めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

被災者たちの気持ちが解らないリーダー達

2018-07-10 10:58:50 | 日本人

半月ほど前から始まった我が家の下水工事はいまだ終わらず、今日は朝から
パイプ埋設の後の床の復元工事です。
工事をする人も大変ですが、朝早くに朝食を済ませ、妻は現場監督として残り
私は、早々と出勤です。
しかしながら、水回りが滞るとこれ程大変とは、連日の工事の騒音や暑さで、
家族全員が疲れ気味です。

一日も早く完了して欲しいものだと思っていましたが、ここ数日の間に起こった
西日本の大水害は、我が家の不自由さなど針の先程の物と思えます。
家や家財道具を失い、中には、家族を失った方もいます。
ようやく雨は収まり水は引いたとはいえ、その後は惨憺たる光景です。
一体何から手を付けていいのか、ライフラインを失った住民たちにとって、
この炎天下での復旧作業は、地獄の日々と言えます。

テレビ画面を通して、その大変さは伝わって来ますが、実際の苦労は、
体験してみないと解らない程壮絶です。
私も幼いころ、大水害で一か月に渡り水に閉じ込められましたが、
海抜がマイナス2メートルで有った事も有り、水が抜けるまで
二階の屋根から船に乗って食料や水を取りに行ったのを覚えています。

最初の一週間は、人間を始め様々な死体がいたるところに浮かんでいて
小舟でその間を進んで行った光景は、今でも脳裏に焼き付いています。
ようやく水が引けば、1mをこすヘドロが家の中に積もっていて、
それらを排出し、家具を外に出し、家を洗い終わるまで、2か月要しました。

今でこそ、様々な重機を使って迅速に復旧活動が行われるのですが、
当時は、自衛隊も殆ど手持ちのシャベルでの人海戦術でした。
雨がやんで晴れれば、泥に含まれた様々な有機物が腐敗し、その匂いは
常に、下水道に頭を突っ込んでいる様な苦しさです。
西日本で、今回の豪雨の被災者と成られた方々は、これから長きに渡り
苦しい生活が続いて行きます。

しばらくすれば、マスコミも取材する事無く、いつの間にかに忘れ去られ
人々の関心も無くなって行きますが、被災者たちは、これから長い間
心の中では一生の間その悪夢はついて回るのです。
この事は、近年多く起こる大災害も同じ状況で有り、ニュースに取り上げられず
人々から忘れられていったとしても、被災者たちはその時の苦しみを引きづり
心も身体も病んでしまう事も多いのです。

復興支援は、目に見えて復旧状態が感じられるのですが、被災者たちの心の中は
苦しい思い出が消える事無くいつまでもその時で時間が止まっている場合も有ります。
日本の支援活動は、世界的に見ても迅速で大規模である事が知られていますが、
ハード面に於いては目を見張る復旧活動が行われても、人の心に関するソフトな面で
大きく遅れているのが問題です。

被害者たちの心の傷は、外見とは違って一人一人違うものです。
失った過去の思い出も、家族や地域の人達との思いもそれぞれ違っているのです。
街が復旧して、被災地が近代的によみがえったとしても、そこに住む人達の心が
病み続けていていては、本当に復興したとは言えないのです。

東日本大震災を始めとして、様々な大災害の後、被災者たちが本当に心から癒され
前向きな気持ちに成ったかと言えば、そうとも言えない事が多く、地元の事を知らない
部外者たちによって作られた街は、災害で失った故郷を、更なる復興事業という
人災で失っていると言う事実を知らなければなりません。
近代的で、日本中どこにでもある街に作り替えられ、被災者たちが、残りの人生を
安らかに過ごす事が出来ないと言うのが現実なのです。

復興事業というのは、早急に行うライフラインの復活や生活基盤の確保は大切ですが、
その土地の過去と未来を繋ぐ、人々がその後不幸を忘れて未来へ向かえる様な
街づくりと心のケアを行わなければならないのです。
戦後、日本中で様々な大災害が起こっていますが、被災地は、目で見ただけで、
周辺の街とは違っているのが解ります。

その地の風景には不釣り合いな街づくりで有ったり、とりあえず、住めることだけを優先した
故郷の街が復興したと言うより、建築者と支援団体、国と言った、その地の事を何も知らない
部外者たちの勝手な思い込みで作られた街が広がっています。
もちろん、以前より立派な住居に住めるようになった被災者達も居ます。
しかしながら、便利に成ったとは言え、心から満足していない方々が多いのも事実です。

国や支援した側からすれば、助けてあげたのだから文句を言うな、と言いたげな上から目線で
自己満足の発言が多い事も、被災者たちの心を逆なでする原因と成っています。
確かに、苦しみから解放してあげたのだから、それで十分だと思う人も少なくないのですが、
人がその土地で生まれ生きて行くと言う事は、ただ、ライフラインを整え、立派な住居を
与えられたとしても、手放しでは喜べないのです。

喜び、満足とは、個人の心が自分の価値観で満たされた時得られるものであり、誰もが、
他人とは違った考えや生き方を選んでいる事からも解ります。
多くの考えの違った人達が集まり、地域における共通の利益の為に、お互いが何を成すかを
考え、周りの人の事を気にしながら作り上げたのが故郷なのです。
長い月日を掛け、その地に住む人々が育てて来た世界が故郷の街なのです。
自分がその地に生きる為、人間同士の関わり合いをもって豊かな生活を目指し、
周囲の環境に生かされる事で初めて安住の地としてきたのです。

そんな大切な故郷が破壊された悲しみは、部外者には到底解らない心の苦しみを生みます。
被災者たちがまず壊れた我が家に帰ってする事は、自分達の思い出とその地に住んだ証を
探す事です。家族それぞれに、生きて来た心の支えがあるのです。
泥の中から、他人にとってはどうでもいい様なものを必死で探す姿は、人間が何によって
生かされ生きて来たかが解ります。

この事は、誰もが、同じような被害を受けた時思う事で有り、自分の生活環境を取り戻す
と言う事以上に、自分の心の支えを取り戻す事が重要なのです。
つまり、心の支援がなくして、本当の復興事業はあり得ないのです。
様々な人道的な支援、福祉事業も同じであり、見た目の豊かさを与えたとしても、
人々の心は癒されず、ただ、援助されていると言う心の負い目が、表面的な喜びの弁をつくり
不自然な喜びの笑顔を作るのです。

被災者たちのその後と高齢者達の生き方はよく似ています。
経済的に生活できる様に支援する事は、高齢者事業と何だ変わりません。
日本各地に作られた高齢者の為の様々な設備によって、より便利で豊かな老後が約束されます。
しかし、被災者達も高齢者達も、経済的に生かされているだけで有って、人として寄り添う様な
ケアが有りません。立派な施設を利用できる様にすれば、高齢者は喜ぶと思っている福祉関係者は
とても多く、政府関係者も、予算を多く振り分け、多くの施設を作れば、高齢者達は喜ぶと
まるでペットに美味しい餌を与えておけばいい様な、人としての関わり合いが解らない、
頭の中だけの福祉を考えて居る人が少なくないのです。

どれだけの支援物資を送ったか、どれだけ人材を送ったかという数字的な比較によって、
支援活動を行ったと考える政府関係者も多く、単なる部下からの数字報告だけで、
自分達が成すべきことを決めている被災者の気持ちが全く解らない人も多い様です。
経済的社会的な力で地位を成した方々は、自分が思う様に何事も進めたがり
自分の頭の中の正解を一般の人達に当てはめがちです。

知識は一杯で有り、手段は沢山持っていても、常に、闇夜に鉄砲の状態の支援策は
部下たちや有識者に言われるがままの、外的支援でしか有りません。
被災地を数日後に視察しても、それは、政治家としてのパフォーマンスに過ぎず、
被災地に出向いたと言う自分のおごりにしかなりません。

災害が起ころうが起こるまいが、リーダー達は、常に国民の気持ちの耳を傾け
自分達の考えとは全く違う思いが有る事、更に、人々の思いは、次々に
変わって行く事から、常に生の情報を得なければなりません。
お決まりの復興計画をどの場面でも当てはめていては、同じ街並みは作れても
人々の心を復興させる事は不可能なのです。

今回の大水害の前に、大阪で大地震があり、水害の前に竜巻の襲われた街も有ります。
次々ニュースは新しいものを優先して行きます。
人々の関心は、新たなる事件や事故、災害に移って言っても、過去の災害を振り返り
被災者達を愁う事は有りません。
国や行政官庁、支援団体企業も、そのニュースのスピードに載せられて、自分達の
目論見と思い込みで活動をするだけで、物的支援が終われば、次へ簡単に移り、
取り残された被災者達への支援は終了したとします。

この、刹那的な、身勝手な支援活動が日本の現実と言えるのです。
今や、日本中、誰もが、大きな災害に見舞われかねません。
もし、自分が被災者となった時、現実の不幸から免れるだけでなく、傷ついた心が
どれだけ癒され、前に向いて生きて行けるかが一番大切で有り、この事に関しては
我が国は、いまだに発展途上国と言え、成すべき人たちの無能ぶりが目立つだけなのです。

 

 

 


被害者が増える社会

2018-07-09 14:45:00 | 日本人

私達は、幸せな人生を送る為に、便利で豊かな生活を目指して来たと言えますが、
近年、私達の生活環境は、誰しも、被害者と成り得る安心できない状態です。
かつて、日本は、夜道を子供や女性が一人歩きをしても、何の不安も無く、
財布や私物を落としても、確実に持ち主の元に帰って来る国でした。
しかしながら、いまや、人を見たら泥棒と思え、と言う諺の様に、
他人を信頼できない常識が生れています。
様々な悪質な犯罪が増え、日本人は、生活を、我が身を守る事を考える時代に
生きていると言えます。

この事は、かつて人が中心であった社会が、物や社会的経済的豊かさを基準とし
人間として個人としての価値が見失われて来た事を物語っています。
自分の欲望を叶える為には、他人の不幸は何とも思わない人が多くなっていて
豊かな生活を手に入れる為には、手段を選ばず、人を苦しめる事をいとわない
とする考えを持つ人も増えています。

加害者と成ったとしても被害者にはなりたくないとする考えが広がっていて、
目的を遂行するには、自分でなければ、犠牲が出ても構わないとするものです。
表向きは、博愛的な民主国家に見えて、実は、どろどろとした欲望の気持ちが
陰に潜んでいて、豊かに幸せに見せながら、実際は常に利益を目論む偽善者が多く
見た目での豊かさを求めて生きてきた人達は簡単に騙されたり被害を受けたり
してしまうのです。

問題は、何でも手に入り、社会の要求に応えられる人は良いのですが、
多くの人は、この経済社会に付いて行くだけでやっとの状態な事です。
例え、収入が増えたとしても、常に、散財するように作られた社会は
人々に満足と心の安住を与えません。
常に新たなる欲望を膨らませる事に依り、より多くの消費を促し
欲しいものを手に入れる為には、他人の事を構ている場合ではないのです。


経済的社会的な欲望を遂げる事が幸せへの道であるかのような社会は、
人々に小さい頃から競争意識を産み付け、他人の上に立つ事が幸せで
自分の思い通りになる人生を歩めると洗脳します。
子供達は、大人の思惑通りに成長した時、褒められ我儘を許される事を学び
他人との関わり合いは、自分の利益を得られるときしか考えられなくなります。

他人より多くの知識を持ち大人の望む成績を上げられれば社会的にも認められる
と考えるようになった時、子供達の世界にも、社会と同じ、差別社会が生れます。
ほんの一部の大人に認められる人間を目指して、子供通しは敵対します。
しかし、社会から歓迎される子供に成長すれば良いのですが、殆どの場合、
期待に応えられず、また、自分の未来が開かれない事を知った子供達は
その後、一生に渡って、格差社会の現実に苦しむ事となるのです。

子供の頃から自分の価値を認められないで育った時、多くの人々は、自分自身に
諦めと共に強い不満とプレッシャーを抱きます。
友達にいじめられたり、勉強に付いて行けなかったり、子供達の心の苦しみは
大人に成っても続きます。
しかし、子供の頃から教え込まれた、他人よりも豊かな生活をすれば幸せに成ると言う
考え方は、このプレッシャーを人に対する暴力や暴言、更には犯罪へと向かわせる
可能性を生む事になるのです。
どうにもならない現実から逃れる為に、安易に他人の物に手を出したり、嫌がらせをしたり
パワハラ、セクハラと様々な暴力行為に向かわせます。

今や、豊かな生活をすると言う事は、社会的に認められると言うだけでなく、社会的な暴力から
我が身だけでなく家族をも守らなければならない時代なのです。
学生時代に自分達が見下していた成績の良くない人達からの報復を受ける可能性があるのです。
人間としての成長を伴った社会的地位であるならいざ知らず、学校成績と同じく、経済的な
強さをもって社会的地位を成した人達は、必ずしも多くの人達から心から受け入れられている
とは言えないのです。

落ちこぼれ社会の中の選ばれた人間社会は、社会全体の標的と成る可能性は高く、差別社会は
時に、破壊的な行為によって壊滅される事も有り、日本社会における不平等さを感じる人達が
大きな力と成って、現代社会を変えてしまう事も考えられるのです。
集会に於ける規制を設け始めた現政府の行動は、明らかに、社会の不信感に対する圧力と言え
如何に、日本全体に不信不満が溜まっているかが伺わせます。

今や、学校教育は崩壊状態と言え、教師も生徒も、経済社会を継続発展させるための人材を
作るだけの、社会の予備校のメンバーに過ぎません。
子供達の人間的教育というより、経済社会を担うより優れた人材育成機関と成っているのが
問題と言えます。
年齢に応じた人間教育が疎かになり、建前としての道徳教育は、何の役にも立っていません。
人の心の成長は、単に、膨大なる知識を与え、良い成績を上げさせるだけの物では有りません。
子供の心と身体を健全に育てようとして教師に成った人も、直ぐに、成績だけを目的とした
現実の学校教育に取り込まれて行きます。
志を高く持った新人教師も、しばらくすれば、如何にトラブルなく定年を迎えられるか
と言った保身に入るのが普通でなのです。

日本社会は、全ての国民にとって素晴らしい国である言うのではなく、一部の選ばれた人が
自分達の欲望を満たせる社会と言えます。
現に、社会を作り上げる力を持った人達は、国民の数%の人達であり、彼らの生み出す資産は
国内総生産の8割にもなります。
ほんの一部の人達が、国民の生活をコントロールし、多くの人が負担を強いられる社会は、
独裁経済社会言ってもよく、日本人の殆どがいつまで経っても幸せに成れない
原因とも言えるのです。

経済的に豊かに成ると言う事が、決して幸せに成ると言う事ではなく、一部の人達の懐を
肥やしているに過ぎないと言う事実を知らなければなりません。
本当に日本人を幸せにするならば、日本人が生れた時から一生を通じた国やリーダー達の
個人を生かす支援が必要です。それこそが真の福祉国家であり、国民を育てる国と言えます。
現在の様な、豊かな人達をより豊かにする政策を続ける限り、日本人の殆どは、
いつまで経っても幸せに成れないのです。


人間が作る身勝手な環境

2018-07-07 13:41:27 | 日本人

日本各地で、集中豪雨による被害が出ているのに、東京は昼から
穏やかに晴れ渡っています。
ここ数日雨模様で有った事も有り、多少気温が下がった様で、
少し過ごしやすく感じます。
寒暖計を見れば、30度近くあり、決して涼しいとは言えないのですが、
人間の感覚のいい加減さと言うか、もし、この気温がお花見の頃であったら
とても外出する気分には成りません。


とは言え、ここ2週間程の我が家は、安住の地とは程遠い、騒然とした、
心休まらない状態でした。
トイレからの下水管が壊れていて、マンションの下に続くパイプ修理で
我が家の生活は一変しました。
限られた時間でしかトイレは使えず、仕方なく、近くの公共施設にまで
足を運んだり、工事の騒音を避ける為、早めに出勤したりと、家族全員が
ストレスに晒され続けました。

幸い、二日ほど前から、コンクリートの床を壊す工事も終わり、後はパイプを換え
周辺の細かい部分やトイレ近辺を直すだけと成りました。
しかしながら、下水工事と内装工事は業者が違うので、これからまだまだ先は長く
暑さと共に今年は気の休まらない夏になりそうです。

しかしながら、今進行中の集中豪雨は、私達の家庭のトラブル等、全く及びもしない
壊滅的なストレスを多くの方に与えています。
犠牲者と行方不明者の数が日に日に増して行く様で、日本の広範囲に渡り、甚大なる
被害が予想され、毎年の事ながら、私達に日本人は、この惨禍からは逃れられないのか
と思える程頻発しています。

集中豪雨に伴う大雨の恐ろしさは、大水害に在ったあの悪夢の様な日を思い出させます。
堤防が決壊し、濁流が押し寄せて来るのに気が付くのが5分遅かったら、我が家に
避難して来ていた近所に住む親せきと私達家族は、あっと言う間に全滅してしまったと思うと
何十年も経った今でも背筋が寒くなります。
当時、海抜が水面下2メートルほどの故郷は、決壊した堤防を修復し、水を抜くまでに
一か月以上、街が再建されるまで3年以上の月日が掛かりました。

多くの人が亡くなり、殆どの家が流されて街は一変してしまいました。
台風の被害としては、戦後最大と言われていますが、人々の心に与えた大きなストレスは、
街が破壊された以上に大きく、その後復旧した街の豹変ぶりと共に、何百年も続いた
街の風情も伝統もすべて失われ、残された人々は、巨大堤防で囲まれた異郷の地から
次々に去って行きました。
今では、高速道路が横切り、街には、都会から進出したコンビニが、夜遅くまで
煌々と蛍光灯の光を放っていますが、その周辺は、過疎化した街並みが、薄暗く
浮かび上がっているだけです。

田舎にはとても似つかわしくないコンビニは、全て都会の店と同じであり、中に入れば
まるで東京に帰ったかのような錯覚を覚えます。
あらゆる生活用品が売られ、ここに来れば何でも手に入れる事が出来る、いわゆる
コンビニエンスストアの力は絶大で、多くの町民だけでなく周辺の街からも、
買い物に来る人々で賑わっています。
しかしながら、一方で、城下町の街並みは、まるで櫛の歯が抜ける様に、一軒また一軒と
昔ながらの商店が消えて行きます。
そして、その空き地には、新興住宅地として移り住んだ県外の人や都会に働く人が
新たなる住居を構え、益々、故郷の匂いは消えて行く一方です。


とは言え、昔の故郷の風情を知っている人は、殆どが高齢者と成り、今の人達は
殆どが、今の新興住宅化した故郷を自分達の故郷としています。
そして、その多くが、より一層近代化され、都市の様な便利な街になる事を望んでいて
台風災害で破壊され、復興事業で別の街に変えられ、更に、今時の人達に、全く違う
街に帰られて行く事が、非常に残念でなりません。
しかし、これが、歴史の移り変りであり、当たり前の事なのかもしれません。
ただ、老兵去るのみ、と言った感じです。

今回、我が家の大修理の為に、初めて玄関に置かれていた金魚の水槽を寝室に
移しましたが、病気を患って瀕死の状態であったのに、急に元気に成って
泳ぎ回っているのに驚いています。
いま、長年飼っている丹頂と言う頭の赤い金魚が二匹いますが、そのどちらも
病気気味で、一匹は頭の赤い盛り上がりの部分が巨大化し、両目にかぶさって
ほぼ目が見えていません。更にもう一匹は、転覆病という病気を一年前に発症し
いつもひっくり返った状態で、殆ど水底に泳ぐことなく転がっています。

この二匹は、玄関の薄暗い場所で飼って来たのですが、観賞用なので、私達が
目覚めている時は、蛍光灯で明るく水槽を照らしています。
ライトを点けていない時は、玄関の薄暗い光の中で生活し、夜には、消灯して
いたのですが、ここ一年、まったく元気が有りません。
餌を与える時も、ゆっくりと動き始め、一時間程かけてようやく完食します。

所が、外の光が入って来る寝室に移した途端、急に元気になり、一日中
活発に動き回っています。
それまで、水底に常に横に成っていた一匹は、餌を与えると,必至に泳ぎながら
水面近くまで上がって来ます。目が見えない方は、餌の味が伝わってくると
水槽中を元気に泳ぎ回り、盛んに捕食します。
やはり、生き物は、太陽の光が大きく影響するのか、朝から夕方までの陽の光に
まるでカンフル剤を打たれている様な元気さです。


どんなに水質管理しても、玄関の陽の光の入らない場所で、人工の光で育てても
やはり太陽の力にはかなわないのかも知れません。
私達人間も、どんなに進化して、近代的な生活を行っていたとしても、大自然との
繋がりを失ってしまうと、心も身体も次第に病んでしまうのかもしれません。
地球の生き物の頂点にあるとはいえ、私達は自然から命を頂いて行かなければなりません。
しかし、その命は、更なる大きな命によって育まれている事を忘れてはならないのです。
人間の都合で作り変えられる地球は、生き物達にとって、もちろん、人類にとっても
決して好ましいものではないのです。

外見的に美しく選定された都会の公園は、私達が集うには都合がいい様に作られていますが
多くの生き物にとって非常に危険な地域と成っていて、頻繁に散布される殺虫剤は、生き物達が
その地で暮らす事を許さず、更に、多く植えられる植物は、虫が食わない、毒を持っているものや
動物が嫌う芳香を持っていたりと、様々な生き物を寄せ付けない様に成っています。
その為、美しい花が咲き乱れていても、その蜜に集まる昆虫を見る事無く、更には、季節季節に
産卵に集まる様々な昆虫類を見る事も有りません。

ウォーターフロントにそびえる高層マンションの下の海は、透明度こそ高く成っているものの
都会に於いては、殆ど生き物達の存在が確認できません。
波打ち際は、生き物の宝庫と言われる場所で有り、生態系の豊かさを示す場所でも有ります。
東京のお台場の海を見ても、そこに生きる海洋生物は、外来種が多く、例え透明度が高くとも
その中に生命反応は感じられません。
まるでプールの様な海を、人々は美しいと思っていること自体が、日本の未来を愁う事と成ります。

大都会周辺に作られる美しい自然の多くは、人間の都合で作られた、自然とは程遠い世界なのです。
私達日本人が生きて来た、見てくれさえ良ければ、経済的に豊かであれば良しとする姿が、
現代の大都市そのものと言えます。
人々は、そんな華やかな都会で生活する事こそ幸せと思うのですが、どんなに進歩して、近代的な
便利で豊かな生活をしても、私達は、生き物であることを忘れてはならないのです。

生きる為の手段は、見た目で有り本物に似せたとしても、人間自体が偽物に成ってはならないのです。
つまり、生き物として、食物連鎖の中の1つの生き物として、全ての生き物を生かすための努力を
怠ってはならないのです。自分達だけの利益を考え、地球の生態系を破壊していては、いずれ
人間自体の破滅に陥る事は明らかなのです。

食料や資源を摂り入れる事には夢中に成っても、食料を生み出す自然環境を豊かにすることを忘れては
自らの首を絞める事になるのです。
現在の異常気象、集中豪雨、地球温暖化と、様々な天変地異を生み出す多くの原因は、人間の身勝手な
地球環境破壊に在るのです。

年々酷くなる気象災害の原因が人間にある事は明らかであり、それを改めない事が人間自身を苦しめる
事態となっている事を多くの方が解っていません。
今や、地球温暖化を止める事すら難しくなっている段階なのにもかかわらず、多くの国や地域が、
地球の食料を乱獲し、大気を汚し続けています。
経済的に便利で豊かであると言う事は、どれだけ大きな責任を問われるか、一方的な考えの元での進歩は
いずれ、破滅への道をたどるしかないのです。

 

 

 


戻れない元の生活

2018-07-06 16:07:56 | 日本人

梅雨が明けて、今年は空梅雨で水不足が心配と思っていたのに、
ここ数日の日本列島は、記録的な豪雨で、各地に大きな被害が出ています。
観測史上まれに見る大雨が降っている地域も有り、東京の天気が嘘の様です。
雨雲の様子を見ると、静岡と神奈川の境の箱根峠あたりから関東にかけて
急激に雨量が減っていて、ニュースに見られる各地の豪雨が信じられない程です。
普段は、観光客が歩く姿が多く見られる京都鴨川周辺は、木の枝や瓦礫を撒き込んだ
濁流が音を成して流れ、いつも穏やかな観光地の代表的な場所が想像できません。


昨年酷い被害に見舞われた北九州の被災地は、復興もままならないのに、更なる被害が
心配され、正に日本は災害列島と言えます。
地震を始めとする大災害に国民は苦しめられるのですが、毎年の被害に対し、国は様々な
復興対策を講じているのですが、現実としては、被害に遭われた方々が、衣食住の復興は
何とかなっても、長く心の傷を引きずっているのが問題です。
人々の生活は、同じような生活形態を持っているとはいえ、そこに住む人々は、
誰もが個性を持った様々な生き方をしているのです。

唯一無二の心を満足させる為に、様々な生き方を選択し、社会生活を営んでいるのであって、
生き方に関しては、誰一人、同じ思いは無いと言っても良いのです。
特に、自分が生きて来たプライベートな部分に於いては、誰もが、繊細で傷つき易く、
例え、ハードな部分で復興したと言え、心の傷が癒される事はとても難しいのです。
何十年も生きていた土地の空気、風土、そして人々との触れ合いが創り出した自らの感性は
災害で破壊されてしまうと、簡単には埋められるものではなく、立ち直るには、本人自身が
新たなる生きる喜びを得る事と、苦しい過去を自分の人生の一部として認められる事です。

壊れた物は新たに作り直し、災害に強い街を作れば、それで復興したと考える政府や自治体は
被災地に住む人達の心を癒す事も元の心安らぐ気持ちにさせる事も出来ません。
問題が生じた時、予算を掛けて、経済的に解決すればそれでいいとする、日本社会の在り方は
被害に見舞われない時は良いのですが、一度被災すれば、誰もが言いようのない苦しみに
長く苛まれる事となるのです。
現代の日本社会は、豊かな人にはより豊かに成る様に、苦しい生活をしている人には、より
苦しむ方向に成るのが大きな問題と言えます。
外見的に豊かな先進国も、一度崩れると、人々の暮らしだけでなく心まで破壊してしまうのです。

日本人の多くが、日々の生活に追われ、自分の生活を維持して行く事で精一杯の状態です。
それは、貧乏だからというのではなく、現代社会の経済体制に付いて行くには、必要以上の
出費を強いられ、社会生活を営むだけで、経済的にも精神的にも苦しめられているのです。
プライベートを知られる事を恐れる現代日本人は、出来るだけ、周囲の人達から特異な目で
見られたり、自分だけ除け者にされる事を嫌います。
外見的には、常に良い人で有る様に取り繕い、周囲から浮いてしまわない様気を使います。
その為、誰もが同じような生活をしている様に見えて、実際は、極貧の生活をしていたり
常にトラブルの絶えない生活をしていたり、家人との諍いが絶えない場合も少なくないのです。

その為、事件が起こるたびに、周囲の方の感想は決まっていて、意外性のある言葉が並びます。
地域生活に於いては、出来るだけ本当の姿を見せないと言うのが日本人で有り、よほどの事が
発生しない限り、たとえ隣近所で有っても、一体何をしているのか解らないのが実情です。
現代社会は、都会に於いても、地方に於いても、多くの人達が密集して生活しているとは言え
現実は、誰もが孤独で有り、常に、心が癒されない事に不満を持っていると言えるのです。

しかし、豊かな生活している人も多く、何不自由ない生活をしていれば、毎日が楽しくて
そんな思いは無いと思われますが、残念ながら、生活レベルに関係なく、今の日本人は、
多くが心の奥底を隠し、理解されず苦しんでいるのが実態と言えるのです。
何故なら、その心を癒し満足させてくれるのは、豊かな経済性ではないのですから。
どんなに華やかで豊かな生活をして、周囲の人達から羨ましがられても、その生活以上に
心が豊かでなければ、自分の生活が豊かであるがゆえ、孤独も大きくなるのです。

例え家族であっても、心の内を打ち明けれれない人は多く、ただ、同じ屋根の下で
共同生活をしているに過ぎない家庭は珍しくありません。
そんな癒されない心を満足させるには、社会も本人も、より豊かな経済性と考えるのが
現代日本人の不幸を生み出していると言えるのです。
経済的豊かさを幸せの尺度と考える日本人が増えるにつれ、心の闇が広がる人が増え
経済性の差に対する不満が社会への報復と成り、数々の事件が増えているのです。

自虐的になる人、自閉的に成って社会に背を向ける人もいるのですが、経済性の差を
豊かな人達からのイジメ、差別と考える人もいて、毎年、凶悪な犯罪や惨たらしい
人々が目をそむけたくなる事件も増えているのです。
その様な社会を敵に回す様な人間を圧力をもって封じ込めようとする対策の多くが
全く功を成していないのは、現代社会が、その様な危険な人達を生み出している温床と
なっているからと言えるのです。

問題は、多くの人が、生活に余裕がなく、心癒される生き方をしていない為、
何かのアクシデントや事件によって生活が破たんすると、簡単に、心の闇に囚われ
自暴自棄に成ったり、社会を敵に回す犯罪に手を染めてしまうのです。
今の日本社会は、誰もが凶悪犯に成る可能性があり、誰もが生活破綻する可能性が
あるのです。

自分の幸せを基準に出来ない社会生活は、外見的には豊かに見えて、心の中は
ますます寂しく苛まれて行くのです。
マスコミやメディアは、様々な情報を通じて、日本人の幸せを提供します。
より豊かな消費を行い、経済的に豊かな生活をすれば幸せに成ると、
成功者や芸能人を前面に出してアピールします。

多くの人々は、彼らの華やかな生活を理想とし、自分もそうありたいと、
提供される多くの商品を手に入れ、少しでも幸せに近づくと心に強く信じます。
しかし、メディアが示す、華やかな生活を手に入れられる人は、ほとんど居ません。
多くの人が、時間と費用を使いながらも、心の満足は得られません。

しかし、自分の心を基準にしない生活は、常に流行や社会の流れに左右され、
ひと時も、満足する事無く、常に、欲求不満の状態と成ってしまうのです。
この悪循環が、日本人の多くに、慢性的な心の不安を作り上げる原因となって
常に、新たなる魅力的な商品を求め続ける事にしか興味を示さない、完全に
提供者達に奉仕する生活を強いられる事となるのです。

日常生活の全てを社会の流れに従わせるには、常に経済的な出費を多く求められ
その止まる事を知らない消費形態は、日本人の家庭に溢れる消耗品の数々を見れば
如何に、情報に踊らされ消費し続けて来たかが解ります。
しかも、その多くは、一生を通じて使われるという物は殆ど無く、常に買い足しながら
ゴミとして捨てながら、新製品を買い求めると言う、無限の消費形態を作り出し、
決して満足することない生活を生んでいるのです。

とは言え、新たなる品物を手に入れる事は決して悪い事ではなく、生活を、豊かに便利に
すると言う事では、生きて行く上で大切な事でも有るのです。
問題は、その求めた物が、便利さや経済性としては役に立っても、自分の本心を満足
させる物には程遠い物が多い事です。

シッカリと熟考して、自分にとって本当に必要な物か、自分の将来にプラスとなるのかと
考える間もなく、映像に移される芸能人の笑顔や効用を謡うタレントの言い成りに成って
何の考えも無く言われるがままに手にしている場合が多い事です。
と言うより、疑う知識も考えも持たない様に育って来た事が問題なのかもしれません。

多くの日本人は、大人に成る為の知識や考えを持つ為に、小さい頃から勉強して来たと
思うのですが、そのからくりは、日本の社会に合う人材育成のシステムに則て育てられ
大人たちの都合の良い子供であることを目標とされて来ました。
つまり、日本経済社会を担って行けるような人材育成が日本の教育で有り、個人的な
心や、人間としての社会性を育てる教育は二の次と成っている環境で育った結果
経済社会をリードする人達の言葉を簡単に受け入れてしまう様に成ったのです。

確かに、経済社会国家に生きている限り、経済的に豊かに成る事が、自分の欲望を
果たす事が出来ると言えるのですが、その事で、自分自身の人間としての価値を
作り上げるのでは無いと言う事実を忘れている方が多いのです。
社会的に地位が有るから立派な人であると思うのは、残念ながら、経済社会に飼いならされた
忠犬とも言え、大人にとって都合の良い子供と同じく、富裕層にとっては便利な消費人と
言えるのです。

もちろん、経済的な差は、どんな社会で有るのですが、其々の生活に於いて、自分自身に
自信を持ち、自分の生き甲斐と心の幸せを持っている事が大切と言えます。
どんなに経済的に苦しくとも、人生を謳歌して、心豊かに生活している人もいます。
社会というのは、其々の生き方に応じて、心豊かな幸せな生活が出来る事が大切なのです。

経済的に豊かな人を見て、比較を持って自分の生き方を考える様では、どんなに経済的に
豊かな生活をしても、更なる比較する人が現れれば、自分の生き方は不満となるのです。
如何なる地位、生活レベルに在っても、本人の心が癒され幸せでなければ、身に付けた
社会的な力も、無駄であると言えるのです。

毎年起こる大災害に見舞われた人達も、外見的な復興だけでは、本当に心も身体も癒されず
一番大切な事は、そこに生きる人達の心を満たしていたものを復興させる事です。
外見的に美しい街を再建したとしても、人々の気持ちは、いつまで経っても癒されないのです。
近年、日本は、地震を始め多くの大災害に見舞われていますが、国で在り豊かな人達の支援は
常に、自分達の生活を基準としたものと言えます。

被災した人々の生活は、その土地で長きに渡って育てられて来たものです。
どんなに古くみすぼらしくとも、豊かな生活を行う都心の人達の思う価値観とは違うのです。
より立派な街を作ったから、前よりも便利な街にしたから、さぞ満足だろうと思うのは
勝手な思い込みで被災地を再建した政府や業者の思い込みに過ぎません。

数万人の死者を出した東日本大震災の後、作られた新たなる街に、心から満足している
被災者たちは一人もいないと言えるのです。
国が多くの支援者が作ってくれたのだから、文句は言えないとして、喜びの表情を作っている
地元の高齢者達の笑顔がもどかしいです。

困っている人を助けると言うのは、人間として当然であり、その行為は美しいと言えます。
しかし、助ける側の勝手な思い込みからの施しや手助けは、かえって、弱者を苦しめます。
世界に名だたる高度経済社会となったとは言え、日本社会における、日本人としての心の在り方は
その発展とは裏腹に、萎え委縮していると言えます。
日本人の豊かな感性が、人として魅力的な生活を行える為には、国家規模で、日本人としての
生き方を考え直す事が重要と考えられます。

 

 

 

 

 

 


日本人の心は満たせない

2018-07-03 18:34:07 | 日本人

いつの頃から、日本人は、自信を失い、ただ、他人の事が気に成り、
物事の価値観が他人との比較と成ってしまったのでしょう。
高度成長期、三種の神器と言われる電化製品を競って手に入れた時、
隣の芝生の青が気に成り、隣の車が気に成った頃からでしょうか。
確かに世界に秀でる高度成長を遂げたのですが、日本人の価値観が
自分の持っていない他人の高価なものに成り、社会的に高い地位で有り
有り余る財産の保持と成った事で、個人個人は、ただ、生まれて死ぬまで
消費経済を支えるだけの、物に支配された魂の抜け殻の様です。

バブルで浮かれていた頃ならまだしも、現代は、先進国の豊かな生活とは言え
現実は、日々の生活に苦しむ人が多いのが事実です。
世の中の変動は、私達国民が望む様に行かないのは致し方ないにせよ、
好景気に成ろうが不景気に成ろうが、日本人の心が豊かで幸せと成らないのは
やはり、消費経済に踊らされ、自分の本当に求める生き方が解らなくなっている
としか思えません。

お金さえあれば幸せに成れる、欲しいものが手に入りさえすれば幸せに成ると
考えて居る日本人が実に多く、これでは、高度成長期の日本人と同じであり
物が与えられればそれで満足する、自分が本当に求める物が何なのか、いつまで
経っても解らない人が多いです。

その為、どれだけ欲しいものを手に入れても、有り余る財産を得ても、一向に
落ち着かない満足できない欲求不満だらけの豊かな人が増えているのです。
世界中を旅し、憧れの品物を手に入れ、高級料理に舌鼓を売ったとしても、
憧れの物を手にし食べたと言う達成感はあっても、その事で、深い満足を得る
と言う訳ではなく、さらにもっと有名な珍しい高価な物はないかと、一年中
物色している様な人生を送る人も少なくありません。

こうなると、いつまで経っても、自分の望む者は手に入れられません。
物欲ばかりが先走り、自分も周囲も見えなくなってしまいます。
しかし、手に入れる事が目的なのですから、手に入ればもう興味は無く、
更なる価値を求める人生が続きます。

有り余る資産、地位、名誉、そして世界中から集めた高級品の数々、
自分を取り巻く魅力は、多くの人達にとっては驚くばかりの物です。
所が、そんな人が羨む物が増えれば増える程、人々はその所有者に関心は無く
単に高級品の管理者ぐらいにしか思えません。
つまり、多くの人が価値を感じるものを持っていても、自分に価値を感じてくれる人は
次第に消えて行ってしまうのです。

他人から崇められ羨ましがられる人生を送る事を望んでいたのに、自分自身への価値観は
誰も感じる事無く、身に付けた社会的地位や財産に注目される時、自分の人生が、
求める社会的財産や多く手にいれた高価な品々の奴隷で有った事が解った時、
その寂しさと悲しさは計り知れないと言えるのです。

しかしながら、殆どの日本人は、多かれ少なかれ、この様な消費経済国家に仕組まれた
カラクリの中で生きているのです。
子供のか頃から植え付けられた社会への目的と価値観は、一生、消費経済国家に忠義を尽くし
物欲に委ねた人生を送る事を強いる事となるのです。

私たち日本人は、豊かに成ったとは言え、本当の自分を見失ってしまった人生を送りがちです。
自分の生きる目的も夢も、消費国家に大きく貢献する為の物であり、決して自分の為ではなく
教育でメディアで洗脳された価値観は、何のためらいもなく、高価な消費物質を求め
人々に、その価値観を示す広告塔の役割を果たすのです。

人にとって大切な絆は、家族の間でも友人仲間に於いても、社会的な価値で示すものではなく
お互いの信頼関係と深い思いやりに基づくものです。
その価値観は、一人一人の心に有り、一生を通じて豊かで幸せな人生を約束します。

この人と人との関わり合いは、世の中の変動で変わるものでは有りません。
つまり、普遍の価値観である事から、人々の心に幸せと潤いを感じさせるのです。
常に変動する価値観、社会的な価値観は、その事で多くの利益を目論む人達の儲ける為の
手段と言えます。常に、消費に興味を抱かせ、より多くの商品を消費させる事に依って
経済社会が成り立っていると言えるのです。

経済的に豊かに成ると言う事は、生活が便利で豊かに成り、多くの欲望を達成できると言えます。
しかし、常に変動する価値観は、人間の心を落ち着かせ平穏にするものではなく、常に
不安を抱かせより大きな消費を促す事と成ります。
この事は、この人々の不安によって巨大なマーケットを維持し、より膨大なる利益を得るとする
個人的な欲望達成に過ぎません。

便利で豊かな生活を獲得しても、本当に幸せを噛みしめる事が出来ない理由がここに有りませす。
家族にも友の間にも、お互いの価値観が社会的な物で有った時、本当に自分に思いを抱く人が
身の回りにいない事を実感し、大きな挫折を感じるのです。
多くの日本国民が、目先の欲望を達成し、新たなる魅力の罠に落ちているのです。

日本人は、というより、日本の自然、そしてそこに生きる人々が太古の昔から求めていたのは
誰もが美しい大自然に涙し尊厳を感じる事に幸せを感じた事でした。
地球の営みの様な雄大さと人として生きると言う喜びを感じて来たのです。
それは、人間が創り出す目先の欲望ではとても叶えられないほど雄大で心豊かなものなのです。

戦後、そんな日本の宝を失い絆を失った事に依って日本人は不幸と成ってしまったのです。
バブルで社会経済が沸騰しても、不景気で冷え切っても、日本人の心は欲求不満なのです。
暗褐色に濁った都会の前の海に、豊かな自然は有りません。
その奥にそそり立つまるで巨大な墓石の様な大都会のビル群では、到底人々の心は癒せず
欲望の為に生み出した消費経済の為の商品では、誰の心も満たされないのです。

作られた自然、欲望の為に生まれた大都会、如何に豊かであったとしても、日本人の心を
本当に癒せるものではないのです。
日本人は、いつまで、この偽物で満足させられて行くのでしょう。
日本人の心を本当に幸せにさせる事が出来る物は、人々の心の奥底に隠れた大自然との
心からの触れ合いであり、日本人同士の心の繋がりである事は言うまでも有りません