゴールドコーストのドリームワールドという遊園地にコアラを抱ける「コアラ館」というのがあったのでそこへ行きました。2匹のコアラがいて、それを観光客が列を作って順番を待つ。やがて僕たちの番になり、コアラを抱っこする瞬間が訪れました。

ところで、そのコアラの「抱き方」ですが

コアラの「正しい抱き方」というものがあるのですよね。

係の金髪女性が、身振り手振りで抱き方を指導してくれたところによると

まず両手を下で組むように言われる。そこへコアラが乗せられる。つまりコアラのお尻を、組んだ両手で受ける形になる。

大事なのは、このとき、人間は絶対に動いてはいけないということだ。コアラに「これはユーカリの木だ」と思わせなければならない。だから抱いたあと、決して動かず、ユーカリの木になりすますこと。ここがポイントだそうである(ホンマかいな?)。

赤ちゃんを抱っこする時のように軽くあやすようなことはしてはならない。とにかくじ~っとしていれば、コアラは安心してしがみついてくるとのことでした。

そういうジェスチャーで説明があったあと、係の金髪女性がコアラを抱いて近づいて来る。その時、僕は言われたように両手を下で組んだ。そして、そこへコアラがそろりと乗せられた。

むろん、僕はコアラが乗っても両手を下で組んだまま、動かずにじっとしていた。うまく抱き着いてくれたら女性係員は手を放す。コアラは少し体を伸ばし、僕の両肩に爪をグイっと食い込ませて抱き着く。痛い。そんなに爪を立てるなよ、と言いたいけれど、それがまたちょっと可愛くもある。

そこへもう一人の女性係員が写真撮影をしてくれる。

抱いていた時間はだいたい15秒ぐらいだったろうか。ポテッとした生温かい感触を楽しんでいるうちに、撮影が終わり、先の女性がコアラを僕から引き離しにかかった。そのとき、コアラが引き離されまいとしたのか、さらに爪を僕の両肩に食い込ませたので、僕は思わず「痛っ」と声を上げてしまった。自分がユーカリの木になりすましていたことを、もう、すっかり忘れちゃってました(笑)。

コアラというのは、よほどの怖がりなのでしょうか。これだけたくさんの人たちに抱かれていても、犬や猫のペットのように人に慣れるということはないんだろうか? な~んて思いながら、出来たてホヤホヤの写真を受け取って、コアラ館を出た僕たちでした。

 

 
右は「抱っこ指導」をしてくれた女性、左は写真撮影担当です。
うしろに見えるカンガルーたちは絵です。念のため。

 

 
離れる時、コアラに爪を立てられ、「痛っ」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の2階はヨーロッパでは1階と呼ぶそうで

2019年05月23日 | 旅行

このあいだ、イタリアに関する本を読んでいたら、

「イタリアでは日本の2階は1階と呼ばれるので注意しましょう」

ということが書かれていた。あ、そうだった~と思った。

最後にヨーロッパに行ったのは2008年のパリ旅行だったので、もうすっかり忘れてしまっていたが、イタリアだけではなく、フランスでも日本で言うところの「2階」が「1階」だったことを思い出した。

24年前に妻と2人でパリへ行った時、ホテルのフロントで部屋のキーをもらったら「300何番」という部屋番号が書いてあったので、てっきり3階だと思って、目の前に階段があったのでそこを上がり、3階の部屋番号を見ると200番台だった。「えっ? 300何番だったら3階じゃないの?」と不思議に思いながら一つ上の4階に上がったら、300番台の部屋が並んでいた。その時はわけがわからなかったが、後にフランスでは、日本の2階が1階と呼ばれることを知った。だからホテルの部屋が300何番だと、フランスではそれが日本で言う4階にある、というわけ。

では日本で言う1階のことは何と呼ぶのか? はっきり知らないが、まあ、地上階とか、グランドフロアのような呼び方をしているんでしょうね。

だからイタリアでも同じで、つまりヨーロッパではみんなそうなっているのだと思う。

例えばイタリアのスーパーで店の人に「トイレはどこですか?」と聞いて「2階にあります」と教えてもらったら、それは日本の3階のことなんですよね。2階に行ってトイレをいくら探しまわっても、絶対に見つかりませんで(笑)。

そう言えばスペイン・バルセロナのイングレスという百貨店に行った時、こんなことがあった。僕は靴が欲しかったので日本で言う2階の靴売り場へ行くと、大きな靴ばかりで足の小さな僕に合う靴がない。そこで売り場の人に、覚えたばかりのスペイン語でたどたどしく「ティエネ・マス・ペケーニョ?(もっと小さいのはありませんか?)」と聞いたら、店員さんは僕が東洋人っぽかったので、口では言わず、指を1本差しだして、そのあとその指を上に向けた。つまり1階上にある、ということだった。(ちなみにその階は赤ちゃん用品の売り場がメインで、そばに小さい靴の売り場がありました。なんのこっちゃ)。

また、そのあと別の人に、タックスフリーの事務所が何階にあるのかと聞いたら、その人は指を3本出して、下を示した。つまり3つ下、ということだったので、すぐに行くことができた。

言葉で何階と言わず、そんなふうに指を何本か出して「ここからいくつ上、あるいはいくつ下」というジェスチャーで示してもらったらわかりやすいですわね。

日本流の1階、2階が当たり前のように思っている僕たちですが、考えてみればそのほうが少しヘンかなと思ったりします。なぜなら「地下1階」と言いますよね。地上階からひとつ下が地下1階であるなら、地上階からひとつ上はヨーロッパ流の地上1階になるはずですよね。だから地上階は、数字で正確に表せば1階ではなく、ゼロ階ということになります。この「ゼロ」と「1」の区別がややこしいんですよね。

ところで、僕は以前、このブログにも書きましたが、ウオーキングのついでに、近くにある10階建ての大阪府営住宅の階段を最上階の10階まで歩いて上がることがあるのですが、一つの階を上がるのに14段の階段があります。

なので 僕は10階まで上ったんだから14段×10で、140段の階段を登ったものだとしばらくの間は思っていたんですよね。しかしある時ふと、その計算が間違っていたことに気がついたのです。最初に上がった所が2階だから、10階までは9回しか上がっていないわけで、それなら登った階段の数は、当初思っていた14段×10ではなく14段×9ですよね。いやまぁ、言い訳するわけじゃありませんが、物事をゼロからではなく1から数える癖がついているのでこんなことになるんでしょうか。イタリア人ならそんな間違いはしませんね~

今回「日本の2階はイタリアでは1階になります」 と書いてあったのを見て、数を数える時は常にゼロの存在を頭の中に入れておく、ということをその時に肝に銘じたことを思い出しました。

そういえば、松本清張の有名な小説に「ゼロの焦点」というのがありましたね。(なんの関係もあらしまへんがな)。おしまい。

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア語に再挑戦

2019年05月05日 | 旅行

最近読んだ本の中の一節に「70歳は再学問の適齢期である」という文があった。それに触発されたわけではないけれど、先月からイタリア語を勉強している。

なんで今さらそんなことを? と思われるだろうけど、この夏にパリとローマへ家族旅行することにした。それもツアーではなく個人旅行なので、カタコトくらいは話せた方がいいと思ったからだ。モミィの手前、恰好もつけなくてはいけないしね~(笑)。

実は2005年に妻とフィレンツェ旅行をした時に、これも個人旅行だったので、それに向けてイタリア語を勉強したことがある。

あの時は、このブログにも何度か書いたけれど、チョー驚きのハプニングに見舞われた。関西空港からフランクフルト空港へ行き、そこでフィレンツェ行きの飛行機に乗り換えた。そして、空港へ着いたら、なんだか他の客がみんな携帯電話をしていて、その様子が変だった。預けた荷物もなかなか出てこない(僕ら以外に日本人は一人もいなかった)。

やっと荷物を受取って空港を出たら、迎えに来ているはずの運転手も見当たらず、しかたなくタクシーで「フィレンツェ駅前の〇〇ホテルまで行ってほしい」と言うと、運転手が目を丸くして「はぁ?ここはフィレンツェ空港じゃないよ」と言った。今度は僕たちが目を丸くする番だった。「では、ここはどこ?」と聞くと運転手は「ボローニャだ!」と答えた。

後から分かったことだが、フィレンツェ空港が濃霧のため着陸できず、100キロ離れたボローニャ空港に緊急着陸したそうだ。

あちゃぁ~。そんなこと、ゼンゼン知らんかったわ。

すでに日が暮れていたので、不安は限りなく膨れ上がった。

そのあと国鉄のボローニャ駅からフィレンツェまで列車に乗って、やっと目的のホテルに着いたけれど、その時もとても苦労した。英語も通じず、このボローニャという都市がどこにあるかもわからない。カタコトのイタリア語を使って、そのへんの人たちに手あたり次第に救いを求め、空港からボローニャ駅までタクシーで行き、フィレンツェまでの乗車券と特急の指定券を買った。しかしさらに運悪く、駅の近くで事故が起きていて、そのため列車の時刻やホームの場所もコロコロと変わり、何度か違う列車に乗りかけた。その都度、現地の人に教えてもらい、なんとか間違わずに、やっとフィレンツェ行きの列車に乗り、駅にたどり着くことができたのである。

これに限らず、これまでの海外旅行で大なり小なりのハプニングは何度もあったので、やはり現地の言葉を少しでも話せると便利だし、ピンチに遭ってもなんとかなる場合が多いことを痛感した。

空港やホテルでは、大体どこの国でも英語が通じるが、一歩街に出るとそうもいかないんですよね~

そんなことで、僕はこれまで、韓国語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語などを、旅行前に勉強してきて、それなりに役に立ちました。

しかし旅行が終わってしばらく経つと、もう忘れてしまうんですね。

そこで、今度の夏の旅行に向けて、すっかり忘れてしまったイタリア語をまた勉強することにしたのです。

ところが、一度スペイン語も勉強したので、このイタリア語とスペイン語はよ~く似ているんですよね~

会話では必ず使う英語の「プリーズ」つまり「お願いします」は、イタリア語では「ペルファボーレ」ですが、スペイン語では「ポルファボール」。 「ありがとう」はイタリア語は「グラッツェ」でスペイン語は「グラーシアス」。数字もイタリア語は1、2、3が「ウノ、ドゥエ、トレ」で、スペイン語では「ウノ、ドス、トレス」で、ホント、よく似てるでしょ。

遠いむかし、イタリア語の次にスペイン語を勉強したこともあり、さらに今では年に一度、アルゼンチンから甥のヒロユキと妻のソルちゃんが来るので、スペイン語しか話せないソルちゃんにサービスするため、少しだけスペイン語の知識を頭に入れたりしています。なので今、イタリア語を勉強していると、頭の中でゴッチャになって困っているところです(笑)。

僕はフランス語と中国語の発音がメチャ苦手なので、この2つは勉強しかけても、すぐにやめました。しかしイタリア語はローマ字読みが多くて発音も日本語と似ているところが気に入っているので、勉強していても楽しいです。

この夏はローマとパリへの旅行ですが、パリは今度で5回目だし、なんとか英語で通せるし、フランス語は、まぁ「ボンジュール」と「メルシー」と「シルブプレ(お願いします)」さえ知っていたらいいかなと思っています。

あ、もう一つ大事な言葉がありました。

外国は日本のようにトイレが充実していません。パリでもトイレ探しに困ります。地下鉄の駅なんかにもトイレはありませんしね。だからカフェや百貨店・スーパーや美術館などへ行ったら必ずトイレを済ませておくことが大事なんです。ローマでも同じだと思います。

だから「トイレはどこですか?」
という言葉を覚えておくことが必須です。

ちなみにイタリア語では「ドベ・イル・バーニョ?」。
フランス語では「ウ・ソン・レ・トワレットゥ?」と言います。

ま、ややこしければ「イル・バーニョ?」と「トワレットゥ?」だけ言っても通じますよね~

もっとも相手に「〇〇です」と教えてもらっても、言葉がわからないので、その人の指さす方向をじっと見るのが大事です(笑)。

ま、そんなことで、今は結構身を入れてイタリア語を勉強しています。


こんな本を買って、毎日やってます。

   

 

 

 

来月あたりはイタリア語でブログを書いているかも知れません。

(あはは。そんなアホな)

ではでは、10連休も明日で終わりですね。暑くなりましたが体調にはくれぐれもお気を付けください。

チャオ~

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノートルダム大聖堂 まさかの火災

2019年04月17日 | 旅行

昨日の朝の6時半。
テレビをつけたら驚くべきニュースが流れていた。

パリのノートルダム大聖堂が燃えており、その映像を見て体が凍りついた。 「まさか」と思い「ウソやろ」と頭が混乱した。しかし、間違いなくあの大聖堂がテレビに映っており、そこが炎に包まれていたのである。息を凝らして見ていると、尖塔が火の中で崩れ落ちていった。うそやろ!

その後、どのチャンネルでも大きくこの火災のニュースを伝えていた。信じたくないけれど、あのノートルダム大聖堂が、燃えてしまったのである。あの思い出多いノートルダム大聖堂が

これまで海外旅行で一番多く行ったのがパリで、4回行った。いずれの時も、パリで最初に行ったのがノートルダム大聖堂だった。

ノートルダム大聖堂は、セーヌ川の中州のシテ島にあって、近くにはパリ市役所もあり、パリの中心地である。大聖堂の前には「パリ・ゼロ地点」というのがあり、パリからの距離はすべてここから起算される。


  
これがそのゼロ地点の写真です(1994年10月撮影)

 

それにしても、あのノートルダム大聖堂が燃えてしまうとは。

昨日は4度のパリ旅行の大聖堂での写真を見て、思いに耽りました。

最初は1994年10月。大阪府の市町村職員の海外研修というのに参加させてもらったのですが、その時、初めてヨーロッパを訪れ、パリにも行きました。

その時に、他の市町村の職員の人たちと撮った写真がこれです。

 

  
僕は右から2番目です。
これはノートルダム大聖堂の正面です。
この時も修復工事が行われていました。

 

続いて翌1995年の10月、妻と2人でパリへ旅行し、その時もまずノートルダム大聖堂へ行きました。

  
これは、寺院の裏庭からの写真ですが、
こちらのほうが建物の美しさが際立っています。

この時は2人だけの個人旅行だったので、このあとテクテク歩き、パリ市役所やパリ高島屋などへ行ったりしながらオペラ座周辺を巡り、やがて日が暮れ始め、地下鉄に乗りエッフェル塔の夜景を見に行ったのを思い出します。


次に行ったのは1999年の1月。妻と長男と3人で、ロンドン・パリ・ローマのツアー旅行で、やはりノートルダム大聖堂へ行きました。

 
冬のパリは初めてで、寒かったです。


4度目は退職を1年後に控えた2008年の4月。妻と、妻の姉と3人でパリへの個人旅行をしたのですが、その時も、真っ先にノートルダム大聖堂へ行きました。これはその時の写真です。

 
妻の姉が撮ってくれました。

 

そんなことで、4度訪れたノートルダム大聖堂での写真を見ながら、これらの時のことを一つひとつ思い出しています。しかし今もこの素晴らしい建物が燃えてしまったなんて信じらません。

今年の夏休み、妻と妻の姉とモミィと共に4人でパリへ旅行する予定をしています。モミィにノートルダム寺院を見せてやるのが楽しみの一つだったのに、それが「焼け跡」になってしまったなんて、とても残念です。

むろん再建はされるそうですが、かなりの年月がかかるし、また、1163年から建築が始まったというこの建物自体はもう戻ってこない。

「どんなものにも永遠はない」
ということを、改めて突きつけられた思いです。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国人観光客のマナーの悪さを見て 北京旅行を思い出す

2019年03月05日 | 旅行

日本へ観光にやって来る外国人の数が年々急増していることは周知のとおりですが、今日のテレビニュースでは京都の街が映っていた。ここも外国人客であふれかえっている。

大阪も、心斎橋筋や梅田、天王寺、そして大坂城など、外国人だらけである。特に大阪城では、日本人の姿を見つけるのが難しいほどだった。

今日のニュースも、京都の街の中での話。例によって外国人観光客のマナーの悪さにスポットが当てられていた。民家の戸を勝手に開けて中に入り、玄関口で写真を撮る。舞子さんが歩いて来ると取り囲んで写真を撮る。舞子さんがタクシーに乗ると、客たちが車を取り囲んで車内の様子を撮るのでタクシーが動けない。中には舞子さんに直接触って着物を引っ張る者も。

まあ、とは言っても、むろん外国人観光客がみんなそうだというわけではないんだけれど

観光客はいろんな国から来ていると思うが、やはり中国人が圧倒的に多いだろうね。やっぱりねぇ、中国の人というのは、昔からマナーが良くないんですよ。

1994年(平成6年)に一度北京に行ったことがある。当時大学生だった長男の女友達が北京に留学をしていたので、僕たち夫婦と長男の3人で北京へ行ったわけだけど、女友達に案内してもらった北京の街は、とにかくビックリ仰天の連続だった。人々のマナーというか生活習慣が、あまりに日本と違い過ぎたのです。

公衆トイレでは「個室」を開けたままで用を足している男性が何人もいた(一応、向こうの「個室」は、顏がこちら向きですが)。女子トイレですら開けたまましていた、と妻が驚いていた。

道行く人は所かまわず「カァッ~ペッ」と、タンを吐いてまわっている。その「カァッ~ペッ」の音が実に大きいのだ。また、街を歩いていると、至る所で小さい子供の母親が、これまた所かわまず子供におしっこをさせている。

ある書店で本を買った時は、レジの女からお釣りをチャリンと投げて返された。こちらとしてはバカにされているとしか思えない。

バス停では、列も作らず押し合う客たちが、バスが来たらわれ先にと乗車口にドド~っと殺到し、バスの方も、客がまだ全部乗っていないのに途中でドアを閉めるので、ドアに挟まれながら、バスにしがみついている人たちもいる。一度、僕が乗った直後、妻が乗ろうとしたとたんにドアが閉まりかけたので「危ない!」と、僕が必死でドアを押さえて妻を乗せたこともあった。

バスといえばもうひとつ。北京原人の里へ行く時に乗ったバスだが、僕は一番後ろに座っていた。その横に乗降口があったのだが、そのドアが走っている間に勝手に開くのだ。ビューっと外から風が入って来る。開いたドアが「バタン、バタン」と音を立てる。近くに座っているのは僕だけだったので、仕方なく立ち上がってドアを閉め、そのまま開かないように両手でドアを押さえながら、自分たちが降りる場所までそうしていた。ウソみたいな話ですが、ほんまです。

まだまだ、あります。

あるレストランへ北京ダックを食べるために入ったら、ウエイトレスが僕らが座っているテーブルに、背後からお手拭きをポイと投げて渡すのだ。そのウエイトレスたちは客など全く眼中にない様子で、自分たち同士でぺちゃくちゃ雑談を続けている。それも大声でだ。そんなとき、1人のウエイトレスが、自分が運んでいたお盆のグラスを下へ落とし、「ガチャン!」とグラスが床に落ちてこなごなに散乱した。どうするのかと見ていると、ウエイトレスは自分の失敗なのに、憎らしそうに「チェッ」とふてくされ、立ったまま靴でグラスの破片をボンボン蹴りながら隅の方に寄せて行った。ちょっと考えられない光景だった。

ところが、一度だけ入った外国人専用のレストランでは対応がゼンゼン違っていて、ウエイトレスの対応はメチャ丁寧で、店内のトイレに行くとおじさんが出入口に立っていてお手拭きを出してくれたりする。しかし、僕たちは長男の女友達に案内してもらう時、なるべく普通の店に入ることを希望したので、こんな経験をしたってことですよね。

当時僕は煙草を吸っていたので、ある食堂に入って灰皿を探したが、なかった。でもあちこちで客が煙草を吸っている。「灰皿はどこ?」と聞くと、「そういうのってありません。吸い殻は床に捨てるんです」と長男の女友達が教えてくれた。見ると、食堂の床は煙草の吸い殻だらけだった。

そのほかにも、タクシーに乗ったらわざと遠回りをして代金をぼったくっりされたりね。助手席に座った女友達の子が「道が違うんじゃない?」と北京語で言うと「工事中だからその道は通れない」という運転手はウソをついた、という。

あれから25年の歳月が経った。

北京の街そのものは当時よりはるかに近代化され、変わっていると思うけれど、人間そのものはその頃とそう変わっていないんじゃないかと思うんですよね。中国人が多数を占める外国人観光客が、日本で見せるマナーの悪さを報じられる度に、そう思ってしまうわけで。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラスベガスのカジノで 「ヘイ・カモーン」

2018年09月23日 | 旅行

ドラマ「半分、青い。」も、昨日(土曜日)は2011年3月11日、東日本大震災が発生したところで終わりました。そしていよいよ明日から最終週に入りますが、鈴愛の親友である裕子は、仙台市内の海の見える病院で看護師をしているということなので、彼女の身が案じられるところです。

ドラマといえば、どらさんへのコメントのお返事にも書きましたが、先週の日曜日に終わった「この世界の片隅に」も毎週楽しみに見ていました。戦時中から終戦後までの広島を舞台にした見応えのあるドラマでしたが、ヒロインの松本穂香さんのトロ~ンとした表情や、ホンワカした人柄が、とてもよかったように思います。

で、今日はそのドラマに少~しだけ関連する話です。
ま、ドラマのストーリーとは関係のない、たわいない話なんですけど。

先週日曜日のその最終回を見ていたら、こんなシーンがありました。

戦争が終わり、日本へやって来た米兵が、市場のようなところで子どもたちにチョコレートを渡していました。子どもたちも米兵に「ギブミー・チョコ」などと叫んでいます。そんなところへ、松本穂香さん演じるヒロインのすずが通りかかる。すずを見て、米兵が、「ヘイ・ガール」「カモーン」「ゴーアヘッド」「イッツ・チョコレート」などと大声を出す。すずは「はぁ?」という顔をしているが、米兵はすずにチョコレートを渡す。

帰ってそのことを家族に言ったら、義姉の尾野真千子が、「あんたは髪が短いから、子どもと間違えられたんじゃろ」と言う。米兵から見て、すずは髪型が子どものようだったので「へイ・ガール」「カモーン」と言いながら、チョコレートを渡したのだろうという。

このシーンを見て、僕は自分の海外旅行での経験を思い出したのです。

2004年に、妻とラスベガスへ旅行した時のこと。ラスベガスにはどのホテルにもカジノがあります。そして、食事をするのも、バフェと呼ばれるバイキング形式のレストランが必ずあるので、言葉がわからなくても気楽にいろんなものを食べることができます。さらに代金は最初からわかっているので、会計の時に戸惑うこともありませんしね~。本当に楽しくてエキサイティングな街で、すっかりファンになった僕たちは、その2年後にも再びラスベガスへ行ったほどです。

ちなみに、ラスベガスのカジノは24時間やっており、ホテルにはいっさい時計がありません。つまり時間なんかは、この街では全く関係ないんですね~(笑)。

僕たちは、カジノはほどほどに楽しみながら、あらゆるホテルを巡ったり、さまざまな建造物を見たり、いろんなバフェで食事をしたりして、街の雰囲気を満喫したのでした。

そんな時、あるホテルに入りました。ラスベガスはどのホテルも入口からず~っとカジノが広がっていて、そこを通り抜けた奥の方にフロントやバフェやコンビニやバーなどがあります。

そのホテルのバフェで食事をするため、カジノの中を通り抜けようとしたとき、こちらに向かって「ヘイ・カモーン」という声が飛んできました。「なに?」と思いながら、声のしたほうを見ると、そこは子どもたちの遊び場でした。

大人の歓楽街であるラスベガスにも子ども連れで来る客がいるので、カジノの隅の方に、遊具などが置いてある「子どもコーナー」があり、親はそこに子どもを預けて、自分はカジノを楽しむ、ということなんですが

その「子どもコーナー」から、ホテルのスタッフらしき男性が僕の方を見て、「ヘイ・カモーン」と呼んでいるのでした。なんやねん、それは?

僕はこの時、55歳でした。55歳のオヤジに向かって「お~い。子どもコーナーはこっちだから、おいでよ~」と言うようなことって、ありますか?

妻がクスッと笑った。僕も思わず笑ってしまった。そして、スタッフらしきその男性に視線を向け「そこには行かへん、行かへん」というポーズをして、そのまま通り過ぎたのでした。

いくら僕が小柄で童顔だと言っても、子どもと間違えることはないやろ! ホントにもう、わけのわからんスタッフじゃねぇ。

「この世界の片隅に」の最終回で、主人公のすずが米兵に子どもと間違われるシーンを見て、ラスベガスでのその一件を思い出した次第です。

それにしてもねぇ。
何が「ヘイ・カモーン」じゃ。
ぶつぶつ… ぶつぶつ

 

 

  
ラスベガス・ハードロックホテルの前で。
う~ん。これが子どもに見える

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いま話題のシンガポールのこと

2018年06月10日 | 旅行

明日12日に米朝首脳会談が行われますが、その会談場所がシンガポールなんですよね。その昔、一度だけ長男とこの国を訪れたことがあります。先月末にこのブログでタイ旅行のことについて書きましたが、シンガポールもその時に行きました。なぜ長男と2人だけの旅行だったのかというのは、前回にも書いたように次男が学校の部活のため行けなくなったからでした。 

1989年(平成元年)の8月。僕たちは香港経由でまずマレーシアに入り、首都クアラルンプールを観光したあと、マレー半島を縦断するマレー鉄道に乗り、終点のジョホールバルまで行きました。ジョホールバルと言えば「あ、あれか!」と思い出す方も多いでしょう。1998年。サッカー・フランスW杯のアジア最終代表決定戦で、日本が岡野の劇的ゴールでW杯初出場を決めた歴史的勝利の場所が、このジョホールバルでした。その4年前の「ドーハの悲劇」になぞらえて「ジョホールバルの歓喜」という言葉も生まれました。でも、僕たちが行った時は、まさか9年後、ここがそんな有名な場所になるとは、もちろん夢にも思っていませんでしたけど。

ジョホールバルはマレーシアの最南端の街で、海を挟んですぐ向こうにシンガポールが見えます。この地図をご覧ください。今回の米朝首脳会談に関して、昨日の新聞に載っていた地図です。

  

地図の右側。マレーシアの一番下にシンガポールがあります。が、陸続きではなく、シンガポールは島国ですよね。面積は淡路島とほとんど変わらないようです。つまり、マレー半島の先っぽにジョホールバルがあり、その向こうにシンガポールがあるということです。

 

 
マレーシアのジョホールバルから撮影。
海の向こうにシンガポールのビル街が見える。


僕たちは現地案内人の車でジョホールバルから橋を渡ってシンガポールに入りました。国境を越えたという雰囲気はあまりなかったのですが、シンガポールの街に少し足を踏み入れただけで、マレーシアとずいぶん違うなぁ、と思いました。とにかく島全体が観光地化していて、どこへ行っても観光客だらけ。

シンガポールのシンボルであるマーライオンやその近くのチャイナタウン、寺院など、いろんなところへ案内してもらったけれど、日本人をはじめとする観光客の大群の中に入っているだけで疲れてしまう感じだった。

また、寺院の中では、首に大きなニシキヘビを巻き付けて写真を撮ってもらうのが名物らしく、案内人も僕や長男に写真を撮れ撮れと勧めるのだけれど、そんな気持ちの悪いことは絶対にイヤなので、固く断りました。なんで高いお金を払ってヘビを首に巻いて写真撮らなアカンねん! 


 
寺院の中のヘビ使い。ニシキヘビを首に巻き付けて、
写真を撮らせ、金を取る。あぁ、気持ちワル。

そしてヘビの次はワニ園に案内され、生きたワニがウヨウヨといる風景にまた気分が悪くなる始末。そのあと、すぐ横の土産物店に強制的に連れていかれ、そこでもワニ細工の品物などをお土産に勧められた次第です。トホホ。 


 
  ワニ園。ワニがウヨウヨ。 


 
それを覗き込む長男(当時17歳)。 

まぁ、しかし、観光客の多すぎるのには閉口しましたが、街自体は高層ビルも多くて活気に満ちているし、海や小島を望む景色は南の島らしくとても美しい。これは文句のないところです。やはり多くの観光客が押し寄せるのは、それなりに魅力がある証拠なんでしょうね。

さて、そこで今回の首脳会談が行われるセントーサ島なのですが。

その当時、その島へ行ったのか、あるいは見たのか、どうか? 
30年近く前のことだから、覚えてませんわ。

そこで、今はニュースでしきりに「セントーサ島」が話題になっているので、僕はまた古いアルバムを引っ張り出してシンガポール旅行の写真を久しぶりに見直しました。すると、1枚の写真が見つかりました。その写真の横に、僕の字で「セントーサ島」と書かれていたのです。展望レストランで食事をしたとき、そのベランダから向こうに見えた島がそうだったのです。


 
 海の向こうに美しい島が見えていた。
これが米朝首脳会談が行われるセントーサ島でした。

歴史的な会談の場所として、今、世界中の注目を浴びていますが、もちろん、当時はどういう島なのかわからずに写真に撮ったのですけどね。 

では最後に、シンガポールのシンボルであるマーライオンについてひと言。 

マーライオンは思っていたよりも小さくてチャチだったので、それにも驚きました。後に知ったことですが「世界3大がっかり観光地」というのがあって、その中にこのマーライオンも入っていました。それだけ「がっかり度」が高いわけね。 

ちなみに、「世界3大がっかり観光地」というのは、マーライオンのほか、デンマーク・コペンハーゲンの人魚姫像、ベルギー・ブリュッセルの小便小僧の像ということだそうです。誰が決めたのかは知りませんが、僕はほかの2つは見たことないので何とも言えません。でも、このマーライオンに関しては「がっかり観光地」として太鼓判を押しますわ(笑)。


  
マーライオンを背景に写真を撮ってもらいましたが、
小さくてわかりにくいですね~

 

 ~おまけ~

シンガポールの街をバックに恰好つけてる写真です

  

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タイ旅行 あの時はモミィのパパもまだ高校生

2018年05月26日 | 旅行

日大の「悪質タックル問題」は益々ヒートアップしており、それを取り上げたこのブログの閲覧数も、ここ1週間ほど、ふだんの倍近い数字がず~っと続いています。西城秀樹や日大や。やはり関心の高い時事ネタは閲覧数が増えますね。沢山の方々にお読みいただいて有難いことだと思っています。

しかし話題はガラリと変わります(これで閲覧数も減るでしょうね・笑)。

去る5月12日と13日の2日間、東京で「タイ・フェスティバル」という催しが行われ、その様子がテレビで流れていました。会場は沢山の人たちで賑わい、2日間で約30万人が詰めかけたとのこと。タイ料理をはじめ、タイに関連するさまざまなサービスを提供する200近いブースが出店され、ステージではムエタイや伝統舞踊、タイ人歌手のコンサートなどが行われたということです。

そして次の週の19日と20日には大阪で開催され、このあとさらに6月に名古屋と仙台で、8月には静岡で、この「タイ・フェスタ」が開かれる予定だという。それほど大人気のイベントなんですね。

聞けば今は空前絶後!のタイ・ブームだそうです。タイへ旅行する日本人の数もめちゃくちゃ増えているとのことです。ふ~ん? 空前のタイ・ブームなの? それは知らんかったな~ 

  …………………………………………………………………………


元号が平成に変わった年(1989年)に、一度タイへ旅行したことがあります。もう30年近く前のことですが、息子たちの学校が夏休みに入り、家族4人で海外旅行をしようと計画したのが東南アジアへの旅行。長男が17歳で次男が16歳。いずれも高校生でした。

しかし陸上部に入っていた次男は、試合の日程が入り、行けなくなった。まさか次男1人だけ家に置いて3人で旅立つわけにもいかず、妻が残り、結局僕と長男の2人で行くことになりました。

行く先は、マレーシア、シンガポール、タイ、香港の4カ所のツアーでした。

マレーシアからシンガポールへの旅を終え、シンガポールからタイのバンコク空港へ到着したら、2人の現地ガイドが出迎えてくれた。それがまだ学生じゃないかと思うほど若い男性2人で、1人がノム君という正式なガイドで、もう1人は見習いのようだった。2人とも何とか日本語は話せたが、時々何を言っているのかわからない。何か頼りなさそうだな、大丈夫か? と不安になったほど。しかしまあ、態度は誠実でマジメそうだったので、その点は安心できた。

まず中華料理店に入ると、中央に舞台があり、直立不動で歌う男性や、チャイナドレスの可愛い女性、そして八代亜紀そっくりの歌手が出てきて、それぞれ歌を歌うのだった。そしてそのあと、ホテルへ案内してもらったわけだが、チャオプラヤ川のほとりにあり、ベランダからはその大きな川が一望できた。


 
  ホテルのベランダから見たチャオプラヤ川。
 

翌日、ホテルの裏側のチャオプラヤ川の船着き場から細長い船に乗り込んで、船からバンコクの街を見学した。船が止まるたびに、物売りのおばさんたちが何人も小さな船で近づいてきて、僕らに麦わら帽子や果物などを売りつけようとしつこく迫ってくるので閉口した。

そのチャオプラヤ川を南に下り、遠方に「暁の寺」などを展望しながら、やがて支流に入って行った。「暁の寺」のことを、ガイドのノム君は「あれが、あかちゅきのてらです」と言っていた。舌がうまく回っていない。

細い支流に入ると、この川から民家の裏側が丸見えで、裸のお尻をこちらに突き出して洗っている女性とか、水浴びをする子供とか、洗濯をしている女性とか、さまざまな生活の姿が目に入って来た。観光地巡りもいいけれど、こういう実際の生活ぶりが見られるというのも、海外旅行の魅力のひとつだ。

その後、「暁の寺」に上陸した。それから王宮、エメラルド寺院なども回ったが、極採色で飾られた輝くばかりの造りに圧倒された。本当に素晴らしかったなぁ。

昼食後もいろんな名所を巡ったけれど、車の中でガイドのノム君が、僕と長男の関係を「キョウダイ、デスカ?」と聞いた。「いいえ。親子です」と僕は苦笑い。するとノム君は「ソーデスカ。オヤコ、デスカ」と言いながら、じ~っと僕と長男の顏を見比べていた(笑)。

また、ノム君は「ウシ、ありますか?」と聞いたので、僕は思わず長男と顔を見合わせた。「牛? いや、牛なんか、いないよ」と言うと、ノム君は不思議そうな顔をして僕を見つめる。そして「ウシですよ。ウシ」と繰り返す。やがてそれが「牛」ではなく「うち」→「家」のことだとわかった。「自分の家を持っていますか?」と聞いたのだった。で、「家、持ってますけど」と僕が返事すると、ノム君は、自分は将来家を持つつもりです、という意味のことを、たどたどしい日本語ながら、力強い口調で言った。

タイには2泊しただけだった。ノム君は空港でお別れをする時「いつか、ニホンにいきます」と僕の手を握った。僕は彼に、仕事で使っている名刺に自宅の住所をメモしたものを渡し、日本に来た時はきっと訪ねてくるようにと言うと「ハイ。ハイ」と何度も真剣な顏で頷いた。

そこから3時間足らずで香港に着き、そこでも2泊して旅は終わった。

旅行の様子は、当時の日記に詳しく記しているので、それを読み返すとその時の光景がありありと目に浮かぶ。

それにしても、タイ・バンコクのガイドノム君には強烈な印象が残っている。一生懸命になって日本語を話そうとする真剣な顔つきが強く印象に残った。

さて、旅行を終え、沢山撮った写真も出来上がり、その写真の中でノム君が写っていたものを数枚、あらかじめ聞いていたバンコクのノム君の住所へ送ってあげた。

すると、しばらくして、ノム君からハガキが届いたのでした。

それをご紹介します。これです。


 

一番上の行は「親愛なる昇さんへ」という意味でしょうね。

あなたの てがみ は しゃしん を
もらいました。どうも ありがとうござい
ました。 あなたのかぞくは おげんきですか。
おひまがあります。Thai(タイ)は また きてください
末筆 ながら ごけんこう ごかつやく
ごはってん を おいのり申しあげます。
           さようなら

そんな文面でした。
いかにも律儀なノム君らしい文章です。

「末筆ながら」というのが面白いですね~
「ご健康ご活躍ご発展をお祈り申し上げます」
というのもねぇ。ホント、面白いですわ。

「おひまがあります」というところが意味不明ですけど(笑)。
たぶん「おひまがあれば」という意味なんでしょうね。
とにかく一生懸命書いてくれたことは伝わりますね。

さて、
ノム君とは、
それ以降、ご無沙汰です。
あれから29年経つわけですが
今では日本語も流暢に話せるんでしょうね。
きっと「うし(家)」も建てたんだと思います。

タイ旅行と言えば、このノム君のことを思い出すので、
「タイ・フェスティバル」のニュースに見たのを機に、
今日のブログにその話を書いてみました。

 

*その時の写真を何枚か掲載します。


 
チャオプラヤ川の「水上タクシー」と呼ばれる船の中で。
左が当時17歳(高校2年)の長男。今のモミィのパパです。
その右にいるのが、ガイドのノム君です。
 


  
「暁の寺」の前で記念撮影。ノム君が撮ってくれた1枚。
ノム君は「あかちゅきの寺」と言ってましたけど(笑)
 


 
 チャオプラヤ川の支流に入ると、家の裏で洗濯などをする人たちが。


 
エメラルド寺院をバックに。
僕は40歳、長男は17歳。兄弟に見える???

 


 
ローズガーデンで像にエサをやる長男。
恐る恐るやっているところは、モミィが、
羊にエサをやっていた姿と似ています。


 
タイの民族舞踊を観ながらの夕食でした。
旅行もあとわずかで気が緩んだのか、
お酒を沢山飲んで酔っぱらいました。

 


 
街にはサムロと呼ばれる小型タクシーが沢山走ってました。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バルセロナの旅を思い出す

2017年08月22日 | 旅行

    

先週、スペインのバルセロナで起きたテロ事件にはショックを受けました。バルセロナと言えば、2001(平成13)年10月に旅行した思い出深い街だからです。

2001年の10月といえば、ニューヨークで起きた同時多発テロから1ヵ月後でした。実は僕たちは10月にニューヨークへ旅行する予定で、すでに旅行社への支払いも済ませていたところだったのですが、そこでテロが起きたので急きょ行き先を変更せざるを得なくなり、かねてから興味のあったスペインのマドリードとバルセロナに行くことにしたのでした。

しかし、スペインもテロの影響でかなり危険な場所だというのは、現地へ行ってからガイドの話などでわかりました。それも一番治安の悪いのがマドリードで、2番目がバルセロナだということでした。なんじゃ、そら。う~ん、でもね~、もう来てしまったから仕方ない。あの時ほど身辺を警戒しながら旅行したのは、後にも先にもなかったですね。

マドリードで数日観光し、トレドやアランフェスにも足を延ばし、そのあと飛行機に乗ってバルセロナへ。空港で林さんという聡明で親切そうな女性のガイドさんが僕たちを迎えてくれていました。車の中で「同時多発テロ事件以来、日本の中高年の旅行者の方々がパタッと来られなくなりましたよ」と、僕たちが来たことをとても珍しがっていました。そんな珍しがられてもねぇ。

車でホテルへ行くまでに、林さんはいろんな話をしてくれたのですが、「バルセロナは一部特定の地域で治安が悪いので十分に気をつけてください」と言われました。その一部の地域というのが旧市街で、カタルーニャ広場から南に広がる一帯だという。まず、広場から港のほうに延びるランブラス通り。そしてその周辺にあるカテドラル、ピカソ美術館あたりが要注意。ランブラス通りはバルセロナでもっとも有名な通りで、カテドラル周辺は「ゴシック地区」と呼ばれ、見どころの多い観光ポイントだが、このあたりが最も油断ならない地域である、とのことでした。そして林さんはこういうことを言ったのです。

「ゴシック地区には、モロッコあたりから来ている泥棒たちが多く住んでいるので、観光するなら観光客が増える午前11時ごろからにしてください。モロッコ人はスペインの白人より少し浅黒い顔をしていますが、スペイン人と見分けがつきにくいです。色の黒い人はインド系で、目つきはよくないんですが、まじめに働きに来ている人たちなので悪いことはしません。リュックをかつぐ時は背中ではなく前にかつぎ、常時出し入れするお金は5千ペセタ(4千円程度)くらいまでにして、それ以上は奥深く隠しておいてください。そして常にまわりに警戒の目を配ってください。挙動不審と思われるほどキョロキョロしていれば、泥棒は近寄ってきませんから」

そんな具体的なアドバイスをしてくれました。

「治安が悪い」と言われたのは旧市街地で、カタルーニャ広場から延びるランブラス通りだと言われたのですが、今回のテロ事件が起きたのが、ほかでもないこのランブラス通りだったので、やっぱりそうか、と思いました。さらにガイドの林さんは、モロッコ人が治安を乱しているとも言っていましたが、今回のテロ事件の容疑者として最初に報じられたのがモロッコ国籍でバルセロナ在住の17歳の少年でした(警察に射殺されましたが)。その報に接した時、林さんの言葉が、鮮明によみがえってきたのでした。

事件が起きたランブラス通りは、前述したようにバルセロナの旧市街地を貫く並木道で、市民の憩いの場であるカタルーニャ広場から港に近いコロンブスの像まで続く開放的な遊歩道です。確か中央の道が歩行者専用で、並木の両側、つまり日本だったら歩道になる道を車が走っていたような記憶があります。道の途中に大道芸人がパフォーマンスをしたりして、とても魅力的な通りでした。

僕たちは林さんに警告されていたので、前後左右をキョロキョロ見回しながら歩きました。服装も古い普段着を着て、カメラも手に持たず、リュックやバッグの代わりに、クシャクシャのスーパーマーケットの袋に必要なものを入れて持ち、どこから見ても観光客には見えない恰好をして歩いていたのですが、それでも、後ろに怪しげな男がひとり、僕たちをじっと見ながらついて来ているのを感じたので、急にUターンしてその男を振り切ったこともありました。ま、とにかく、自分でもやり過ぎと違うか? と思うほどの警戒をしながら、観光を続けました。

一昨日の日曜日の「サンデーモーニング」で、ある女性コメンテーターが、今回のテロ事件に対して、
「スペインのような平和な国でもこんなことが起きて、驚いています」
と言っていましたが、これはちょっと違うように思います。僕たちがスペインへ行ってから2年余り後に、マドリードの中心にあるアトーチャー駅などで数百人が死亡、数千人が負傷した列車爆破テロ事件も起きています。スペインが「平和な国」でないことは、この事件一つを見てもわかると思いますが

 

 
バルセロナのカタルーニャ広場で。
「治安が悪いので写真を撮ってもらうのも相手を見て」
とガイドさんに言われていたので、このときは、
観光客らしい金髪の女性にお願いをして撮ってもらいました。
この旅行で2人一緒に写っている写真は、唯一この写真のみです。

この広場の横にテロが起きたランブラス通りがあります。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もし飛行機が半ドアだったら?

2017年08月16日 | 旅行

飛行機の事故やトラブルが相変わらず多いですね。

僕の住んでいるところから大和川を挟んですぐ向こうに八尾飛行場というのがあります。わが家の上空も、ヘリなどがしょっちゅう飛んでいます。一昨日、その八尾飛行場から出発した小型機が、奈良県の山添村というところの山中に墜落して2人が死亡するという事故が起きました。

余談ですが、僕が住む藤井寺市とこの奈良県山添村は友好都市の交流提携を結んでおり、うちの息子たちも中学生の頃、学校行事として山添村へキャンプへ行ったことがあります。

それが一昨日の14日の出来事でした。

そしてその前々日。32年前に日航機が墜落して520名の死者を出した8月12日と同じ日に、ご存知のように、羽田発の全日空の旅客機で、機体付近のダクトが破損し機内の気圧が急激に低下するというトラブルが発生。羽田に引き返して緊急着陸したというニュースが流れました。その時、機内で、頭上から酸素マスクが降りてくる様子や、乗務員の緊急放送の音声などが動画で流されていましたが、乗客の人たちの恐怖はどれほどのものだったろうかと思います。

乗客の中にはこの日が日航機墜落と同じ日だということも知っていた人が多かっただろうし、羽田から伊丹空港へのルートも同じだし、出発時間も同じ午後6時。そしてなんという偶然か、トラブルが起こったのも伊豆大島周辺で、時間もほぼ同じだったという。搭乗前から何となく気になっていた人もいたかも知れないけれど、そんな時に緊急放送やら酸素マスクやらとなると、生きた心地がしなかったでしょうね。ともあれ一人の怪我人もなく無事着陸できて何よりでした。

こんなふうに、航空機事故やトラブルのニュースは後を絶ちませんね。

考えてみたら、あんな大きくて重いものが空を飛ぶのだから、気象状況や機体そのものに何か異状が発生すれば、ただでは済まないだろうとは思います。知り合いの中にも、絶対に飛行機に乗らないという人がかなりいるし、飛行機に乗って旅行するときは必ず息子夫婦に書置きをして、自分たちがいなくなった場合の後始末のことを頼んでおく、という女性もいます。僕などはあまり深く考えないほうだけど、そういう人たちも沢山いるんですよね。

僕は飛行機で恐ろしい目に遭ったということはないけれど、ちょっとしたトラブルはありました。

2004年に妻と2人でラスベガスとサンフランシスコへ旅行した時のこと。帰国の便に乗り込み、飛行機はサンフランシスコ空港を飛び立ちました。

離陸して間もなく安定した飛行に入りました。

外国への旅を無事に終えて飛行機に乗り、あとは日本に帰るだけ、という時のホッとした気分はなかなかのものです。僕は全身に心地よい揺れを感じながら、目を閉じ、旅行中のいろんな体験を思い浮かべたりして、やがてウトウトとまどろんだ。…と、まあ、ここまではよかったのですが。

飛行機が飛びはじめて約30分後に、機内放送があった。英語放送の後に流れた日本語での放送を聞いて、僕は自分の耳を疑った。放送はこう言ったのです。

「当機は後部ドアがきちっと閉まっていません。最悪の場合は空港に引き返すかもしれません」

おいおい、半ドアかよ?

そして放送では、機体が小刻みに揺れ続いているのはそのせいだ、ともつけ加えた。「心地よい揺れ」と感じたのは扉にすきまがあいていたから? それを乗務員が今まで気がつかなかった? ウソみたいな話だ。 

それから間もなくして、「これからサンフランシスコ空港に戻ります」との放送があった。そうそう、早く戻ってくれ~

結局サンフランシスコ空港に戻り、飛行機から下ろされ、長いあいだ待合ロビーで待たされたあと、別の飛行機に乗り換えて再びその空港から飛び立ったのが、1回目の離陸から4時間後の午後4時過ぎでした。宵の口に大阪へ着くはずが、夜更けの到着になってしまったわけ。

で、それから約1年が経ったころ。
テレビでこんなニュースを見て、びっくりしたのです。

福岡空港を出発して名古屋へ向かっていた全日空機が、高知空港に緊急着陸したというニュース。その理由に驚いたのです。なんと、ドアがきちんと閉まっていないことを示す警告灯がついたからだという。また「半ドア」ですわ。

「へぇ~。同じことがあるもんだなぁ」と思いながらニュースを見ていると、高知空港に降りた飛行機はさっそく機体の「精密検査」を受けた。しかしドアはちゃんと閉まっていたということでした。つまり、操縦席の警告灯のほうが誤作動をしたらしい。「犯人」はドアでなく、警告灯だったのです。
な~んだ、それ。

そのニュースを見て、ふと思ったことは…

僕らが乗っていたあの飛行機も、本当はドアには異常はなく、警告灯が誤作動か何かしたんじゃないの? サンフランシスコ空港に戻って「精密検査」をして、ドアはちゃんと閉まっていたけど、今さらそんなことを言っても乗客は納得しないだろうから、格好つけて別の飛行機に乗せちゃえ、なんて。

そんなことは、ないですかね~

 

 

 

 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする