僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

ため息が青息吐息に変わり…

2013年11月07日 | ランニング

1週間以上、ご無沙汰してしまいました。
順調にいけば、今頃は心地よい回想に浸っているはずですが…


11月3日に行われた大阪・淀川市民マラソンは、半年前から出場を計画していたというのに、レースの10日前ぐらいから体調を崩し、あげくの果てに欠場というガッカリな結果に終わってしまいました。


納得のいく練習ができず、完走の可能性は少なかったかも知れないが、せめて中間地点(スタート地点と同じ場所)までは戻ってこれるだろうと考えていました。つまりフルが駄目でもハーフだけでも走り切り、10数年ぶりのレース感覚を楽しみたい…と思っていたのに…残念。というより、このブログに「フルマラソンに挑戦!」と何度も書いてきたのに、最後はコレかよ?…みたいになってしまったことは、全くお恥ずかしい次第です。


レース6日前の月曜日(10月28日)、朝はブログも書けたのですが、午後からきつい不整脈が出て、薬を飲んでもなかなか収まらず、悶々とし、夕方にモミィをECCに連れて行けなくなりました。その日はモミィはハロウィンの扮装で行く日でしたが、代わりに妻が連れて行ってくれました。そして夜遅く、不整脈は収まったのですが…(実はそれまでの3日間、ビールやお酒を飲みすぎていた。それがこの月曜日の症状につながったと思われる。←反省)


翌朝・火曜日になると、これがまた何事もなかったように体が戻ったので、レース5日前で、少し焦りもあり、最後の20キロ走にチャレンジした。その時のことは水曜日の朝のブログにも書きましたが、体が重くて、走ったり歩いたりを繰り返すというバテバテの状態でした。


この期に及んで、ナンだこの体調の悪さは?…と自分でも合点がいかず、その水曜日にもブログを書いてからまた走りに出ました。今から思うと、これが決定的に悪かったようです。


熱はなかったのですが、何となく風邪気味状態だったのでしょうか。走り始めると、今度は足が重く感じるだけではなく、気分も悪くなり、5キロも走らないうちにたまらず帰宅。着替えている時から吐き気やめまいがして起きていられなくなり「しんどい。寝る…」と妻に言ってその場に伏せてしまいました。おまけに最近また大きくなった耳鳴りが頭の中でキーンキーンと響きまくり、精神状態もおかしくなりそうで、ここでまたきつい不整脈が出たら、たぶん救急車を呼んだと思います。とにかく、昼をはさんだ数時間、安定剤を飲み、じっとしていました。2、3日前から心臓に軽く痛みを感じる症状も出ていたので(これは数日で治りましたが)、この時は、不安が頂点に達した時でした。


しかしその状態も午後になってゆるみ始め、椅子に座ってテレビをぼんやり見るくらいには回復しました。夕方、モミィをエレクトーンレッスンに連れて行くことは、何とかできました。しかし胃の調子も悪く、食欲はないし、少し食べるとすぐお腹が膨れる感じで、いったい体のどこの何が悪いのか、精神的なものなのか…妻も心配しているし、医者に行くとしたら何科へ行けばいいのか?…そんなことばかり考えながらも、結局医者には行きませんでした(生まれつき医者が大嫌いなので困ります)。


木・金曜日は少し外出をしただけで、休養を取り、もうマラソン出場は無理ということで、ブログのコメント欄で応援してくださっている皆さんにお伝えしなければ…と思いつつも、パソコンに向かって文字を打ち始めたらまた体調が狂うという状態でしたが、どうにか土曜日の夕方に短いコメントを打たせてもらいました。このあたりでやっと回復の兆しを感じました。


マラソンがあった11月3日は、午後から夜にかけてモミィのエレクトーンの演奏会もありました。つまりこの日はわが家で2つの行事が重なっていたのです。当初の予定では、長男が車で、僕とモミィと妻を、まずマラソン会場まで乗せて行き、僕が走り始めたら、一定時間後、3人で僕をどこかで応援して、そのあと大阪府・柏原市にある演奏会場へ行く段取りでした。僕はレースを終えて、まだモミィが出る時間に間に合うようなら電車で演奏会場へ向かうつもりでしたが、自分がどれだけ走れるかもわからない状況だったので、そのへんはまぁ、ウヤムヤでした。


でも僕がマラソンを欠場したので、この日は午前中は家で過ごして、午後、4人一緒に演奏会に行き、ゆっくり鑑賞することができました。もっとも、全部で26組のグループが出たので、そのほぼ3分の1は演奏を聴きながら居眠っていた僕でした。耳鳴りもこういう時はあまり感じないので、とてもありがたいですね。客席でウトウトしていた時、久しぶりに「気持ちいい」感触が少~し体に戻ってきたかなぁという感じでした。


今週に入り、多少の波はあったけれど、今はパソコンも支障なく打てますし、体調もほぼ戻り、ビールも「おいしい~」と感じ始めました。


しかし本当に健康というのは大切ですね。わかりきっていることですけれども、また改めて痛感することになりました。


今回、特に苦しめられた耳鳴りについては、再度検査をしてもらい、1年以上中断していたTRT療法も再開することを決め、先ほど大〇前病院へ電話をして予約を取ったところです。


涼しくなりましたのでまたジョギングやウオーキングも始めたいと思っています。昨日は久しぶりにコスパへ行き、少しだけ泳ぎました。さすがに息が切れましたね。いずれも、ボチボチとやらなければ…と思っています。


あ、そうそう。ちょっと古いニュースになりますが、日本シリーズで楽天が優勝しましたね。


考えてみれば、あの試合も11月3日でした。モミィの演奏会が終わってからみんなで帰宅し、テレビをつけたら、楽天の牧田が本塁打を打った瞬間で、3対0と楽天がリードを広げたところでした。結局そのままの得点で楽天が優勝し、日本中が沸きましたね。基本的には巨人ファンの僕ですが、この日は例外で、楽天の日本一を心から喜びました。


モミイもこれまで熱を入れて練習を重ねてきた演奏会を無事に終えたし、楽天は優勝したし、僕はマラソンを走れなかったし(?)と、11月3日という日は、まことに印象深い1日となりました。

 

 

 

 

 

 

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出るのはため息ばかりで…

2013年10月30日 | ランニング

プロ野球日本シリーズは1勝1敗で舞台を東京ドームに移し、昨日、第3戦が行われた、結果は、楽天が一方的な試合で2勝目をあげた。巨人はとにかく打てない。あまりにも打てなさ過ぎる。両チームが日本シリーズで対戦したらどちらを応援しようかとワクワクし、2戦目のマー君が投げた試合はそれこそどちらにもエールを送るという気持ちで見ていたが、昨日の試合に限っては完全に巨人のほうに「しっかりしてくれぇ」と力が入った。あんな試合では両軍の対決を楽しむ気分にはなれない。このうえは巨人も打線が奮起し、盛り返して再び宮城へ行き、できれば第7戦までもつれ込む総力戦で日本中を沸かせて欲しいものだ。


…と、よそのことを言っている余裕は実はない。マラソンが迫ってきた。日本シリーズが最後までもつれこめば、第7戦の日に当たる11月3日に大会がある。あと4日だ。めっきり涼しくなり、練習にはちょうど良い気候になってきたけれど、遅すぎるでしょ。もういくらも練習はできないんだから。


昨日も長距離走をやってみたが、気温はいいのに体も足も重く、20キロを走ったり歩いたりトロトロ…。42キロは遥か彼方にある。おまけに夜には唾を飲み込むとのどが痛い。まさか風邪の前兆ではないだろうな…と思いたい。急に寒くなったので、風邪だけには気をつけなければ。


さらに気になることだが、週間予報で11月3日の天気を見ると、大阪は雨の予報である。その前日まではずっと晴れなのに、なんで3日だけ? ああ、雨の中を走るなんて~


昔は雨でも何でも平気だった。今からちょうど30年前、ニューヨークシティマラソンで雨の中を走り、びしょぬれになってゴールしたことがある。走っている間ずっと、森進一の当時のヒット曲「紐育(ニューヨーク)物語」という歌の一節「♪マンハッタン・イン・ザ・レイン~ 30年生きちまったよ~」なんて口ずさみながら、雨のマンハッタンの景色をむしろ楽しんで走ったことがある。でもなぁ、あれからまた30年生きちまったよ~(笑)。淀川沿いのコースで横殴りの雨に打たれながら走るって、あまり心地よいとも思えませんしね~ 


…と、筋肉がパンパンに張っている足を撫でながら、ぶつぶつ。


こんなとき、いつも浮かぶのは村上春樹のエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」の次の部分である。


マラソンを走るということについて…痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)。きつい、もう駄目だと思ったとして「きつい」のは避けようのない事実だが「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられている。この言葉は、マラソンという競技のいちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う。


この文章でいうところの「もう駄目」という自分の裁量に委ねられた部分が、今の僕にはずいぶん早くやって来るように思われるのである。つまり我慢強く粘る…ということができにくくなってきたわけで、ここ数ヶ月の練習で、つくづくその言葉の意味を思い知らされましたね~ これも年のせいでしょうか。皆さんから温かいご声援をいただいているのに、レースを4日後に控えて、出るのはため息ばかり…でゴザイマス。

 

 

 

 

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レース本番まであと10日

2013年10月24日 | ランニング


11月3日に開かれる第17回大阪・淀川市民マラソンまであと10日となった。準備はOK…? 完走の自信は…? う~ん、ムニャムニャムニャ…。


これからは走り込みではなく「調整」の期間となるので、今からジタバタしても仕方ない。練習で溜まった筋肉の疲労などを取りながら、レース当日の体調をピークに持っていくことが大事である。…な~んちゃって、言うことだけは立派だけど、実態は大違い。この数ヶ月間、我慢強く距離を積み上げることもできず、日焼けばかりが目立つ始末だ。とほほ。


いちおう練習で20キロは走れるようになったので、10月中ごろに30キロ走にチャレンジしてみた。大和川・石川サイクルラインを15キロ先まで走り、折り返したところ、20キロを過ぎたとたんに足が持ち上がらなくなり、23キロぐらいからは1時間以上ず~っと歩きっぱなしで、ヘトヘトになって帰宅した。まあ、こんな調子です。


昨日、大会本部から参加通知書とガイドブックが郵送されてきた。レース受付は大会の前日(11月2日)で、そこへこれを持って行き、ゼッケンなどを受け取ることになっている。ちなみに、その日とレース日の2日間とも、Qちゃんこと高橋尚子さんがゲストとして見えられるとのことで、それだけが楽しみである。


2週間ほど前、妻とモミィと一緒に、このマラソンの大会本部が設置される場所(スタート・ゴール地点)へ行った。つまり下見である。地下鉄の守口駅で降りて、淀川の方向に歩いて行くと、やがて大きな堤防が見え、「淀川河川公園」との標識があって、堤防にのぼると予想以上に広々とした眺望が開けた。


景色はいい。ジョギングする人もチラホラ見える。しかしこの時、風が強かった。当然ながら、遮るものが何もないので、かなり強烈に吹き付ける。レース当日もこんな強風だったら、向かい風の時は走りづらいだろうな…と想像し、思わず肩をすくめた。とてもじゃないが、当日は、大地を蹴り、風を切って走る…という具合にはいきそうにもない。


ま、ともあれ今のところたいした故障もせず、どうやらスタートラインに立てることは間違いなさそうだ。もっとも、故障しなかったのは、裏を返せばそれほど練習していない証拠でもあり、いいのやら悪いのやら…

 

 

  
  
昨日届いた参加通知書とガイドブック。
  ゼッケンナンバーはフルマラソン男子の部「F6304」とある。

 

 

 


このあたりに大会本部が設置される。写真は淀川の下流に向かって撮ったものだが、フルマラソンは写真の右方向(上流)つまり京都方面に向かってスタートし、10キロちょっと先の枚方大橋手前で折り返し、スタート地点に返ってくる。そこが中間点で、そこから今度は下流に向かって塚本というところまで行き、また折り返し、スタート地点に戻ってきてゴール…ということになる。

 

 

 

 

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大阪城まで走って…

2013年10月04日 | ランニング

もう一度、昔に戻ってフルマラソンを走りたい!…と思い立ったのが今年の5月だった。それを機に、途切れかけていた朝のジョギングの回数を増やしたが、それでも10キロ走るのが精一杯だった。6月にやっと20キロ走ができた。参加するレースも、11月3日に行われる大阪・淀川市民マラソンに決まった。しかしそのあとがイマイチだった。今夏の暑さを言い訳にするつもりはないけれど、とにかく暑くて走るのが大変だった(言い訳してる~!)


しかし、レースはまだまだ先だと思ってグズグズしているうちに、ふと気がつけば10月。あと1ヶ月ではないか 「ぼちぼち、のんびり行こう」と思っていたらいつの間にかレースは1ヵ月後に迫っていた。10月の声を聞いたとたん、さすがに「これは何とかしなければ…」と本気でアセった。


9月の20日に、6月以来の20キロ走をした。走り終えた時、もうこれ以上一歩も走れないほど全身のエネルギーを使い果たした…という感じだった。「この調子ではとても完走はおぼつかない」とも思った。だが、まだまだ努力が足らないことはわかっていた。やれる限りやらなければ…と、何とか自分を奮い立たせたりした。ただ不整脈の心配や、不整脈の薬が血糖値を下げるのでそれで気分が悪くなったり、あるいは体にストレスを与えているせいか、耳鳴りがヤケに大きくなったりで、決して体調は良いとはいえなかった。


それでも、とにかく悔いは残すまいと、この10月の1日に、自宅から大阪城まで走った。大和川を越え、大阪市内に入り、長居通りを西へ走ると湯里6丁目交差点がある。ここを右折して今里筋に入り、大池橋で左折して勝山通りを走り、そして大阪城へ…というコースをとる。湯里6丁目から大阪城までは、1982年(昭和57年)から始まった大阪国際女子マラソンのコースでもあった。女子マラソンは、長居スタジアム(わが家と反対方向)から長居通りをこちら(東)へ走り、湯里6丁目交差点から今里筋に入って、あとは同じ道をたどるのである。


僕も以前は何度かこのコースをジョギングしたものだった(といっても20年以上も前ですが…)。自宅から往復で35キロぐらいだと思う。これを走ればフルマラソンの完走は間違いないというひとつのバロメーターでもあった。ちなみに30年続いたこの大阪女子マラソンのコースも、2011年に変更され、現在は長居通りや今里筋を走らない。これはちょっと寂しい。


ま、そんなことで、かつては大阪城をランニングで往復したものだけれど、この日は大阪城へ着いて、広い公園内をぐるりと回ったら、もう足が棒になった。ヘナヘナと大手門の前に座り込み、自動販売機で買ったスポーツ飲料を飲みながら、中国人観光客ががやたらに目立つ周囲の光景を眺めていると、ベビーカーを押した一人の若い女性が、「すみません、西の丸庭園へ行きたいのですが…」と僕に道を尋ねた。リュックも担がず、小さなウエストバッグだけの軽装だったので、たぶん近所の人間と思われたのだろう。でも僕は大阪城には詳しい(耳鳴りでお世話になっていた大手前病院もすぐ近くだし)。「この橋を渡って門の中に入ったら、すぐ左側に見えてきますよ」と教えてあげた。


 

  
    大阪城の玄関口、大手門でこの日のランニングは終了。

 

さて、これからどうするか。そろそろ昼時である。家を出てから3時間が経っている。途中、数多くの信号があるのでチョコチョコと走っては立ち止まり、結構時間はかかったが、その分休憩にもなるので、僕にはちょうどよかった。


しかし、もうこれ以上走るのは無理だ。売店でパンを買って食べ、ここから地下鉄に乗って帰ろうか…と思ったけれど、せめて天王寺まで歩こうと思い直した。大阪城大手門の最寄の地下鉄駅・谷町4丁目から数えて天王寺は4つ目の駅である。地下鉄駅4つ分の距離なら歩けるだろう。日差しが強くなってきたので、ビルの日陰の側の歩道を選んでテクテク歩いた。それにしても片道とはいえ、大阪城まで走って来られたのはよかった、と何となくホッとした。


テクテクテクテク。天王寺までの道のりは思ったより長く感じられた。前方に日本一高いビル、「あべのハルカス」が見えてきたので車道に出てスマホでパチリ。あやうく車に轢かれるところだった(ぎょぇっ)。


天王寺が目の前に近づいてきた。右側に天王寺公園がある。その向こうに天王寺動物園があるので、道の端にデカイ宣伝の看板が立っている。キリンやライオンやゾウやクマなどの絵が大きく描かれている。それを眺めたあと、前方に視線を向けたとき、驚いたことに、向こうからクマが歩いてきたのである。歩道をこちらに向かって歩いている。カッターシャツを着て、カバンを手に提げて、革靴を履いて…


あっ、と叫んだ。向こうから歩いて来たクマ…じゃない人物は、わがウダウダ会の会長ではないか! 大きくふくよかな体躯で、人懐っこい顔と、前かがみで飄々と歩く姿がまるでクマのプーさんみたいなので、僕はこの2歳年上の気の優しい先輩を、ひそかに「クマさん」と呼んでいた。天王寺動物園のクマの看板を見たすぐあとに、まさかこんなところで「クマさん」と出会うなんて、まったく思いも寄らなかった。


うつむき加減に歩いていたクマさん…じゃない、会長の前を塞ぐように僕は立ち止まり、「は~い、〇〇さん」と声をかけた。相手は驚いて「ぎゃっ。…な、な、な~んや、あんたかいな」。僕の服装を上から下まで眺め回し、目をまん丸にして驚いていた。「何してるん? こんなとこで。そんな恰好して…」


都会の雑踏の中で、ジョギング姿の僕と会うなんて思いも寄らなかったようで、「どうしたん?」と聞かれたので、家から大阪城まで走り、そこからここまで歩いて来た。これから近鉄電車で帰宅するところです…と説明した。


「へぇ~、家から大阪城まで…?」と言いながら、会長は「今が夕方やったら、一杯飲みに行くのになぁ」と腕時計を見て、グイっと酒を飲む仕草をして残念がり、これから日本橋の電気店に買い物に行くところだと言った。別れ際「ほんなら8日頼むで~。あんた、前回休んだからなぁ、今回はぜひ来てや」と言い残し、手を振って反対方向へ歩いて行った。8日(火)はウダウダ会で比叡山へ「修業」に行くことになっている。前回のウダウダ会は、僕は体調が悪くて行けなかったので、今度は絶対に来てや…と念を押された。さて会長は、僕と別れたあと、天を仰ぎ、「なるほど、クマも歩けば棒に当たるやなぁ」と思いながら、歩いて行かれたのだろうか?(…思うわけないやろ!)。


~会長さんがこのブログを読まれないことを、心から祈っています~


…と、そんなことで1日は大阪城まで走り、2日後の昨日(3日→レースのちょうど1ヶ月前)は、5時半に家を出て大和川のコースを21キロ、つまりハーフマラソンの距離を走った。


だいぶスタミナはついてきたように思ったが、それでもこれが精一杯だった。フルマラソンの半分を走ったら、もうそれ以上一歩も走れない状態だった。「う~む、ハーフマラソンの部に申し込んでおけばよかったかなぁ」な~んて思ったり、相変わらず自信のないことばかりが頭の中を巡る僕だった。練習で21キロを走って、本番で「倍返し」できたら言うことなし…なのだが、この「倍返し」は至難のワザである。半沢直樹さん、力を貸してくださ~い。


とにかく、21キロを走るのに3時間かかった。これを単純に倍にするとフルマラソンのゴールは6時間。でも最後はヘバるだろうから、もっともっと時間がかかる。あぁ、これまで14回のフルマラソンで4時間半をオーバーしたことは一度もなかったのに…


いや、こうなればタイムはもう関係なし。何よりも42.195キロを完走できるかどうかが問題ですよね。あと1ヶ月、どれだけ頑張れることやら…

 

 

 

 

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無理しちゃダメということ

2013年08月29日 | ランニング

今月初旬の朝日新聞大阪版に、
「駈ける27歳市民ランナー、北海道マラソン連覇狙う」

という見出しの記事が載った。この市民ランナーというのは、吉住友里さんという女性で、わが町藤井寺市、それもウチの近所に住んでおられ、今モミィが通っている小学校の卒業生でもある。つまりモミィの小学校の先輩だ。去年の北海道マラソンに優勝し、一躍期待のランナーとしてクローズアップされた。その時のブログです。↓


http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/61d9f17b687684dca3f69bd752d51f51



そして25日(日)に北海道マラソンが行われた。結果、吉住さんは5位に終り、残念ながら2連覇はならなかった。


ところで前述の新聞記事には、こんなことが書かれていた。「吉住さんの朝は早い。起きるのは、まだあたりが薄暗い午前4時過ぎ。自宅周辺を約1時間半かけて、15~20キロほど走りこむ」…と。こういうのを読むと、すぐに影響される僕なのである。やはり暑い夏は朝の暗いうちから走らなければ…


そう思いながらも、なかなか実行できなかったのだが、今日は朝4時過ぎに起床し、4時40分ぐらいから大和川堤防に走りに出ることができた。7月ならすでに明るくなっている時間であるが、さすがに8月下旬となるとまだ真っ暗である。それでも堤防を歩いている人の姿はあちらこちらに見受けられたし、中には懐中電灯をチラチラさせて歩いている人もいた。


久しぶりに涼しい空気に触れながら、10キロを走り、東の生駒山からお日さまが顔を出した頃に切り上げて帰宅した。最近、夏バテがひどく、高速道路の下の日陰の公園を走ってもドッと汗が吹き出し、1時間ほど走って家に帰ると、気分が悪くなったり吐き気がしたり、心拍が不安定になったりして、ちょっと滅入っていた。でも今日の場合は、帰宅しても心配した症状は現れなかった。少し涼しくなったうえ、涼しい時間帯に気持ちよく走ることができ、体力が回復してきたのかな~と思う。


5月ごろ、10年以上走っていないフルマラソンをめざし、11月3日に行われる大阪淀川市民マラソンに申し込んで練習を始めたわけだけど、その時はまだレースは半年も先のことだから何とかなるだろう…と思っていた。練習を始めた頃に20キロ走もできたので、多少の自信も湧いてきた。これなら次に30キロ走もいけるだろ。そして次に…と。しかし、しかし…。甘かったんだなぁ、この考えが。そこから、暑かった夏をうまく乗り切ることが出来ず、練習も全然はかどらないうちに、気がつけば8月ももう終り。レースがあと2ヵ月少しに迫ってきたのである。えらいこっちゃ!


北海道マラソンに出場して制限タイムぎりぎりの3時間57分でゴールしたのは47歳の時だった。その2ヵ月後には、高知県の四万十川100キロマラソンに参加して、13時間で完走することができた。そして50代の時にも、赤穂の100キロマラソンを完走することが出来た。で、今もまだ、練習さえ積めばそれくらいの力は残っているのではないか…と思っていたのだが、このひと夏で、それがとんでもない見込み違いだったということを思い知らされたのである。


やはり体力の衰えは、如何ともしがたい。日常の動作の中で「あぁ、年とったなぁ…」と思う瞬間が何度もある。考えてみれば当たり前のことだけれど、それでも心のどこかに、「まだ若い。やればできる」という気持ちが潜んでいたに違いない。「ボチボチやる。無理しない」と表面では言いながら、実は無理しようとしている自分が滑稽に見えてくるのだ。


ここは現実を直視しなければならない。それを見据えた上で、今後2ヶ月のトレーニング計画を見直そう。11月3日の大会にはどうしても出場したい。あと2ヵ月間、早朝に走る習慣を徹底してつけるようにしよう。涼しいところを楽しく走る…。そういう練習でなければとても体が持たないことがわかった。今日は、大和川の堤防に吹き渡るひんやりした風を心地よく受けて、いいランニングができたなぁと、久しぶりの満足感に浸りながら、無理せず、質量ともに、分をわきまえた練習をしなければ…としみじみ思ったところです。

 

 

 

 

 

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福士選手 踏ん張って銅メダル

2013年08月11日 | ランニング


昨日からモスクワで世界陸上が始まったけれど、日本時間の午後7時から9時半過ぎまでテレビの見やすい時間帯に、最初の決勝種目である女子マラソンが行われたのは運が良かった。しかも結果は福士加代子選手が銅メダルを獲得して、3時間半じっとテレビ観戦していたのがムダにならずに済んだ。テレビの前で福士選手の健闘を称えた人は多かったでしょう。


去年のロンドン五輪では、福士はマラソンではなく、1万メートルに出場したのだが、その時の様子を8月5日のブログに書いている。


http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/dd831ab3baf64d91e7f889d183d9f77f


このレースには福士、新谷、吉川の3選手が出場し、3人はスタート直後から勢いよく飛び出してケニアやエチオピア勢を引き離した。しかし途中でズルズル落ちて、最後は新谷が9位、福士が10位、吉川が18位というふるわない(というか実力どおりの?)結果に終わってしまった。


そのロンドン五輪だが、福士は本当はマラソンに出たかったのだ。その年の1月に行われた五輪代表選考会のひとつ大阪国際女子マラソンに福士が出場していて、ここでマラソン日本代表の座を射止めるはずであった。その前のシカゴマラソンで2時間24分台を出していたこともあり、「今度こそ」と福士へ大きな期待が寄せられていた。が、彼女は25キロで失速してしまい優勝に絡むことはできず、結局マラソン代表には選ばれなかったのだ。そんな経過で、半年後の日本選手権1万メートルで五輪の出場権を取り、しかしその1万メートルも本番では10位に終わったことは前述のとおりである。


その2012年1月の大阪国際女子マラソンのことを書いたブログです。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/de7d03f71d7795d6f42a2b38f34a5ca4


さて、2008年1月。トラックの長距離では無類の強さを誇っていた福士が初めてマラソンに挑戦するというとき、日本中のマスコミやマラソンファンは色めきたった。「女子マラソン界に新星誕生か!」と誰もが思っていたに違いない。しかしその初マラソン→大阪国際女子マラソンは、終盤に何度も転ぶという、福士にとってさんざんなレース結果となったのだ。


自分のブログの紹介ばかりで恐縮ですが、そのレースのことを書いたのがこのブログを始めて間もない2008年2月1日の「福士 vs のん マラソン対決!」という笑っちゃうようなタイトルのブログです。ご一読いただけたら嬉しいです。 


http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20080201


こういうふうに福士のレースをさかのぼって見て行くと、今年は31歳になってのマラソン挑戦で、僕はもう彼女のピークは過ぎてしまったのではないか…と思っていた。野口さんはもうあまり期待はできなかったので、レース前、僕の望みは木崎選手だけだった。その木崎さんは、よく粘って、福士に大差をつけられながらも4位入賞を果たしたが、ゴール後、メダルを獲れなかった悔しさが表情にあふれ出ていた。福士の後塵を浴びたのが、さぞ無念だったのだろう。


それにしても、相変わらずだがテレビ中継の程度の低さが昨日も随所に目立った。午後5時から番組がはじまり、例によって織田裕二のユニーク(…というか、的外れというか。まあこれが彼の魅力なんでしょうけど)なトークを中心に、間もなく女子マラソンスタート…とか、男子100メートルにボルト登場…とか、室伏登場…とか、ずっとテロップが出続けていたけれど、最初の種目は女子マラソンなのだから、まずそれがいつスタートするのか知りたいところでだった。しかしテレビ局は一切言わない。ネットで調べると、スタートは7時であった。6時ごろからは、日本の3選手の詳しい紹介を延々と流し、ようやく7時になってレースがスタートした。すると、それまであまりCMが流れなかったのに、レースが始まったとたん、CMの回数が増えたのだ。「まもなく…」とのばしている時にCMを頻繁に入れるとチャンネルを変えられる恐れがあるが、レースがはじまったらいくらCMを入れても変えられないだろうというテレビ局のセコい魂胆がミエミエだったぞ。(レースの大きなポイントだった福士が先頭集団から脱落するシーンも、CM中だったので見られなかった)。


それと、解説の増田明美と高橋尚子の2人が、よくしゃべることしゃべること。特に増田は、「お得意」の、レースに直接関係のない選手たちの個人的な情報などについて「ウンチク」を傾けるのだけれど、レースが白熱してきた時もお構いなくしゃべっている。まるで座談会のようで、レースそっちのけである。たとえばいったん遅れた木崎選手が、ジリジリと先頭グループを追い上げながらも、途中でまた後退していったときなど、普通なら「あ、木崎選手が少し遅れ始めましたね」と言うべきところだが、それには一切触れることなく、関係ない話を続けている。高橋がフォローするかと思えば、増田に負けじと同じようにレース展開を無視した一般論を説いたりしている。アナウンサーもほとんど2人の話に相槌を打ってばかり。たまに、レースに話を戻すのだが、増田・高橋コンビは座談会をやめない。こんな解説などいらない。レースの流れは刻々と変わっているのだから、アナウンサーがそれを説明するだけでいい。レースへの集中力をそらすようなヒマネタばかり並べておしゃべりを競い合う増田と高橋には、頼むから黙っていてくれ…と言いたかった。


野口みずきが30キロ付近で立ち止まって足をパンパン叩き、またゆっくり走り始めたが、また立ち止まる…という事態にも、アナウンサーや増田や高橋は、「がんばってほしいですね」とありきたりのことを力を込めて言うだけ。かなり暑そうな中で、誰の目から見ても、あんな状態でがんばるのは無謀というものだ。「心配ですね。無理しないでほしいです」と、一人ぐらい言う人がいてもよかったのでは…と思ったりもした。


まあ、そんなことで、まったく耳障りな解説陣であったが、レースの方は、福士が4位に落ちてもいつものように失速せず、逆に先頭グループから落ちてきたエチオピア選手を抜いて3位に上がったときは、「いいぞ!」と福士に拍手を送った。それでも、2008年の大阪での初マラソンのゴール付近でフラフラになり何度も倒れたシーンが思い出され、最後の最後、ゴールをするまで心配だったことは事実である。でもこの日、彼女は元気一杯にゴールを走りぬけた。


福士は走っているときはカッコいいのだが、走り終えてインタビューになると、女芸人の出来損ないのようなつまらない言葉をハイテンションで連発し、ガハハ~とわざとバカみたいに笑うので、できたらこの銅メダルのゴール後も、インタビューだけはやめてほしいなぁ、と願っていたが、でもまあ、それは無理ですよね。インタビューは絶対やりますから。そこへなんと織田裕二が放送席から降りてきて福士にインタビューする…という「恐怖の二重奏」が実現してしまったわけで…。案の定、聞くほうも聞くほうなら答えるほうも答えるほう…という、わけのわからないやりとりが交わされていましたが、まあそんなことはこの際どうでもいいでしょう。2008年の大阪での初マラソン以来、大舞台ではずっと期待を裏切り続けていた福士が、やっと本領を発揮できたことはこの上もなく嬉しいことである。


おめでとう、福士選手。でも、せっかくメダルを獲ったのだから、このあとも、メダリストとしての最低限の品格だけは維持してほしいと願うのでゴザイマス。特に日本へ「凱旋帰国」したとき、日本のメディアに対して、一人テンションをあげてギャハハ~と笑うのはねぇ…。あなたは普通にほほ笑んでいるだけで十分素敵な笑顔なんですから。どうぞ、普通に、普通にしておいてください(笑)。 

 

 

 

 

 

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「奈良マラソン」からの通知

2013年06月29日 | ランニング


6月10日のブログ「マラソンの申し込みも一苦労」で書いたけれど、秋にフルマラソンを走ろうと意欲している僕は、11月3日の大阪・淀川市民マラソンにエントリーし、それをめざして「老体に鞭打ち」ながらトロトロと練習しているところである。最近のマラソンの大会は東京マラソン、大阪マラソン、京都マラソン、神戸マラソンと、大都市での大会が増え、それに伴い参加者希望者も急増してきた。1万人以上が出場できる大会でも、申し込みが殺到し、抽選で運良く当選しなければ出場できないというのが実情なので、その大会で走りたいと思っても、なかなかそう簡単にはいかないのである。


そこで僕も苦労の末、大阪・淀川市民マラソンの申し込み初日にネットでエントリーし、どうにか「出場権」を得られたことは、そのブログで書いた。でも、実は僕には、ちょっとした思惑があった。


11月3日のその大会をステップにして、12月8日に行われる奈良マラソンを本命にしたいと考えていたのである。淀川マラソンでは苦しくなったら無理せずに30キロあたりで棄権してもいい。その1ヵ月後の奈良マラソンにベストで挑める過程と考えればいいのだ…という作戦を立てていたのである。


これから9月頃まで暑い日が続く。なかなか練習で30キロ以上のロングランは厳しい。10月頃から本格的な距離の練習をし、そして11月の淀川マラソンをバネに、12月の奈良で最終的な成果を出したい、とその時には思ったわけである。


その奈良マラソンだが、これも前述のブログに書いたとおり、郵送での申し込みの初日に申込書を送付した。同マラソンのホームページに「6月4日の消印から有効です。3日までの消印のものは受け付けません」とのことだったので、4日に郵便局から申し込み用紙を郵送した。受付初日の4日の消印で送付したので、これで確実に出場できるだろ…と思っていたら、数日後のホームページに…


6月4日(火)付消印分より郵便申込によるランナー募集(消印日順)を開始しましたところ、フルマラソン種目は4日付消印分で定員を超過することが確実になりました。したがって、締め切りとし、4日付消印分のみで抽選を行います。5日付消印分以降は受付いたしませんのでご了承ください。当選及び落選・非受付については6月下旬から通知文を送付する予定です。


と書かれていた。このことも6月10日のブログに書いた。それでも僕は、なぜか奈良マラソンには必ず当選する…という確固たる自信のようなものがあった。


そして…きょうの午後。奈良マラソン実行委員会から郵便が届いたのである。心弾ませて開封して文書を読んでみたところ…

 


        

 

 

つまり、こう書かれているのだ ↓

 

      奈良マラソン2013

  郵便申込結果(落選・非受付)のお知らせ


拝啓 時下益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。


このたびは、奈良マラソン2013にお申込みいただき、誠にありがとうございま
した。


今回、多数のお申込みがあり、郵便申込の募集開始日6月4日付の消印分のみで定
員を超過しました。そのため、あらかじめ募集要項でご案内しておりました通り、6月4日付の消印分のみで抽選を行い、また6月5日付以降の消印分からはすべて非受付(締切)といたしました。

その結果、誠に残念ながら貴方様のエントリーを受け付けることができませんでした。

何卒、ご了承賜りますようお願い申し上げます。

                                  敬具

                            
   平成25年6月

                         奈良マラソン実行委員会

 


なんのこっちゃ。あほくさ。

大きなマラソン大会に出場するというのは、
今の時代では、かくも難しいことなのである。 

 

 

 

 

 

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マラソンの申し込みも一苦労

2013年06月10日 | ランニング

秋に久しぶりのフルマラソンを走るつもりで、毎日ボチボチと練習を続けているけれど、どの大会に出場するのか…。


5月22日のブログに書いたように、第一候補に11月3日の大阪・淀川市民マラソンを考えていた。しかし、エントリーしようにも、ホームページには「5月初旬にエントリー開始」とあるけれど、5月下旬になってもそのままの画面なのだ。いつになったら始まるんだ? と思いながら、同ホームページを毎日チェックし続けた。何しろ毎年ゲストに高橋尚子さんが来るという人気のありそうな大会なので、参加希望者も多いはずだ。フルマラソンの定員は6,000人だが、申し込みの先着順で出場が決まるので、受付が始まればすぐにエントリーしなければならない。だから、毎日パソコンをチェックしなければならなかった。昨今は走る人が急増したのか、マラソン大会一つ申し込むのも結構苦労する。


さて、その大阪・淀川市民マラソンだけど、5月末になると今度は「6月初旬にエントリーを開始します」という画面に変わった。なんだかなぁ。「5月初旬」が「6月初旬」に変わっただけで、日時は依然不明のままだ。やれやれ。いい加減なことだ。本当に気を持たせるんだから…。それでも毎日、せっせとアクセスするほかはない。なにか「走らせていただく」という感じすらしますね~


そして6月3日の朝。いつものようにそのホームページを開けようとしたら、なかなか画面が現れず、あげくの果ては「エラー」の表示が出た。何度やっても同じ結果だ。これは、ひょっとして、全国からアクセスが殺到しているのではないか…と不吉な予感が走った。そして夜になってやっと画面にアクセスでき、そこに「6月4日にいよいよエントリー開始!」と出ていたのを見て、ホッと胸をなでおろしたのである。4日といえば翌日である。何時からか不明だけれど、朝早くからチェックしよう、ということでその日は終わった。


さて翌6月4日。僕は朝の6時頃から10時頃まで、30分間隔でパソコン画面を確認したけれど、いつ見ても「6月4日にエントリー開始!」という文字が躍るだけで、何時から始まるのか示されていない。不満は溜まる一方で、イライラしてきた。よし、この大会だけに頼るのがいけないのだ。別の大会も当たってみよう…と、他のマラソン大会の一覧を眺めていたら、これまで気がつかなかったが、奈良マラソンが目に入った。(奈良マラソンといえば、このブログにコメントもいただいている「びん」さんが、確かこの大会に出場されたはずである)


奈良マラソンは12月8日に開催…とある。これは規模が大きい大会で、参加者もフルマラソンは1万人だ。ここなら行くにもにもさほど不便ではない。しかし参加者募集要領を見たら…インターネットでの申し込みは5月末で終了、とあった。定員を超える応募数があったので、締め切ります…と書かれていた。


あぁ、もう締め切られたか…と思いきや、今回から郵便による受付(参加定員1万人中、千人のみ)も始めました…とあった。そしてその受付開始日が、なんと6月4日から…と書かれているではないか。今日だぞ! 今日から始まるのだ。これはラッキーだった。「4日の消印から有効です。3日までの消印のものは受け付けません」とのことだった。


僕はあわてて、奈良マラソンのホームページにあった申し込み用紙を印刷し、そこへ参加種目(フルマラソンの部一般)、氏名、年齢、住所、電話番号などを書き込み、封筒にあて先を書き、近くの郵便局まで自転車を飛ばして行った。郵便局で80円切手を2枚買い、1枚を返信用として申し込み用紙に添付して中に入れ、封を閉じてもう1枚の切手を封筒に貼り、郵便局の女の人にそれを差し出した。そして、「消印はいつになりますか?」と聞いた。「今日の4日です」という返事が返ってきた。よ~し、開始初日の消印で申し込んだのだから、参加できることはほぼ間違いないだろう。これでもう、淀川マラソンの先着順争いには敗れてもかまわない…と、気持ちのモヤモヤが少しは晴れた。


郵便局からそのままスポーツジムに行き、少し泳いだだけで早い目に帰ってきた僕は、またパソコンを開け、大阪・淀川市民マラソンのホームページを開いたのである。すると…そこには、「お待たせしました。6月4日17:00分よりエントリー開始」と書かれていた。あぁ、5時か…。やっと時間が出た。しかし、午後5時までまだまだ時間があるし。どこまでも気を揉ませるなぁ。


…さぁて、その5時がやって来た。むろんすでにパソコンのそのページは開いていたので、時間が来ると、自分が会員登録しているランネットというサイトからエントリーをした。どうやら、先着順には入ったようである。エントリー完了!


…と思われたが、大会参加費を入金してはじめてエントリーが完了するとのことなので、近くのファミリーマートへ行って、機械と格闘しながら、ネットで示されていたお客様番号などを入力し、出てきたレシートのようなものをカウンターのお姉さんのところへ持っていき、参加費の5250円を支払うと、領収書兼明細書をくれた。これが大会に正式エントリーをした証明書となるのだ。

あぁ、やれやれ。これで11月3日の大阪・淀川市民マラソンと、12月8日の奈良マラソンの2つに参加する資格を取れた。ひと安心である。


…と思ったのも束の間。昨日、奈良マラソンのホームページを開けると、こんなことが書いてあった。


6月4日(火)付消印分より郵便申込によるランナー募集(消印日順)を開始しましたところ、フルマラソン種目は4日付消印分で定員を超過することが確実になりました。したがって、締め切りとし、4日付消印分のみで未着分を待って抽選を行います。5日付消印分以降は受付いたしませんのでご了承ください。当選及び落選・非受付については6月下旬から通知文を送付する予定です。


…ということだった。


4日の消印で送ったので決まり!…と思ったのが間違いでした。
抽選ということなので、奈良マラソンには出られるかどうかは未定です。
ホント、大きなマラソン大会のエントリーというのは油断がならないんだから。


あちらこちらを掛け持ちでエントリーしている人が大半なのかも知れませんが、それにしても、これほどフルマラソンに出たがる人たちが多いとはね~


びっくり、びっくりです。


でも、11月3日の大阪・淀川市民マラソンには参加できることになったので、あとはその日の完走を目標に、ゆるゆると練習を積み重ねていくつもりです。

 

 

 

 

 

 

 

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フルマラソン、走れるのか?続き

2013年05月22日 | ランニング

いや~暑くなりましたね。
ここ大阪も、まるで真夏です。
寒がりやの僕も、もうそろそろ冬物の衣類を片付けなければ…


前回のブログで、秋にフルマラソンをめざす…と書きました。
具体的にどのレースをめざすのか?ということになりますが、
練習計画を立てるのと併せて、まずそれを決めなくっちゃね。


秋といえば、たとえば10月27日に第3回大阪マラソンが行われます。
これは、すでにエントリー…つまり申し込み期限が終了しています。
マラソンの定員2万8千人に対し、申し込みは15万人以上とのこと。
エントリーできても、倍率5倍以上では「当選確率」は低いですね。


今考えているのは、11月3日に行われる大阪・淀川市民マラソンです。
制限タイムが7時間以上に設定されているので、それはまず安心です。
あのQちゃんこと高橋尚子さんも、ゲストとして来場するそうです。


先日このHPを見たら、5月初旬にエントリー開始…とありました。
それ以来、毎日見ているのですが、いつまで経っても同じ画面。
先着順とのことなので、開始直後に申し込むつもりなのに、
さっきもパソコンを開けて真っ先にこのHPを見ると…


2013年第17回大会 まもなくエントリー開始いたします!
今しばらくお待ちくださいますよう、お願いいたします。


…ということでした。気を持たせるなぁ~、ホントに。


それがダメなら、11月23日に行われる福知山マラソンを考えています。
この大会なら、僕は98年(平成10年)と翌年の2回出場しているし、
エントリー開始は6月22日で、さほど競争率は高くないだろうし…
この大会を、2番目の候補として考えています…


…と、それが、2日前までのことでした。
2日前…5月20日の朝、ブログを書き終えたあとで、
ふと、大阪マラソン並みに人気の高い神戸マラソンを思い出しました。
これも秋に行われるはずです。さっそくパソコンで検索してみました。
11月17日に開催されるということで、申し込み要領を見てみたら…


なんとエントリー期限が5月20日の午後5時まで、とありました。
20日!…といえば、「今日じゃないか!」と僕はあわてました
いや、待て、あわてることはない。午後5時までなんだ。
今はまだ20日の朝である。いける、いける、大丈夫!


…そう思いなおして、改めて大会要領の詳細を読み、
よし、ここへエントリーしよう…と決めたわけです。
そして、まずrunネットというところへ登録してから、
神戸マラソンの申し込みを滑り込みで済ませました。
すでに定員を上回っているので(具体数は書かれていない)、
抽選となり、結果は6月下旬に発表される、とのことでした。


それにしても、20日のブログに「マラソン走ります」と書いて、
今度こそぜひ達成したい…という意欲がますます高まった直後、
偶然にもその日が神戸マラソンのエントリー最終日だったとは…
これも何かの「おぼしめし」ではないかと思ったりしています。


淀川になるのか、福知山になるのか、神戸になるのか…
走る大会はまだわかりませんが、やる気は満々です。


ただ、張り切りすぎるのも禁物…ということですよね。
不整脈も抱えている自分の体の状態を十分考えなければ。


昨日、それについてコバヤシさんとyukariさんから、
体に十分注意されるように、とのコメントをいただきました。


まったく、そのとおりですよね。
体を案じていただき、ありがとうございます。


ほとんど歩くようなゆっくりしたペースでしか走れませんので、
練習での様子を見ながら、ボチボチやっていきたいと思います。


昨日は大和川堤防で10キロのジョギングをしました。
今のところ10キロを走るのが精一杯という感じです。


これから、徐々に距離を伸ばしたいのですが、
そこで42キロを走るのが難しい~と感じた時は、
決して無理はせず、大会に出るのはあきらめます。


これもまた「のんびりと、のんきに」やっていきます。

 

 

 

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フルマラソン、走れるのか?

2013年05月20日 | ランニング

もうそんなことは無理だろうか…?
いや、頑張ればいけるだろうか…?


最後にもう一度だけチャレンジできたらなぁ、
と、このごろ思うのは、フルマラソンを走ることだ。


思えば1982(昭和57)年に初めて丹波篠山マラソンを走り、
それ以来、十数回、フルマラソンを走ってきたけれど、
ここ10年ほどは、レースとは全く無縁の日々が続いた。
朝のジョギングの習慣もいつしか曖昧になってしまい、
最近では近くの大和川堤防に出ても、歩くことが多く、
走っても5キロか6キロが精一杯という有様である。


何とかもう一度フルマラソンを走りたい…
そんな気持ちが、最近強くなってきたので、
この秋に行われる適当なレースを見つけて、
エントリーしようかなぁと思っているのだが…


そういう気で大和川の堤防に出ると、少しは気合が入る。
しかし、気合は入っても、衰えきった足は、とても重い。
やっぱり、フルマラソンを走るには、もう歳なのかなぁ…
三浦雄一郎さんは80歳でもエベレストに登頂しているけれど。
(そんな人と比べることが間違ってまっせ~)

 

 ………………………………………………………………………

 

 
 大和川堤防。ここが僕のジョギング&ウオーキングコースです。

 

さて、一昨日の土曜日のことである。
朝、大和川の堤防をトコトコと走っていたら、
リュックを担いだ男性が僕を追い越して行った。
それから、速度をゆるめ、こちらを振り向いた。
僕の顔を見てニコニコ笑っている。
一瞬「はぁ…?」と思ったけれど、
すぐに、K島クンだとわかった。


「いやぁ、よく似た人が走っているなぁと思いまして…」
と、K島クンは僕のペースに合わせてスピードを落とした。
「久しぶりやねぇ」と、僕も思わぬ出会いに心が浮き立った。
K島クンは僕が勤めていた役所時代からの親友で、
彼は今も現職の部長として仕事に精を出している。
で、来年、定年退職を迎えるという。早いなぁ。
ここ数ヶ月ほど、彼と会っていなかった。

しばらく併走した。
「これからどこへ行くの…?」と僕が聞くと、
「奈良まで行きます」とK島クン。
「奈良? 奈良のどこ?」
「興福寺です」
それは遠い。そんなところまで走って行くの…?
「だいたい40キロぐらいだと思いますけど」
その程度なら彼にとっては大した距離ではないのだろう。
そういえば、去年、彼はもっと遠い京都まで走って行った。


「興福寺で、いま国宝の特別公開をしているんですよ」
それを見に行くのが今日のランニングの目的だという。
昔から文武両道の人だったが、今も変わらず…である。


K島クンは、市民ランナーとしては、抜群の実力の持ち主である。
別大マラソンに出場して2時間30分台の記録を出したこともある。
トライアスロンでは国際大会にも出場し、好成績をおさめている。
僕のまわりにはスゴい人が多くいるが、中でも彼はトップだろう。


それだけでなく、個人的にも彼とは付き合いが深い。
昔はよく一緒に50キロ以上の長距離ランに付き添ってもらったし、
僕が退職してからも、何度も2人で飲みに行っている親しい間柄だ。


「のんさんはどこまで走らはるんですか?」と聞かれたので、
「いや、もう、この辺を行ったり来たりするだけで…」
そんな、40キロどころか6キロぐらいが精一杯だからね~


やがて、僕が折り返すところへ来たので、そこで別れた。


ところで…
K島クンと走っているとき、僕はつい、
「久しぶりに、どこかのフルマラソン大会に出ようと思ってる」
と口に出してしまったのだ。
K島クンはそれを聞いて、
「それなら僕も一緒に出ますから、決まったら教えてくださいよ」
…と言ったのである。


うぅっ…。どうしよう。
引っ込みがつかなくなった。


いよいよ本気になって取り組まなければならない。


でもなぁ、ほんまに走れるんかいな…? 
まずは、このポッコリ出たお腹を何とかしなければね~

 

 

 

 

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あのボストンマラソンが…

2013年04月17日 | ランニング

「前代未聞」というのはこういうことを言うのだろう。ボストンマラソンのゴール付近で起きた爆破事件は実にショッキングな事件であり、マラソン大会でこんなことが起きるなんて、誰も想像がつかなかったに違いない。まさに“驚愕”の出来事であった。


ボストンマラソンといえば、市民ランナーにとっては憧れの的だ。僕は33歳で初めてフルマラソンを走ったあと、どうしても海外のマラソンを走りたいという思いを強く持った。そして真っ先に思い浮かべたのがボストンマラソンだった。世界に数あるマラソン大会の中でも、ボストンマラソンがずば抜けて有名だったし、マラソンに関心のない人でもボストンと言えばマラソン、マラソンと言えばボストン…という具合だったから。


しかし当時のボストンマラソンは、今のような大規模な市民マラソンではなく、レベルの高いランナーのみが参加できる大会だった(…と記憶している)。だから、たとえばホノルルマラソンのようなマラソンツアーも当然のことながらボストンにはなかった。そこでいろいろと調べた結果、ニューヨークシティマラソンにはツアーがあり、完走制限時間も5時間ほどあったことを知ったので、そこへ参加することに決めた。1983年(昭和58年)、34歳の秋だった。当時は瀬古利彦が全盛の頃であり、ボストンマラソンでも優勝していたし、84年のロス五輪マラソンの有力な金メダル候補に上げられていた。そんな時代だった。


ニューヨークマラソンに参加した後、僕は勤め先のいろんな人から、「あんた、ボストンマラソンに出たそうやねぇ」と言われた。「違いますがな。ニューヨークマラソンですわ」と何度も説明しなければならなかった。やはり、海外のマラソンといえばボストン…というイメージが強かったのだろう。


そして後年、村上春樹さんがボストンマラソンを走った。その時の様子が書かれた文章が、とても面白くて印象深かった。


村上さんは、沿道のさまざまな楽しい声援を浴びながら走るのであるが、在米韓国人から「コリア、コリア」と声援を受けたので、ニコッと手を挙げて応えたそうである。そして「経歴詐欺みたいですが、やはり応援されるとうれしいもので…」と書かれていた。そうだ、そうだ。僕もニューヨークマラソンで沿道から「ニーハオ」と声援を受けて手を振った。やはり声をかけてもらうと、中身を問わず、うれしいものだ。


村上さんの話で一番傑作だったのが、ヒラリー・クリントンさんの出身校でもあるウェルズリー女子大の前を通過した時のことだった。その周辺で、数多くの女子学生が、ランナーたちに熱烈な声援を送っていた。中には「Kiss Me!」とか「Hug Me!」などと書かれた札を持った女の子がいたそうである。そして、ヒマなランナーは本当にキスしたり、ハグしたりしていた…と書かれていた。


それだけではない。その中に「Flash Me!」という札を持った女の子もいたという。これは「露出して見せて」という意味だそうである。村上さんは「大胆な方です。さすがに露出するランナーは見かけませんでしたが…」と、読む者を笑わせるのである。


そんな楽しい声援を味わえるボストンマラソンなのである。僕もぜひ走ってみたかった大会だ。そして…。栄光の瞬間とも言えるゴールをいよいよ目前にしたその場所に、爆発物を仕掛けて無差別に人々を殺傷しようなんて、およそ考えられないことであり、卑劣の極みである。そして、爆発が起きた時刻はスタート後4時間10分くらいのことで、これは市民ランナーの標準的タイムでもあり、僕もだいたいこれくらいの記録が多かった。この時間帯が最もゴール者数が多い…という計算も含まれていたように思われる。


むろん、どんな場所でもテロ行為は許されるものではないけれど、ボストンマラソンという、ランナーが夢にまで見る憧れの大会、そして100年以上も前から行われている伝統のあるマラソン大会が、このような形で血塗られた歴史を刻むことになったのは、本当に残念でならない。怒りとともに、言いようのない悔しさがこみあげてくる。

 

 

 

 

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わが町、女子ランナーの快挙

2012年10月05日 | ランニング

先日配られてきた市の広報10月号を見てびっくりした。

去る8月26日に、札幌で行われた北海道マラソンの女子優勝選手は、
吉住友里さんという20代の市民ランナーだったけれど、なんと彼女は、
わが家の近く住んでいる人で、モミィが通う同じ小学校の出身だった。

広報には、吉住さんのゴールの瞬間のカラー写真が掲載されていた。

いや~、全然知らなかったなあ。

妻にそのことを言うと、モミィがもらってきた学校新聞にも、
卒業生である吉住さんの優勝を祝す記事があったという。

吉住さんの記録は2時間39分07秒で、自己最高記録だそうである。

ぱちぱちぱちぱち  

今年の北海道マラソンは、男子の部で、埼玉県庁に勤める公務員ランナー、

川内優輝選手が優勝して話題になったレースだ。

北海道マラソンは日本で唯一の夏のビッグレースとして有名である。

そのレースの女子の部で優勝したのが吉住さんだから、これは快挙だ。

本大会は、来年の世界陸上の選考レースにもなっており、
もしかして彼女は、世界の舞台に躍り出すかも知れない。
わが町の誇りであり、ぜひ今後益々の活躍を期待したい。

話は遡るが、1995年の夏、有森裕子選手がこの北海道マラソンで優勝し、
その実績で、翌年のアトランタ五輪代表に選ばれた。

五輪代表選考の最後の1人は、かなりモメたけれど、結局、有森が、
「暑い夏の北海道マラソンを制した」という理由で選ばれたのである。

そのアトランタ五輪で有森は意地を見せ、銅メダルを獲得して、
バルセロナ五輪の銀メダルに続く2大会連続のメダリストとなった。

「メダルの色は銅かも知れないけど、自分で自分をほめてあげたい」
という名セリフも、このときに生まれた。

…ということで、北海道マラソンは歴史と伝統のある大会なのだ。

その大会で、わが町の市民ランナーが優勝したとは、嬉しい限りである。

そのうえ吉住さんは、大和川の堤防でもよく練習したそうである。
大和川堤防といえば、僕も何十年とここでジョギングを続けている。
たぶん、吉住さんとも、何度もすれ違っていたのだろうと思う。

ところで…
北海道マラソンは、僕自身も出場したことのある懐かしい大会である。

有森選手が優勝した翌年、つまり1996年の8月であるが、
妻との北海道旅行を兼ねて、このマラソンに出場した。
47歳の時だったなぁ。

有森選手が銅メダルを獲ったアトランタ五輪から数週間後のことで、
スタート地点の札幌・真駒内競技場には、その有森選手が来ており、
僕たちに「頑張ってくださ~い」とエールを送ってくれた。

で、僕のマラソンの結果はどうだったのか…?

ヘトヘトになりながらゴールした僕のタイムは、3時間57分だった。

このレースの制限タイムは3時間59分であった。

制限タイムまであと2分! 
…きわどいところだった。

順位は…?
えぇ~。 そんなこと覚えていませ~ん…
…というより、覚えられないような順位だったもんね。

翌日の北海道新聞に、全完走者の順位と記録が出ていたけれど、
その新聞も家に持ち帰ったが、どこに行ってしまったのかわからない。
下から何番目かに自分の名前が載っていたことだけは覚えているが…

一方、先日、女子で優勝したわがご近所の吉住さんは、
2時間39分の自己最高記録で、見事に優勝したのである。

同じ 「大和川堤防仲間」 のはずなのに、この大き過ぎる差は何…?

広報紙を見ながら、16年前の懐かしい自分のレースを振り返り、
わが町のヒロインに、ぜひ一度お会いしたいものだと思った。

 

 

 

 

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五輪資格 猫ひろしの場合

2012年04月17日 | ランニング

   

 今年2月に行われた別府大分毎日マラソンで自己記録を7分縮め、
2時間30分26秒で50位に入ったタレントの猫ひろしが、今、話題になっている。

カンボジアの国籍を取得し、同国代表として、
ロンドン五輪の男子マラソンに出場するという。

いや、そのことが話題になったのは、もう過去の話である。

今は、そんなセコイことはやめろ、という声が湧き起こっているのである。

マスコミの、特にテレビ局がそもそも悪い。
2月の別府大分マラソン中継で、テレビ局は猫ひろしばかり映していた。
たとえ自己記録を縮めても、タイムは2時間30分台で、順位は50位だ。

タレントが走るからと言って、すぐに大げさに騒ぎたて、
主客が転倒するテレビ中継には、腹立たしい思いがした。

とにかく…
猫ひろしが、その程度の記録で五輪に出られるというのが解せない。
おまけに、国際陸連の規則では国籍取得後1年以上経ないと、
五輪に出場できない、となっているそうである。

猫ひろしがカンボジア籍を取得したのは昨年10月で、1年未満だ。

現地に1年以上継続して住んでいる場合にも、
例外として認められることもあるそうだけど、
猫ひろしはカンボジアにはよく行っているが、継続して住んでいない。

あとの可能性といえば、例外中の例外として、
国際陸連に申請して、特別に認めてもらった場合、のみである。

が、これも先日、あるカンボジア選手がパリマラソンで2時間23分29秒と、
猫の記録より7分も早い記録を出したことで、さらに立場が苦しくなった。
カンボジアから五輪マラソンに出場できるのは1人だけだもんね。

週刊誌などには、猫サイドがカンボジアを金銭で買収した、とも書かれている。
アジア最貧国と言われるカンボジアの、弱みに付け込んでいるかのようである。

ともかく、努力が花開く…というような明快でおめでたい話ではなく、
猫ひろしを「日本人の恥だ」と非難する声が日々大きくなっているのだ。
当然の反応だろう。

僕の好きな作家の曽野綾子さんも、早い段階から、週刊誌で、
「常識的な人間だったら考えられない行為」 と書かれていた。

確かに2時間30分という記録は、素人ランナーとしては破格のタイムである。
自分のことを引き合いに出してナンだが、僕の自己最高記録は3時間27分だ。
わが友、自称でこひろし君も、僕など足元にも及ばぬ歴戦の勇士だが、
それでも3時間を切るのにあと数秒と迫りながら破ることが出来なかった。

猫ひろしの努力は、元市民ランナーの端くれとしては、賞賛したい。

しかし、本人が現在住んでおらず、将来もたぶん住む気のない国の籍を取得し、
所属会社ぐるみで、恥も外聞もなく五輪出場を画策する行為は、いやらしい。

明らかにスポーツマンシップに反するのではないか。

おそらく、カンボジア代表の資格はない…ということで、
国際陸連は猫ひろしの五輪出場は認めないものと思われる。

 「ロンドン目指してネコまっしぐら~」 な~んてギャグで五輪に出られては、
五輪への出場を夢見て、努力を重ねながらも涙を飲んで果たせなかった、
各競技種目の数えきれないほどの多くの選手たちは、たまらないだろう。

オリンピックは、その国を背負って参加するものである。

日本人として恥ずかしい真似は、今すぐにでもやめてほしい。

 

 

 

 

 

 

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2001年苦痛の旅

2011年06月07日 | ランニング

まず、冒頭から上記のタイトルの説明をしなければならない。
これは 「2001年宇宙の旅」 という映画の題にひっかけたダジャレです。
1968年に公開された映画なので、ご存知でない方も多いでしょうね。
しかし、あぁ、ダジャレに説明をつけるとは…。 最悪のスタートだ。 
(しかも、ほとんどシャレになっていない。 とほほ)

さて、今日は久しぶりに朝の6時頃から、大和川堤防へ出て、ジョギングをした。
勤めていた頃は、朝しか走る時間がなかったので早朝ジョギングが日課だった。
しかし、時間が自由に使える身になって、この習慣が崩れ、走る時間が減った。
まったく自由であるということは、 僕の性格からしてどうしても怠惰を招くようだ。

やはり、長年続けた日課が狂うと、生活の質が微妙に劣化する感じがある。

曇天で比較的涼しい中を走っていると、忘れかけていた感覚が戻ってきた。
泳ぐことやら歩くことやら、好きな運動は多いけれど、やっぱり走ること。
これが心身にこの上ない心地よさをもたらす、というのを改めて実感した。
まあ、歩いているのか走っているのか、わからないようなスピードだけど。

走りながら、ふ~む、6月と言えば… 
…と、ある思い出深いマラソン大会を思い出していた。

ちょうど今から10年前の6月だった。

2001年。 21世紀の幕が開いた年である。

その年の3月下旬のある日のこと。
たまたま手に取った読売新聞夕刊に、赤穂100キロマラソンの記事が載っていた。
6月3日に開催されるとのことである。

ランニングをさぼっていた僕は、体重がわが人生最大の数値を示し、
これではいかん、と思いながらもグズグズして、怠け続けていた。

その新聞記事を読み終えた瞬間、何のためらいもなく、決めた。
「うむ。 これしかない! 赤穂へ行こ~」 

当時、52歳だった。
ナマってしまった身体で100キロにチャレンジするのは、かなり難しい。
それに、レースまでの準備期間が2ヶ月しかないのは、ちょっと苦しい。

しかし練習期間が短い方がダレなくて済む、という利点もあるし、
あれこれ考えるより、とにかくやってみようという気持ちが勝った。

さっそく参加申込書を取り寄せ、4月1日から練習を開始した。

ほぼ毎日、走る日が続くと、日常生活もピリッとしはじめ、
気持ちのほうも、何となく充実してきた。
2ヶ月間、練習で走った距離は830km。
体重は5kg 減って、お腹がひっこんだ。

そして、レース開催日の6月3日がやってきた。

場所は 「忠臣蔵」で有名な、あの赤穂である。
赤穂海浜公園の1周5キロの周回コースを20周する。
スタートは午前5時だ (…なので前日は赤穂駅前ホテルに泊まった)。
制限タイムは14時間である。

14時間あれば、なんとかなりそうだけど、
なんたって2ヶ月間での急仕上げである。
完走をめざすには、決して無茶をしてはいけない。
(レースに出ること自体が無茶、という考え方もあるが … むふっ)

14時間すべてを使うつもりでペースを考えなければならない。

午前5時。 パーンという号砲で、スタートした。
選手たちはみんな歓声とともに威勢良く飛び出した。
おいおい、100キロやで。 この先、100キロあるんやで。

僕は集団の最後尾をゆるゆると走った。 

何周か走っているうちに、どんどん気温が上昇してきた。 
その暑さのためか、チラホラと棄権する選手が出始めた。

僕はエイドステーションの水とスポーツ飲料をガブガブ飲んで、
バナナ、梅干、ビスケット、チョコレートなども食べまくった。

80キロ地点を9時間40分で通過したとき、完走を確信できた。

残りの20キロは1キロごとに走ったり歩いたりを繰り返し、
13時間 04分のタイムで、ゴールインすることができた。

制限時間まであと1時間残していたが、走っている人は見当たらなかった。
みんな、すでにゴールし終えたか、あるいは棄権したかのいずれかである。

僕がゴールしたときは、係員らもテントをたたみ始め、
まだレースは終了していないはずなのに、帰る準備などをしていた。
僕はほとんど、というか、完全に、というか、ビリに近い順位だった。

それなのに、不思議なことが起こった。
係員の一人が僕のところへやって来て、こう言った。
「え~っと、○○さん。 50歳代の部で1位です。 おめでとうございます」
「え…? うっそぉ」
わが耳を疑った。 
「いや、ほんとです。 1位です。 どうぞ、これ、優勝メダルです」
そう言って、立派なメダルをくれた。

半信半疑でケースに入ったままのメダルを受け取り、改めて選手名簿を見た。
それぞれ氏名の後ろに年齢が書いてあったが、50代は全部で9人いた。
もし係員が言ったように、僕が50代で1位だったということであれば、
僕以外の50代の選手は、全員が棄権したとしか思えないのである。
つまり完走したのが1人だから、 必然的に1位ということになるわけ。 

思いも寄らぬ 「おまけつき」 でレースが終わった。
あとにも先にも、「優勝」 と名の付く 「栄誉」 はこれ一つだ。
32歳でジョギングを始めてから、ちょうど20年目のことだった。

あれから10年経ったが、以来、大会には一度も参加していない。

ウルトラマラソンは、僕にとっては走る競技というより、旅みたいなものだった。
まぁかなりの苦痛を伴う旅だけれども、終わるとこれほど感慨深いものはない。

今年、突発的に、フルマラソンに挑戦しようという気を起こして、
いくつかのレースを目標にしたのだけれど、いずれも挫折した。

もう一度ああいう過酷なレースを体験したい、という思いと、
あんなしんどいことは…もういらん、という思いが交錯する。 

もう、マラソン大会に出ることはないのかなぁ~。
今朝、堤防を走りながら、そんな思いに耽った。

 

 

   
   赤穂100キロマラソンで 「年代別優勝メダル」 を
   ケースに入ったまま、もらった。 … 10年ひと昔。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フルマラソンの練習問題

2011年03月10日 | ランニング

長年走っていないフルマラソンをめざして練習を始めているが、
なにせ長年走っていないものだから、 「こんなはずでは…」
…という現象が、あれやこれやと起こる。
あぁ、やっぱり歳には勝てないんだろうか…と、嘆きの日々である。

少し遠い場所だけど、5月中旬に開催される頃合な大会をネットで見つけた。
その大会は、制限タイムがかなり (…というより、めちゃめちゃ) ゆるい。
というのは、それはウルトラマラソンを中心とした大会で、
そこに、フルマラソンの部もおまけのようにつけられているからだ。
制限時間がウルトラマラソンに合せてあるので、ゆるい…というわけ。

さらに、そこのコースは、一周3キロの公園内を周回するコースなので、
途中、走れなくなってリタイヤするのにはまことに好都合である。
(こんなズボラなことばかり考えている)

さて、これに出場するとなると、5月中旬まであと2ヶ月。
完走をめざすには、今はどんどん走り込まなければならない時期である。

2月22日に、久しぶりに20キロを走った。
また翌日から5日間、10キロから15キロを続けて走り、
そろそろ走り込みも調子が出てきたな~と気分も高まってきた。

ただし、超スローなジョギングである。
ある時、調子に乗って少しだけスピードを上げたら、不整脈が出た。
分不相応なことをすると、たちまちわがハートから警告が発せられる。
身体全体が衰えてきているのだから、あまり無理をするのはよくない。

1週間ほど走り込むと、もう足が重くてだるくて、たまらない。
自宅の階段を上がるのも、足がもつれるありさまだ。
そして、その疲れがなかなか取れない…どころか、たまる一方で、
続いてコスパで水泳なんかすると、夕方にはぐったり死んだようになる。
最近は、コスパではプールで泳がず、主にジムでストレッチをしている。

3月に入って再び20キロ走に挑戦したが、13キロでダウン。
ここ数日は、風が強く、寒い日が続いたので、走るのをサボった。
まあ、休養も練習のうち…と思っていたら、昨日、なんと腰痛が突発した。
何年も前から軽い腰痛はあり、時々痛みが激しくなる時があるのだが、
それが、昨日、出た。

あぁ~、…とため息。

しかしまあ、これまでの経験からいけば、すぐに治るはずである。

何とか練習を重ねて、5月のフルマラソンで完走したい。
いや、完走できなくても、スタートラインには立ちたい。

プロスキーヤーで登山家でもある三浦雄一郎さんのことを思う。
三浦さんは3年前、75歳でエベレストに登頂してギネスブックにも載った。
この人は不整脈を持ち、カテーテル手術もされている。
僕は1回しかしていないが、三浦さんは数回の手術をされている。

それを克服しての快挙であった。

三浦さんは、60歳くらいのとき、運動もせず飲んだり食べたりの生活で、
すっかり心身が弱ってしまったので、一から身体を鍛え直したそうだ。

「あの時にやり直したことが、今の私の身体を作ったのです」

今年78歳になる三浦さんのこの言葉が、僕の今の気持ちを支えている。

…と、まあカッコいいこと言っているけど、
三浦さんと自分と同じように考えるなんて大きな勘違いだよ~ん、
…と、自分の中のもう一人の自分が、そっとささやくのである。

う~む。 そう言われると、ミもフタもないよね。

 

 

 

 

コメント (2)
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