めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

流行と言う名の経済トラップ

2018-07-18 14:39:58 | 流行

ここ一週間、日本列島は真夏にストーブを焚いている様な酷暑です。
家の中も、仕事場も、はたまた、公共機関もすべて、クーラーが
フル稼働していると言うのに、それでも、涼しさが感じられません。
道を歩けば、照り返しの暑さも有って、まるで熱く焼けた鉄板の上に
立たされている様で、熱気で身体の水分が搾り取られて行く様です。

それにしてもこの暑さは、長い人生の中でも、殆ど体験が無く
夏の暑さとは言え、かつての日本の夏とは全く質が違っています。
夏と冬が両極端に温度差が広がり、その間の季節の移り変わりが
殆ど感じられません。
我が国の気象の特徴である、春夏秋冬の美しい季節の移り変わりは
最早遠い昔の物語に過ぎません。
ゆっくりと移り変わる季節の色や音に、日本人は繊細な心を育て
自分の人生の移り変りの様に、大自然の変化を楽しんで来ました。

しかしながら、最近の季節もお天気も、私たち日本人が馴染んできた
生き物に対する優しさが全く感じられず、とても、地球に住む
膨大なる生き物たちを育てる環境とは言えません。
異常気象、地球温暖化とその変貌する自然の脅威に驚きますが、
原因は、明らかに私達人類である事は言うまでも有りません。

このままでは、近い将来、地球上の多くの生き物と共に
人類も生きてはいけないと思われているにも関わらず
いまだ、人類は反省する事無く、更なる危機を高める
経済活動を推し進めています。
この傾向は、日本を含め、先進国家と言われる国々が
地球資源の多くを消費し続けている事に起因しています。
生活を豊かに便利にする為、消費経済を推進して来た事で
地球環境は益々生き物達にとって劣悪の状態と成り、
我々食物連鎖の頂点に立つ人類ですら、例外とは言えず
自らの所業によって、未来を断たれる可能性が高いのです。


しかし、何故、私達は、この蛮行を止められないのでしょう。
例え太古の昔から行われて来た人類の生きたとは言え、
現代社会に於いて、既に、人類が地球から得られる富は
限界を超えているのです。
人口増加に伴う需要の増加とは言え、地球資源や食料を
枯渇させかねない消費は、明らかに、恐ろしい未来を
予想させます。

この独占的消費活動は、人類の衣食住の基盤とは言え
そのことで、地球環境を変えてしまっては、元も子も有りません。
目先の欲望を叶える為に、次々に膨大な量の地球資源を
消費し続ける人類の生き方は、既に限界と言って良いのです。

しかし、本当に、人類は、それ程にも膨大なる地球資源を
消費しなければ生きていけないのでしょうか。
アフリカの飢餓地帯の様に、食料不足が日常化している国も有れば
日本の様に、毎日、膨大なる量の食料を棄てている先進国も有ります。
本当に食べ物に困ったいる国がある一方、溢れる食料の中で
我儘な選択の元、多くの貴重な食料を棄てている国も多いのです。

この事は、明らかに、資源食料が人類の目的であると言うのでなく、
資源や食料を利用してビジネスを行う人達の所業と言えるのです。
より多くの利益を得る為に、大量の食料や資源は、消費活動の高い
経済大国に集め、人々のためにというより、ビジネスとして、
食料や資源を利用していると言えるのです。
人間が生き物として食べる事を目的としているだけならば、
世界中の人々に分けられるのが当然と言えるのですが、
利益を考えた時、消費マーケットが大きい程良いと言えるのです。

つまり、例え大量に食料が廃棄されても、そこに、巨大ビジネスが
成立すれば良しとする社会があるのです。
日本で年間捨てられる食品の量は、岩手県民が一年間に食べる
食品量に値し、飢餓に苦しむアフリカの国を救う事が出来る程です。
それ程にも無駄に食料を棄てているのに、どうして、私たち日本人は
それに不信感を抱かないのでしょう。
飢餓で苦しむ国が有るのに、自分達は、有り余る食料を棄てる事に
何の後ろめたさも感じないのでしょう。

それは、やはり、日本社会が、消費経済国家であるからです。
私達は、あらゆる必要物資を消費する事を目的として生きる民族で有り
常に新しいものを求め、消費し続ける事を教育され求められて来たから
と言えるのです。

次々に新しい製品を購入し、古いものを棄てさせる事を生活の一環として
毎日生きているからです。
情報は、常に、消費する事、新たなる物を求める事を良しとする
コマーシャルで溢れ、人々の生活目的までも、流行と言う名の元
常に洗脳されているのが実情です。

人々は、新たに得られた情報の元、日々の食料を買い求め、
衣食住に於ける必要なものを提案されます。
多くの人々は、自分の意思で日々の行動を行い、欲しい物を買い求めていると
思っているのですが、消費経済社会に於いては、その殆どが、何だかの
情報が前もって与えられているのです。

最新流行のファッションと言えど、何年も前から、衣料業界で決められていて
よりビジネスとして成功する為に、仕組まれている事は言うまでも有りません。
メディアの中でも、視聴者に画面を通して呼び掛けられるテレビからの情報は
視聴者の求める著名人や有名医療関係者などを使って効用を謳えば、
その商品は、翌日には、日本中から消えてしまう程です。

つまり、私達の生活は、常に、消費経済を牽引している人達によって作られ
思い通りに動かされていると言っても良いのです。
その為、多くの人が、言われるがままに同じ商品に群がる事は当たり前であり、
その事を目論んだ方々に依る膨大なる商品や食料は、例え大量に余っても
利益が上がれば、平気で捨てられるのが当たり前なのです。

また、消費者も、目的の物が新たに現れれば、それまで求めていた物は、一機に
不用品と成り、消費敬国家は、必要以上の大量な食料資源のロスを生むのです。
確かに、常に最新のものを手に入れ、流行の品物を手に入れ、贅沢な生活を行えば
多くの方が幸せに感じるのかも知れませんが、その生活は、誰かによって
仕組まれている事実を知っていなければなりません。

本当に自分にとって必要でないものまでも買い求める様に作られた社会は、
消費経済国家として進歩するのかもしれませんが、求める消費者は、一向に
本当に自分の求める物が何なのかが解らず、ただ、与えられるままに買い求める
良いカモとも言えるのです。

人の生き方と言うのは、その人の生活環境を見ると解ると言います。
自分の身の回りを見渡して、本当に、自分が必要として買い求めた物なのか
単に便利だとか誰もが持っているものだからと言う物は、殆どが、買わされた
と言っても良いのです。
今流行の断捨離は、生活にとって本当に必要でない物を棄てる事に依って、
もう一度自分の生き方を見直し、新たなる一歩に進めると言いますが、
この事は、如何に、私たち日本人は、必要でない物に囲まれて生活しているか
と言う事が解ります。

かつて、日本人は、物をとても大切にしました。もちろん、現代の様に
便利な生活物資に囲まれていない事も有りますが、道具を大切に扱い
それを次代に伝えて生きていました。
この事は、物に対する考え方と言うだけでなく、他人に対しても、深く考え
対人的に豊かな生活を求めていました。

しかし、現代社会の生活は、簡単に物を捨てる様に、対人的にも希薄になって
ただ、物欲と同じように、他人に対しても、自分の欲求ばかり先走る、いわゆる
ハラスメントを起こしやすい人が増えています。
欲しい物は、お金を出せば何でも手に入ると言う事から、人間関係もお金が基準
と成って、様々なトラブルや事件が多くなっています。

しかしながら、お金で物は買えても、人の心は買えません。
どんなに豊かな生活をしても、その豊かさを手に入れた人よりも、その外見に
人々の目が行く様では、本当に幸せを手に入れたとは言えません。
社会的経済的な豊かさに優る人間的な魅力がなくして、その手にしたものの価値は
評価されず、地位や財産と言った社会的な価値を失えば、周りの多くの人々は
あっという間に、いなくなってしまうのが世の常と言えます。

多くの人が群がるのは、経済的価値が有って集まっているのであって、人間としての
価値を感じて集まっていない場合が実に多いのです。
日本を動かしている人の中でも、その地位や財産や社会的知名度を失ったら、
何の魅力も感じられない人が多い事が残念です。

特に、国民を代表するような人で、自分の欲望には目がなくて、一度、メッキが剥がれると
途端に保身に走る人達は、そのつまらない人間の代表とも言えるのです。
しかし、彼らとて、日本経済社会が作った落とし子と言え、自分達の行っている事が
如何に情けない事かが解らないのが不幸と言えます。

現代日本人が、お金しか信じられなくなって来ているのは、お金がなければ、生活が
成り立たない社会を作り上げた事が問題なのです。
経済社会を成り立たせるためのお金は便利ですが、お金を求める事と自分の人生を
生み出す事とは別なのです。

一生、安全に安心して生きる事が出来る社会が有ってこそ、経済的に豊かに成る意味があり
一部の人達だけが恩恵に預かる社会は、殆どの国民を不幸にしてしまいます。
国民に消費を求めるならば、消費できる余裕ある生活を作る事がリーダー達の役割です。
人々が生きて行く上で必要な生活のベースが有ってこそ、本当に豊かな生活が出来るのです。

生きる事、消費する事にあくせくしなければならない社会は、国民の心を荒げます。
一部の豊かな人達をより豊かにする経済社会は、国民が彼らの奴隷と成ってしまいます。
様々な情報で、豊かな生活をしているかのような錯覚を起こさせて消費を促すようでは
国のリーダーとして、社会のリーダーとしては相応しく無く、やはり、自分の事しか
考えられない、保身と想定外で人々を煙に巻く無能者たちと同じと言えるのです。

 

 

 

 

 

 




修正不能の未来に向かって

2018-07-16 14:21:55 | 日本人

世界の平和のバランスが、極めて危うい状態で保たれている様に
私達の生活も、毎日、何事もないように思えて、実は、非常に微妙な
バランスで保たれていると言えます。
誰もが、安定して安全な生活を望むものですが、その何事もなく進んで行く
様に見えて、次なるアクシデントは着実に近づいていて、その事に気づかず
いつまでも今の状態が続いて行くように思いがちです。

しかし、その時は、突然にやって来ます。
歴史が語るように、全ての出来事は、予想をはるかに超えて突然起こるもので、
私達人間が予測予想が出来る範囲を遥かに超えています。
その為、日頃から、もしもの時に備えて、様々な準備を怠らない様にするのですが、
多くの場合、想像を超えた現実に翻弄されるのが実情と言えます。

人類は、数百万年を掛けて、素晴らしい英知の元、現代の輝かしい文明を築き上げ
地球の生き物達の頂点と成って繁栄しているのですが、優秀な知能によって、自分達に
安全安心を手に入れたものの、生き物としての本質は全く変わっていなくて、
一度、その安全安心の衣を取り去られると、極めて脆弱で、地球の生き物の中でも
環境変化に最も適応できない生き物に成ってしまいます。

生活を便利に豊かにした反面、生き物としての本質的生命力は乏しく、アクシデントに
見舞われなくても、ただ、普通の地球環境に、身ぐるみを剥がされて放り出されれば、
たちどころに身の危険を感じざるを得ないのです。
衣類だけでなく、あらゆる社会的保護を失えば、哺乳類の中でも、最も無能の代表とも言え
如何に、私達は、様々なアクシデントに対して軟弱な心と身体の持ち主であるかが解ります。

生命を維持する方法を、自らの力ではなく、常に人間が創り出した人工的な環境に委ねる事で
ひとたびその保護を失うと、余りにも無力で、生きる事さえ難しい生き物と言えるのです。
人類が創り上げた英知の塊とも言える近代文明は、私達の生活を長足の元に進化させ、
便利で豊かな生活を実現した一方、その与えられた環境を失うと、全く生きて行く事すら
難しくなってしまう程、環境に適応できないのです。

特に、大自然が創り出す脅威である天変地異は、現代社会に於いても手の施しようがなく、
一度見舞われると、生活の全てを失い、多くの命を奪われ、それまでの生活を一変してしまう程
私達人類は、無力な存在である事を知らされます。
一番進化していると思われる人類が、最も大きなダメージを受けると言う事は、人間の進化は
所詮、外見的な見た目の進化であり、人間自体は、太古の昔とほとんど変わっていないと言えるのです。

増して、現代における人類は、より豊かな生活を求めながら、多くの病を生み出し、科学の力や
医療の力で、辛うじて対応しているものの、現実では、多くの人々が、一生を通じて、様々な
病で苦しむ事と成っているのです。
今や、人々は、健康である事が夢であるかのように、様々なアクシデントに見舞われる事と成って
如何に、そのリスクを回避するかが、一生の課題とも言えるのです。
便利で豊かな生活をしている様で、実際は、常に苦しみに耐えているとも言え、たとえ経済的に
安定した日常を過ごしているとはいえ、現実に於いても、未来に於いても不安が尽きないのです。

しかし、近代的で経済的豊かな生活をしている様で、人々の心は常に不安定で有り、生活に仕事に
健康にと常に不安が付いて回っている事で、本当に人々は幸せなのでしょうか。
太古の昔、自分達を取り巻く様々な危険な動物から身を守り、生きる術を作り上げて来たのですが、
いまだに、常に心安らぐことなく、人々の心から不安が無くならないのは、これまでの文明が、
本当に人類を平和に導いていたわけではなく、多くの場合、かえって不幸をよぶ結果ともなって
現代においては、より豊かで健康になる為の化石燃料の使用が、人類のみならず、地球の生き物
全てを絶滅に追いやるかもしれない事態となっているのです。

より豊かな生活をしたのに、実際は、地球全体の生き物に大きな危機を招く事と成っているのです。
地球温暖化は、人類が自分達の身勝手な考えで創り出した人災で有り、今や、世界中で頻発する
異常気象は、人々に未来への不安をより一層高める結果と成っています。
もちろん、日本で起こる数々の異常気象を伴った大災害は、明らかに人災で有り、人類の野望が
自らの首を絞めている結果と言えるのです。

とは言え、この問題の多くは、全人類が生み出したことではなく、一部の人達の豊かさへの野望が
大衆を巻き込んでの不幸へと繋がっているのです。
経済的に豊かに成るが為の手段が、利益を求めるあまり、人類だけでなく、地球の生き物全てに
深刻な問題を与え続けているのです。
世界のほんの一部の人達が、世界経済を牛耳っていて、地球温暖化問題も、食料資源問題も、
元を正せば、欲望にかられた人々が創り出した身勝手な考え方から始まっていて、世界中で
頻発するテロや戦争も彼らの身勝手な考えが起こした悲劇と言えます。

本来、地球の大自然がもたらす様々な災害以上に、人類がもたらした災害は、地球の生き物達の
食物連鎖を破壊し、地球温暖化は、生き物全てを絶滅させる程危険な状況となっています。
生き物が絶滅すると言う事は、当然、人類の絶滅も例外ではなく、他の生き物からの命の糧により
生きながらえて来た人類は、他の生き物が生きて行けなければ、当然、同じ運命を辿る事と成ります。
これまで、地球が誕生してから幾度となく、大絶滅が繰り返されて来たのですが、今度の絶滅は
自然現象ではなく、明らかに人類がもたらしたものと言えるのです。

過去100年程に失われた多くの種は、現在に於いても異常なスピードで絶滅に向かっていると
言われています。
過去の大絶滅の時に種が失われるスピードよりも遥かに速く多くの生き物が死に絶えていて、
既に大絶滅が始まっているとする学者もいます。
今や、人類は地球上の生き物の頂点に君臨し、栄華を極めたとも言えるのですが、その一方
確実に、絶滅への坂道を転がり始めているとも言えるのです。

地球温暖化も、核汚染も、もはや人類の力では止められない程危険な方向に進んでいます。
今のままでは、近い将来、確実に、人類のみならず、世界中の生き物達の絶滅が予想されます。
しかしながら、世界中の殆どの人々は、自分達の生活や周囲の環境から、それ程危機的な事態が
進行しているとは夢にも思っていません。
今日の自分達の生活は、確実に明日へつながって行くと確信しています。
例え、その様な危険な予兆があると言っても、自分に惨禍が降りかかるとは思ってもみないのです。

今回、集中豪雨で多くの被害を被った人達は、ほんの少し前、大阪で大きな地震があった時、
頻発する地震被害に驚くものの、自分達がしばらくすれば、更なる被害を被るとは夢にも
思っていなかったはずです。
私の親友は、かつて、東日本大震災が有った時、熊本は殆ど地震は無く、地殻のエネルギーが
阿蘇山で放出されているから、とても安全で住みやすい土地だと自慢していました。
しかし、次に会った時、彼のマンションは傾き、住む事が出来なくなったと嘆きました。

そう、日本は、いつ何時も、国民の誰しもが被災者となる可能性が高いのです。
この事は、今や、世界的な規模で起こっている事実であり、地球温暖化がもたらす影響は
近い将来、全人類を、被災者とするかも知れないのです。
私達人類は、最早、安心安全を期待できる時代にはいないのです。
辛うじて保たれている軍事バランスが、いつ崩れ、世界大戦となるかもしれず、
異常気象が、人類が想像もしない大惨事をもたらす事となるかもしれないのです。

それ程にも、大きな影響を与える地球環境に晒されているのが、私達人類の現状なのです。
どうしようもないとも思われるこの時代で、生きて行く為には、何とかして生き甲斐を見つけ
安心安全を見出して行かなければならないのです。
その気持ちを持つ為に最も大切なもの、それは、自分の周囲の家族や友との心の中の
深い思いやりと強い絆と言えます。

どんなに環境が厳しく成ろうとも、自分と同じ思いを抱く人が周りにいると言うだけで、
人は、あらゆる環境で生きて行けるものです。
文明を築き上げたのも、経済的豊かな生活を求めたのも、本当の目的は、心の中の安心安全
そして、生きる喜びを感じる為であったのです。
例え、既に、施しようもない程地球環境は悪化していると言っても、人々の心の中は
変わるものでは有りません。より豊かな人間関係をもって、この劣悪な環境を生き抜く事が
重要で有ると考えられます。
現代社会に於いても、次第に薄れている人間関係を、より絆を強くする事に依って、
新たなるアクシデントに備える事が一番大切と思われます。

 

 

 



 


我儘与党に、無能野党に、国民はガッカリ!

2018-07-14 13:51:50 | 日本人

西日本各地が、記録的な集中豪雨に見舞われていた時、
自民党議員の多くが酒盛りをしていて、しかもその姿をSNSに
アップしたとして、多くの批判に晒されています。
彼らにしてみれば、それ程の大災害になるとは、その時思っては
いなかったとし、自由民主党の名の如く、議員が集まり自由に
親交し合っていたと、何のためらいもなく発言していますが、
正に、彼らの主張は、間違いとは言えず、これまでの自民党の
災害に対する考え方からすれば、ごく当たり前の、何の不備も無い
党の方針に従ったと言えるのです。

しかし、彼らの常識は、社会の非常識である事を、いい加減学習しないと
ますます、無能ぶりを世間に示す事となり、彼らの行為を批判する以前に
そういった団体なのだと、世間は位置付けてしまうのです。
昨年から今年にかけて、党中枢部の発言行動に多くの批判が集まり、
党首だけでなくその周辺も、言い訳に汗を流したはずなのに、
のど元過ぎれば、この体たらくでは、情けないと言うより、そんな彼らに
日本の将来を託す国民として恥ずかしくなりました。

様々な惨事に対応すべき救急隊員や消防署員、警察、自衛隊関係者は
常に、もしもの事態に備えて、24時間対応すべく頑張っています。
しかし、その彼らを総括するリーダー達は、非常事態に成る可能性が
高いと言われながらも、自分達の欲望には勝てず、その破廉恥ぶりを
世間に暴露されてしまった訳です。

本当に、日本をリードして行くべき義務と責任のある方々の不祥事が
無くなりません。東アジアの歴史的動きに対しても、蚊帳の外に置かれ
不祥事を起こせば、知らぬ存ぜぬの言い訳三昧。
一体彼らは、国民をどれだけ愚弄すれば気が済むのでしょうか。
どれ程国民が苦しい生活を送り、多くの人達が未来に希望を持てない
毎日を送っているのに、自分達の保身の為には必至に成って働き、
甘い蜜を得る事ばかりに頭が働き、国民からは、一向に顔が見えません。

自分達の利益の得られる方向に顔を向けて、次に国民に顔を見せるのは
選挙の時だけなのでしょうか。
しかしながら、更に情けないのが野党の面々です。これ程にも、
自民党が醜態を見せても、国会討論で持論を読み上げるだけで、
国民の期待に応える働きが全くできていません。
最も身近にいる野党が、この時とばかりに、与党面々を引きづり下し
国民に正義を訴えるのが筋です。
これでは、相変わらずの、負け犬の遠吠えに過ぎません。

与党議員が、常に次の選挙を考えて居る様に、野党議員も同じく
自分達の立場を保持する事に自分達の行動言動を考えて居て、
例え、与野党の攻防と言えども、単に、学生のディベートを見ている様で
国会という場のゲームをしている様に見えてしまいます。
このままでいけば、今後更なる大災害が起こったり、更には、
心配される首都圏を撒き込むプレート大地震や直下型地震が起こった時
以前の様に、またもや、想定外という言葉で逃げるのでしょうか。

近年の政治家たちの特徴は、自分達の無能ぶりを反省する事無く
想定外と言った国民を煙に巻く様な言葉で誤魔化したり、知らぬ存ぜぬと
責任放棄をする態度が目立ちます。
これは、明らかに政治家としての問題というより、大人の対応には程遠く
我儘な環境で育って来た、坊ちゃん嬢ちゃんの言い逃れと言えます。

政治生命を掛けて国民の為に尽くすと言った、毎度聴こえてくる選挙演説が
昔からのパフォーマンスで有り、政治家には正義や責任と言ったものは無い
と断定したくなります。
メディアの発達で、国民の前に出る時は、まるでタレント気取りで、
国民を喜ばせる様な言葉を並べ立てますが、実際には何の成果も揚げられず、
陰で甘い蜜を吸っている様では、国民の代表とは、到底言えません。

政治家とは、国民の持つ苦しみ悲しみを解決し、国民に未来への希望を
与えなければなりません。しかし、現実は、自分達の欲望を叶え、自分達の
未来への希望をつなぐことを考えていると言う実態は、腹立たしさというより
怒り心頭と言えます。

消費経済社会の頂点に立てば、何でも許されるとする甘えと傲慢さが
様々な不祥事を生み、その地位にふさわしくない言い訳と保身を生むのです。
この事は、たとえ、彼らが誰かに取って変わったとしても、同じ事で有り、
日本社会が持つ、消費経済国家の病とも言えます。

地位や名誉、財を成せば、それに値しない多くの人々は、明らかに自分達より
下の人間と考える社会傾向が、上に立つ人達に無能者を多くしてしまうのです
国民の上に立ち、人々を幸せに導く立場にある人達は、常に、国民が被る
最悪の事を想定して、常に対策を講じる必要が有ります。

想定外という言葉は、自分達の想定が如何に甘かったか、自分達が国民を
守る能力は持ち合わせていない事を公言している事と同じなのです。
今や、日本国民は、様々な補償保険を持って、自分や家族を守らなければ
成りません。安心した生活を行う為、一生を通じた安全を手に入れる為には
多くの出費を覚悟しなければいけない状態です。
しかし、最大の補償保険は、国が行うべき事なのです。
国民一人一人が、我が身を守り、将来への夢を抱くには、自分自身で身を守り
家族を守って行かなければならない日本の現状は、今のリーダー達の様な
常に守られて生活が保障されている人達には解らない事なのです。

 

今にも山が崩れるかも知れないと怯える人々の心が解らないから、平気で酒が
のどを通り、被災者達の心を逆なでするような言葉を平気で言えるのです。
事件が起こり事故が起こり、災害が起こって、多くの人が亡くなり怪我をして
苦しまなければ、腰を上げないと言う政治家の本性が見られたと言えます。

国会の中枢で、多くの機関に指令を出す役割である政治家たちは、当然
現地で直接人々を助ける事は出来ません。
だからこそ、的確な指示を、状況変化に応じて、つぶさに発令して行かなければならず、
その司令塔が、しっかりとした指令を出せなければ、国民を直接助ける機関は動けず、
助かるべき多くの人達の命が奪われるのです。

これまでの多くの災害に於ける、消防、警察、自衛隊と言った救援機関の働きは素晴らしく
多くの被災者たちの力となっているのですが、その精鋭たちを動かす国家機関は
余りにも対応が遅く、いずれの災害の時も、まるで素人の対応と言えます。
それは、自分達が何でもできると言う驕りで有り、事態が悪化した後、その道のプロに
促されて動き出すと言うのが過去の実態と言えます。

つまり、何も事件事故が起こらない時は、もしもの想定は全く考えて居なくて、
突然の事態に、慌てて担当者や専門家の意見を求めているに過ぎません。
執行部が真っ先に動かなければならない有事に、何もできないと言うのが日本の実情です。
彼らが無能である事はすでに解っているのですから、国会討論に於けるディベートは出来ても
出来ない多くの事を日頃から専門家に任せて、もしもの時に備えるのが政治家の役割です。

地位や名誉が手に入れば、お山の大将の様に何でもできる様な錯覚を抱く方が多いのです。
リーダーとは、有能な人材を生かし、国政をスムーズに執り行い、国民の願いや思いに
直ぐに答えられる人と言えるのです。
日本のリーダー達は、その地位に胡坐をかくと、自分の下に付く物に対しては、的確な指示や
命令が出来ず、問題を丸投げして責任を負わない方が多いです。

優秀な自分の部下たちを駆使して、国民との繋がりを強くしていかなければ、国民の声は届かず
リーダー達の勝手な考えで政治が行われる可能性が高いのです。
これから日本人が巻き込まれる天変地異は、我々が想像もできない程、いわゆる、想定外となる
惨事が想像されるのです。ハザードマップを作って、数字的に対策を練った所で、それは、
現実に被害に遭う国民の惨状とは程遠い言えます。

各地の状況に応じ、いかなる対策がその地で最も有効か、そして最悪の状態には、どの様な策を
実施するのか、リーダーと地元の人々が常に問題を共有する事が大切です。
常に、想定外と思える事を前提に考える事がリーダーの役割であり、どんな大災害にも
国民が冷静に対応できる様に準備する事が重要です。
政治家も国民も、想定外となった時、最大の不幸が訪れると言う事を、リーダー達は
肝に銘じて、政治家としての責任を果たして欲しいものです。

 

 

 


見えない復興に苦しむ日本人

2018-07-13 11:47:38 | 日本人

大きな災害に見舞われた時、人は誰しも、自然の驚異と
人間の弱さを感じてしまうのですが、本当の大変さは
その後の長きに渡る復興期間に有ります。
テレビを通じて、その惨憺たる光景に驚こうも、
次なる災害や事件が報道されると、多くの視聴者は
あっという間に興味の対象を変えてしまいます。

ここ数週間の間にも、日本列島には国民を驚かせる
災害が続き、大阪の地震をはじめ、竜巻による被害と
立て続けに様々災害が全国で起こっています。
しかしながら、多くの国民は、単なるニュースの一つ
として記憶してはいても、それは、過去の出来事に
過ぎず、毎年、繰り返される日本中の災害が、その後
どの様に被災地を変えていったかは、殆どの場合
ニュースに取り上げられることは有りません。

しかし、被災地は直ぐに復旧すると言う事は稀であり
少なくとも数週間、数か月、中には、何年もの長い時間が
必要であり、今や全国に、復興過程の被災地が多く有ります。
更に、同じ地域が繰り返し被害を被る事も有り、正に、
日本は、災害列島と言えるのです。

連日の暑さは、普段の生活を行っている人達にとっても大変ですが
被災地の方々の苦労は想像を絶するもので有り、いまだ、復興の
目途も付かないで未来を見失っている方も数多くいると思われます。

とは言え、最近の異常気象による大規模災害の増加は有るものの
日本は、昔から天変地異が頻発する島国で有り、春夏秋冬の豊かな
自然の富に恵まれている一方、台風を始めとした自然災害は、
長い歴史の中で数多く記録されていて、そんな過酷な自然条件の中で
日本人は逞しく生きて来たのです。

なのに、近年、災害が異常に増えている様に感じるのは、災害の規模が
大きくなっているだけでなく、人間が災害を多くしたり、その原因を
作り出している事が考えられます。
地球温暖化はもちろん、あらゆる汚染や自然破壊がもたらす弊害は
自然災害の規模も頻度も多くしていると思われます。

災害は、自然の脅威を封じ込めてしまえばいいと言う考えの元から
海や川をコンクリートの護岸で固めたり、本来危険な山間部を開発し
広大な住宅地を建設し続けた事で、災害をより大きくした事は否めません。
川の流れを変え、山の自然を、人間の都合で作り変えたりしたことが、
災害を大きくしている事は周知の事と言えるのです。

確かに、人口の増加による宅地造成や干拓は、必要であったかも知れません。
しかし、目先の欲望で人間の都合だけを考えた自然破壊は、新たなる災害を
呼び起こしているとも言えるのです。

今や、人間が生きて行く事は、地球の自然を破壊するだけでなく、
私達人類そのものをも追い詰める結果となっているのです。
食料を調達する為、資源を得る為の行為が、自然の摂理を無視し、自分達の
都合だけで行われた結果、様々な分野で、私達の生活を苦しめ、地球上の
多くの生き物達を絶滅に追いやっているのです。

災害列島と言われる日本で、長きに渡って日本人が生きて来られたのは、
自然を征服し、利用しようとしてきたからではなく、自然の摂理に従い
共存して来たからと言えるのです。
時に台風や地震と言った大災害に見舞われても、私達の命の糧をもたらす
大自然を、敬意をも持って守って来たのです。

明治以降、産業革命に続く消費経済国家となった事で、日本人の生活は
長足の進歩を遂げたと言えますが、生活が便利で楽に成ったとは言え、
人々の心は、本当に満たされる事は無くなったのです。
常に、便利で豊かな生活を求め、他人と比較しその経済性を争う事を
日本人の生き方としたところから、日本人の、いつまで経っても満たされない
不安不信の心が生れて来たと言えます。

働けど働けど楽に成らず、というのは、生活が楽に成らないと言うのではなく
心が満足出来ず、より豊かな経済的生活を得なければ納得できないと言う
ジレンマに苦しむ事と成ったのです。
他人よりも豊かな生活をすれば幸せに成るとする、比較的外見的な感覚で
日常生活が営まれている事から、満足と言えば、自分より貧しい生活を
している人と比較する事でしか出来ず、常に、上の生活を求められる事から
いつまで経っても心が安らぐことは無いのです。

常に比較でしか自分の存在価値を見いだせない日本人は、災害に見舞われなければ
自分や身内でなくて良かったと感じ、もし、見舞われると、何故自分達だけが
こんな苦しい思いをしなければならないのかと思い悩みます。
その為、身の回りに起こる事は全て、他山の石であり、見舞われれば、運が悪かったと
考えるしかないのです。

しかし、この考えは、日本が、消費経済を優先して、国民の豊かな心の成長と
幸せをないがしろにしてきた結果と言えます。
互いに競わせ、比較する事で生活の豊かさとした社会政策は、人々に、人間としての
心の豊かさを失わせ、社会に奉仕する事でしか生活の喜びを感じさせない様に
仕向けてしまいました。
災害に遭っても生活の保障がされず、病に伏しても、基本的に自己負担です。
様々な保証制度を利用できるとは言え、保証を受けるにも、出費が必要であり、
我が国に於いて、基本的に、自分や家族の健康と未来は、自分達で多く
負担しなければならないのです。

福祉国家という名のもとに、多くの支出を強いられる日本社会は、全ての面で
国民に負担を掛ける様に出来ているのです。
その為、一度大きな災害に見舞われると、多くの人達が未来への不安を抱き
復興までに経済的な負担だけでなく、精神的に大きなストレスを抱いてしまいます。
もちろん、様々な機関や人々から多くの支援は受けるのですが、それとて
一時的に凌げても、やはり、長い復興期間に安心して生活できる程でなく、
たとえハード面で復興しても、人々の心の中は傷ついたままなのです。

先進国と言いながら、日本は、一部の人達の豊かな生活は保障されても
日本を支える大多数の国民の基本的人権、基本的生活を守るまでには至らず
外見的に豊かな生活をしている様で、いつ何時、不幸のどん底に
叩き落されるかも知れない恐れに怯える人が多いのです。

しかしながら、普段の生活は、便利で豊かな物に囲まれている事から
その事を忘れがちであると言えます。
親方日の丸に、日本経済の奉仕者として生かされているだけで有り、
一度病に伏したり、経済的に破たんしたり、今回の様に大災害に見舞われれば
自分達が如何に脆弱で不安な生活基盤で生きているかが解るのです。

まるで浮草の様に、上手く水の上に浮いている時は良いのですが、いつの間にかに
風で流されたり、浮力を失って沈み始めても、周りの浮草の上にいる人達は
何の手助けをする事も出来ません。
まして、沈みそうな事態となって、国や公共機関に助けられたとしても、
いずれ不安定な浮草生活に戻されるだけなのです。

まるで砂上の楼閣の様な生活が日本人の豊かさと言われる生活なのです。
自分の生活を守る事で精一杯で、消費経済を支える事しか生活の目的が無く
周囲の人達とは益々希薄と成って行くのです。
しかし、これこそが、消費経済国家を発展させる方法で有り、国民一人一人が
上を見ながら、豊かな消費を求める事が、安定した利益を得られる方法なのです。
足元が不安定で有り、その安定を経済的な豊かさに求めるシステムこそが
この社会を牛耳る人達にとっては理想と言えるのです。

華やかな大都会も、経済的に豊かな生活も、庶民にとっては先進国家として
まるで自分の喜びの様に感じるのですが、現実は、その全てが、膨大なる
利益を求める人達の持ち物で有り、国民からの多くの利益を得る為のトラップ
に過ぎないのです。
もちろん、豊かな生活が出来、華やかな街に住めることは嬉しい事では有りますが、
その事で、私達の生活が本当に豊かに成るものではないのです。

例え、豊かな生活をしたとしても、突然のアクシデントに見舞われたり
病に伏したり、災害に見舞われれば、どん底の生活が待っているのです。
どんなアクシデントに見舞われても、基本的人権と生活が守られてこそ
心豊かな人生が歩めるのです。

日本人は、経済的に豊かに成ったとしても、それは、表向きの豊かさで有り
自分自身で自分や家族の保証を考えない限り、いつも不安が付きまとうのです。
特に、経済格差は、益々社会を険悪にし、人々の心を苦しめています。
何でも手に入り、自分の思うが儘に生きられる人は良いのですが、殆どの国民は
自分が一生安心した生活を送れる人はほとんど居ません。

ほんの一部の人達が勝ち得る豊かな生活が、あたかも国民の幸せで有るかの様な
メディア報道は、国民に背伸びした生活をさせるだけで、決して安定した生活や
心の安らぎを生むものではないのです。
子供たちが将来に夢を抱いても、自分達の生活が保障されない事で、殆どの場合
夢を断念している事は、日本にとって宝を失っている様なものです。

国民誰しもが、揺りかごから墓場まで、安心して一生を送れるような国になってこそ
先進国家として胸を張れると言えるのです。
日本は、いまだ、外見が優先される、心貧しい国と言えます。
国民一人一人が、本当に自慢できる国となる為には、お・も・て・な・し、と言った
外見だけを取り作ったような標語で誤魔化してはならないのです。

 

 

 

 


天才と言われるには

2018-07-10 20:22:29 | 日本人

人間とチンパンジーの差は、遺伝子学的に言えば、たったの3%
残り97%は、全く同じというから驚きです。
ならば、人間同士で有れば、もちろん、人類として同じ遺伝子を
100%持っているわけですから、生き物の持つ資質としては、
誰もが平等と言えるのです。

しかしながら、顔が違う様に、人は、一つとして同じものを持って
いない様な異質の存在にお互い感じます。
生まれも育ちも、人種的にも、例え遺伝子が同じであると言われても
全く違った生活をし、人生を送っています。
もし、同じ機能能力が備わっていると言うなら、誰もが、あらゆる
職業に於いて同様の能力を発揮し、スポーツに於いては、誰もが
オリンピックに出場できる程の能力を兼ね備えていると言えるのです。

しかし、現実には、誰もが全く違う能力を発揮し、自分とは全く違う
世界に生きる人達は、全ての面で、自分とは異質の存在と思えてしまいます。
つまり、例え、同じような要素をもって生まれて来たとしても、其々が
辿る環境によって、全く違った人間の様になってしまうのです。

とは言え、遺伝子的に同じであると言うなら、誰もが、何でもでき
どんな事でもこなせる能力が存在していると言う事です。
与えられた環境や、境遇、様々な思いがけない事が起こると、
突然、突拍子もない能力が発揮されると言えるのです。
火事場の馬鹿力とか、とっさに事故を未然に防いだとか
非常事態となると、隠されていた潜在的な力が表に出るのです。

この事は、人間は様々な可能性を秘めていると言う事にも成り、
上手くその能力を発揮できれば、思いもかけない人生が歩めたり
人が羨む能力を持つ事が出来ると言えるのです。
しかしながら、残念なことに、この能力に目覚める人は、万に一つ
誰もがと言う訳には行きません。

例え、発揮しても良い条件を与えられたとしても、自らが制御をし
普通の人間から脱皮できないのが現状です。
私達は、生きて行く上で、様々な危機から逃れる為に、心身共に
幾つも制御装置が付いていると言えます。
特に、環境に配慮して、自分だけ逸脱する行為は中々行えず
集団の中で存在する為に、誰もが、秀でる能力を使わずにいると言えます。

時に、天才という人達は、その制御棒が最初から抜けていて、思うが儘に
心も身体も動き、凡人には計り知れない能力を発揮するのです。
しかし、私達も、時には、火事場の馬鹿力の様に、思いがけない力を
発揮する事が出来るのです。
ただ、非常事態で有ったり、生命の危機が迫っていたりと、冷静な判断が
出来ない時しか発揮できないのが、凡人の凡人たる所でもあります。

とは言っても、平凡な人生の中で、時には、多くの人達に注目を浴びたいと
考える事は有るものです。しかし、その為には、信じがたい程の努力が
必要で有ったり、自分を支える大きな支援の力が必要である事が多いです。
となると、やはり、限られた人達だけの能力と成ってしまいます。

しかしながら、この潜在的な能力は、考え方次第では、かなり自由に
使えるのも事実です。
それは、自分の中にある能力である為、自分が、能力を発揮でいる条件を
与えれば済む事なのです。

まずは、自分自身の制御棒を外すこと、そして、社会的な考えからくる
拘束衣を脱ぎ去る事です。
この事は、ただ、外部への主張として行うと、時に凶悪な犯罪や言動に
なってしまう事も有り、あくまで、自分自身の心の中の変化として
試みる事が大切です。

誰もが、自分の判断基準や他人への行動言動制限を行っていて、
トラブルを起こさない為にも、欲望をすべてさらけ出さない様にしています。
この事で、誰とでも楽しく生活できるのですが、この制御を、自分自身の
心の鎖として持っている事が進歩を妨げるのです。

何かを成し遂げようとする時、多くの人は、無意識のうちに、その限界を決め
そこそこ満足できる時点で諦めます。
この中庸の考え方は、生きて行く上で非常に便利で有り、トラブルを起こし難いと
言えるのですが、その考え方に慣れると、自分の生き方が固定して、それ以上の
感動も喜びも得られないのです。

人は、自分の定めた限界を超える時、新たなる満足を得る事が出来、先に
自信をもって歩を進める事が出来るのです。
しかし、自分の定めた壁の先は、多くの場合未知の世界で有り恐怖を伴います。
その壁を乗り越えるには、強い意思が必要であり、誰にでも出来るものでは有りません。

ところが、この壁は、自らが作ったものであり、他人からすれば、難なく乗り越えられる
壁とは言えない物である事も多いのです。
つまり、自分にとっての限界は、他人にとっての限界ではないのです。

天才は、この壁を全く設けません。また、常に進化して行く人は、壁を作ろうとしません。
多くの人は、勝手に、自分の限界を作り壁を作っているに過ぎないのです。
そう、天才も普通の人も、遺伝子学的には同じ人間なのですから、同じ事は誰でも
出来るのです。

少し考え方を変えて、自分の頭の中で想像できる事は全て実現すると言って良いのです。
それを阻んでいるのは、何物でもない、自分であるのです。
人は人が気になり、常に比較する事に依って生きています。その為、人間の集団から
逸脱したり嫌われる事を恐れます。つまり、特殊能力を持って、他人から白い目で見られるより
同胞として迎え入れられる方が安心で幸せなのです。

しかし、その安易な満足に浸っていると、自分の能力はいつまで経っても伸びて来ません。
まず、頭の中で、自分が最も望む事を想像する習慣をつけるのです。
想像の世界ですから奇想天外で有っても構わないのです。

基本的に、人間が想像する事は必ず実現し、それが文化の発展でもあると言われています。
個人的にも、自分の望む事をまず認める事が重要です。
多くの方が、自分の環境や自分自身の能力を考え、常識的な範囲でしか夢を考えません。
しかし、人間は、あらゆることが出来る可能性があるのです。

増して、日頃慣れている仕事やスポーツと言ったものは、既に壁が幾つも無くなっているのです。
ただ、そこそこ思い通りになる事から、それ以上を求めない様になっているのです。
ならば、自分の望む道の頂点にいる人の事を考えましょう。その人は、同じ人間なのです。
彼は、その地位に成るまで、可能性を信じ続けたと言えるのです。

夢を叶えると言う事は、直ぐに叶う事も有りますが、一生かかっても無理な事も多いです。
特に、自分で壁を設ければその実現は遠い先となるのが普通です。
まず、可能性よりも、思う事は可能となると信じる事が大切です。

信じた時点で、その夢を現実にするには何をしたらいいのか、これも、壁を作らずあらゆる
可能性を考えて対処するのです。すると、壁を作っていた時より遥かに多くの道が開け
思いがけない支援者が出てきたりするものです。

特に、誰もが無理だと思う事を成し遂げようとすると、なし得なかった人は夢を託すのです。
プロのスポーツ選手がもてるのは、多くの人が成し得なかった事を自分の代わりに見せてくれ
自分の夢を実現してくれるからです。
多くの若者が、芸能人に憧れるのは、自分の望む事を芸能人が叶えているからです。
しかし、問題は、多くの人が、自分自身の望む事は叶えられないと、心の中に白旗を上げて
夢を捨てているからです。

そう、遺伝子学的には、誰もが、100%同じ力を持っているのです。
望みが叶えられないのは、自分で壁を作り、自分の能力を信じないからなのです。
直ぐに夢が叶えたいと考えると、安易に自分以外の他人の夢を求める事と成ります。
一人一人人間として個性があるように、夢の実現は人によって与えられる時間が
様々なのです。一生かかったとしても実現できれば唯一無二の自分の夢が実現するのです。

例え、夢が叶えられなかったとしても、壁を設けないで生きる事は、様々な可能性を呼び
どんな生活をしていても心がいつも豊かで幸せでいられるのです。
現代社会の様に、他人と比較して苦しむ事もないのです。
勉強して様々な知識を身に付けるのも、社会に出て働くのも、自分の心の思いを
実現するために在るのです。つまり人としての価値を身に付けるために在るのです。

社会的地位や成績と言った、他人との比較の為の道具を目的にしてはならないのです。
まずは、身近な事から、壁を超える練習が大切です。
ほんの些細な事でも、自分の壁を超える事は、大きな壁を超える力と成ります。
日常生活で習慣化している事をほんの少し変えるだけでも心が躍動します。

毎朝ウォーキングを5Kmしていたら、ほんの100mでも増してみましょう。
腕立て伏せを30回していたら31回してみましょう。
食事をした後、自分の食器を片付けてみましょう。
何でも良いです、習慣化されたことを少し破って見る事が大切です。

家族が自分に何かしてくれたら、さりげなく、ありがとう!と言ってみるのも良いです。
何十年も聴いてことない言葉が出ると、家族の雰囲気が変わったりすることもあります。
日常的に小さなことを重ねて行って、慣れてきたら、行き詰っている事や仕事に対して
躊躇せず先に進む事が出来る様になります。

最初から心の壁がない天才でない私たち庶民は、ほんの小さなことから大きな事へ
慣れて行く事が大切です。
日常生活に仕事に行き詰っている人は、その苦しみは自分が作っている事を知りましょう。
簡単に抜け出せることが解ります。
多くの人が突き当たる壁を、簡単いクリアーして行けば、他人は、天才というかもしれません。
しかし、天才も普通の人も遺伝子学的には全く同じなのです。