めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

天才と言われるには

2018-07-10 20:22:29 | 日本人

人間とチンパンジーの差は、遺伝子学的に言えば、たったの3%
残り97%は、全く同じというから驚きです。
ならば、人間同士で有れば、もちろん、人類として同じ遺伝子を
100%持っているわけですから、生き物の持つ資質としては、
誰もが平等と言えるのです。

しかしながら、顔が違う様に、人は、一つとして同じものを持って
いない様な異質の存在にお互い感じます。
生まれも育ちも、人種的にも、例え遺伝子が同じであると言われても
全く違った生活をし、人生を送っています。
もし、同じ機能能力が備わっていると言うなら、誰もが、あらゆる
職業に於いて同様の能力を発揮し、スポーツに於いては、誰もが
オリンピックに出場できる程の能力を兼ね備えていると言えるのです。

しかし、現実には、誰もが全く違う能力を発揮し、自分とは全く違う
世界に生きる人達は、全ての面で、自分とは異質の存在と思えてしまいます。
つまり、例え、同じような要素をもって生まれて来たとしても、其々が
辿る環境によって、全く違った人間の様になってしまうのです。

とは言え、遺伝子的に同じであると言うなら、誰もが、何でもでき
どんな事でもこなせる能力が存在していると言う事です。
与えられた環境や、境遇、様々な思いがけない事が起こると、
突然、突拍子もない能力が発揮されると言えるのです。
火事場の馬鹿力とか、とっさに事故を未然に防いだとか
非常事態となると、隠されていた潜在的な力が表に出るのです。

この事は、人間は様々な可能性を秘めていると言う事にも成り、
上手くその能力を発揮できれば、思いもかけない人生が歩めたり
人が羨む能力を持つ事が出来ると言えるのです。
しかしながら、残念なことに、この能力に目覚める人は、万に一つ
誰もがと言う訳には行きません。

例え、発揮しても良い条件を与えられたとしても、自らが制御をし
普通の人間から脱皮できないのが現状です。
私達は、生きて行く上で、様々な危機から逃れる為に、心身共に
幾つも制御装置が付いていると言えます。
特に、環境に配慮して、自分だけ逸脱する行為は中々行えず
集団の中で存在する為に、誰もが、秀でる能力を使わずにいると言えます。

時に、天才という人達は、その制御棒が最初から抜けていて、思うが儘に
心も身体も動き、凡人には計り知れない能力を発揮するのです。
しかし、私達も、時には、火事場の馬鹿力の様に、思いがけない力を
発揮する事が出来るのです。
ただ、非常事態で有ったり、生命の危機が迫っていたりと、冷静な判断が
出来ない時しか発揮できないのが、凡人の凡人たる所でもあります。

とは言っても、平凡な人生の中で、時には、多くの人達に注目を浴びたいと
考える事は有るものです。しかし、その為には、信じがたい程の努力が
必要で有ったり、自分を支える大きな支援の力が必要である事が多いです。
となると、やはり、限られた人達だけの能力と成ってしまいます。

しかしながら、この潜在的な能力は、考え方次第では、かなり自由に
使えるのも事実です。
それは、自分の中にある能力である為、自分が、能力を発揮でいる条件を
与えれば済む事なのです。

まずは、自分自身の制御棒を外すこと、そして、社会的な考えからくる
拘束衣を脱ぎ去る事です。
この事は、ただ、外部への主張として行うと、時に凶悪な犯罪や言動に
なってしまう事も有り、あくまで、自分自身の心の中の変化として
試みる事が大切です。

誰もが、自分の判断基準や他人への行動言動制限を行っていて、
トラブルを起こさない為にも、欲望をすべてさらけ出さない様にしています。
この事で、誰とでも楽しく生活できるのですが、この制御を、自分自身の
心の鎖として持っている事が進歩を妨げるのです。

何かを成し遂げようとする時、多くの人は、無意識のうちに、その限界を決め
そこそこ満足できる時点で諦めます。
この中庸の考え方は、生きて行く上で非常に便利で有り、トラブルを起こし難いと
言えるのですが、その考え方に慣れると、自分の生き方が固定して、それ以上の
感動も喜びも得られないのです。

人は、自分の定めた限界を超える時、新たなる満足を得る事が出来、先に
自信をもって歩を進める事が出来るのです。
しかし、自分の定めた壁の先は、多くの場合未知の世界で有り恐怖を伴います。
その壁を乗り越えるには、強い意思が必要であり、誰にでも出来るものでは有りません。

ところが、この壁は、自らが作ったものであり、他人からすれば、難なく乗り越えられる
壁とは言えない物である事も多いのです。
つまり、自分にとっての限界は、他人にとっての限界ではないのです。

天才は、この壁を全く設けません。また、常に進化して行く人は、壁を作ろうとしません。
多くの人は、勝手に、自分の限界を作り壁を作っているに過ぎないのです。
そう、天才も普通の人も、遺伝子学的には同じ人間なのですから、同じ事は誰でも
出来るのです。

少し考え方を変えて、自分の頭の中で想像できる事は全て実現すると言って良いのです。
それを阻んでいるのは、何物でもない、自分であるのです。
人は人が気になり、常に比較する事に依って生きています。その為、人間の集団から
逸脱したり嫌われる事を恐れます。つまり、特殊能力を持って、他人から白い目で見られるより
同胞として迎え入れられる方が安心で幸せなのです。

しかし、その安易な満足に浸っていると、自分の能力はいつまで経っても伸びて来ません。
まず、頭の中で、自分が最も望む事を想像する習慣をつけるのです。
想像の世界ですから奇想天外で有っても構わないのです。

基本的に、人間が想像する事は必ず実現し、それが文化の発展でもあると言われています。
個人的にも、自分の望む事をまず認める事が重要です。
多くの方が、自分の環境や自分自身の能力を考え、常識的な範囲でしか夢を考えません。
しかし、人間は、あらゆることが出来る可能性があるのです。

増して、日頃慣れている仕事やスポーツと言ったものは、既に壁が幾つも無くなっているのです。
ただ、そこそこ思い通りになる事から、それ以上を求めない様になっているのです。
ならば、自分の望む道の頂点にいる人の事を考えましょう。その人は、同じ人間なのです。
彼は、その地位に成るまで、可能性を信じ続けたと言えるのです。

夢を叶えると言う事は、直ぐに叶う事も有りますが、一生かかっても無理な事も多いです。
特に、自分で壁を設ければその実現は遠い先となるのが普通です。
まず、可能性よりも、思う事は可能となると信じる事が大切です。

信じた時点で、その夢を現実にするには何をしたらいいのか、これも、壁を作らずあらゆる
可能性を考えて対処するのです。すると、壁を作っていた時より遥かに多くの道が開け
思いがけない支援者が出てきたりするものです。

特に、誰もが無理だと思う事を成し遂げようとすると、なし得なかった人は夢を託すのです。
プロのスポーツ選手がもてるのは、多くの人が成し得なかった事を自分の代わりに見せてくれ
自分の夢を実現してくれるからです。
多くの若者が、芸能人に憧れるのは、自分の望む事を芸能人が叶えているからです。
しかし、問題は、多くの人が、自分自身の望む事は叶えられないと、心の中に白旗を上げて
夢を捨てているからです。

そう、遺伝子学的には、誰もが、100%同じ力を持っているのです。
望みが叶えられないのは、自分で壁を作り、自分の能力を信じないからなのです。
直ぐに夢が叶えたいと考えると、安易に自分以外の他人の夢を求める事と成ります。
一人一人人間として個性があるように、夢の実現は人によって与えられる時間が
様々なのです。一生かかったとしても実現できれば唯一無二の自分の夢が実現するのです。

例え、夢が叶えられなかったとしても、壁を設けないで生きる事は、様々な可能性を呼び
どんな生活をしていても心がいつも豊かで幸せでいられるのです。
現代社会の様に、他人と比較して苦しむ事もないのです。
勉強して様々な知識を身に付けるのも、社会に出て働くのも、自分の心の思いを
実現するために在るのです。つまり人としての価値を身に付けるために在るのです。

社会的地位や成績と言った、他人との比較の為の道具を目的にしてはならないのです。
まずは、身近な事から、壁を超える練習が大切です。
ほんの些細な事でも、自分の壁を超える事は、大きな壁を超える力と成ります。
日常生活で習慣化している事をほんの少し変えるだけでも心が躍動します。

毎朝ウォーキングを5Kmしていたら、ほんの100mでも増してみましょう。
腕立て伏せを30回していたら31回してみましょう。
食事をした後、自分の食器を片付けてみましょう。
何でも良いです、習慣化されたことを少し破って見る事が大切です。

家族が自分に何かしてくれたら、さりげなく、ありがとう!と言ってみるのも良いです。
何十年も聴いてことない言葉が出ると、家族の雰囲気が変わったりすることもあります。
日常的に小さなことを重ねて行って、慣れてきたら、行き詰っている事や仕事に対して
躊躇せず先に進む事が出来る様になります。

最初から心の壁がない天才でない私たち庶民は、ほんの小さなことから大きな事へ
慣れて行く事が大切です。
日常生活に仕事に行き詰っている人は、その苦しみは自分が作っている事を知りましょう。
簡単に抜け出せることが解ります。
多くの人が突き当たる壁を、簡単いクリアーして行けば、他人は、天才というかもしれません。
しかし、天才も普通の人も遺伝子学的には全く同じなのです。

 

 

 


被災者たちの気持ちが解らないリーダー達

2018-07-10 10:58:50 | 日本人

半月ほど前から始まった我が家の下水工事はいまだ終わらず、今日は朝から
パイプ埋設の後の床の復元工事です。
工事をする人も大変ですが、朝早くに朝食を済ませ、妻は現場監督として残り
私は、早々と出勤です。
しかしながら、水回りが滞るとこれ程大変とは、連日の工事の騒音や暑さで、
家族全員が疲れ気味です。

一日も早く完了して欲しいものだと思っていましたが、ここ数日の間に起こった
西日本の大水害は、我が家の不自由さなど針の先程の物と思えます。
家や家財道具を失い、中には、家族を失った方もいます。
ようやく雨は収まり水は引いたとはいえ、その後は惨憺たる光景です。
一体何から手を付けていいのか、ライフラインを失った住民たちにとって、
この炎天下での復旧作業は、地獄の日々と言えます。

テレビ画面を通して、その大変さは伝わって来ますが、実際の苦労は、
体験してみないと解らない程壮絶です。
私も幼いころ、大水害で一か月に渡り水に閉じ込められましたが、
海抜がマイナス2メートルで有った事も有り、水が抜けるまで
二階の屋根から船に乗って食料や水を取りに行ったのを覚えています。

最初の一週間は、人間を始め様々な死体がいたるところに浮かんでいて
小舟でその間を進んで行った光景は、今でも脳裏に焼き付いています。
ようやく水が引けば、1mをこすヘドロが家の中に積もっていて、
それらを排出し、家具を外に出し、家を洗い終わるまで、2か月要しました。

今でこそ、様々な重機を使って迅速に復旧活動が行われるのですが、
当時は、自衛隊も殆ど手持ちのシャベルでの人海戦術でした。
雨がやんで晴れれば、泥に含まれた様々な有機物が腐敗し、その匂いは
常に、下水道に頭を突っ込んでいる様な苦しさです。
西日本で、今回の豪雨の被災者と成られた方々は、これから長きに渡り
苦しい生活が続いて行きます。

しばらくすれば、マスコミも取材する事無く、いつの間にかに忘れ去られ
人々の関心も無くなって行きますが、被災者たちは、これから長い間
心の中では一生の間その悪夢はついて回るのです。
この事は、近年多く起こる大災害も同じ状況で有り、ニュースに取り上げられず
人々から忘れられていったとしても、被災者たちはその時の苦しみを引きづり
心も身体も病んでしまう事も多いのです。

復興支援は、目に見えて復旧状態が感じられるのですが、被災者たちの心の中は
苦しい思い出が消える事無くいつまでもその時で時間が止まっている場合も有ります。
日本の支援活動は、世界的に見ても迅速で大規模である事が知られていますが、
ハード面に於いては目を見張る復旧活動が行われても、人の心に関するソフトな面で
大きく遅れているのが問題です。

被害者たちの心の傷は、外見とは違って一人一人違うものです。
失った過去の思い出も、家族や地域の人達との思いもそれぞれ違っているのです。
街が復旧して、被災地が近代的によみがえったとしても、そこに住む人達の心が
病み続けていていては、本当に復興したとは言えないのです。

東日本大震災を始めとして、様々な大災害の後、被災者たちが本当に心から癒され
前向きな気持ちに成ったかと言えば、そうとも言えない事が多く、地元の事を知らない
部外者たちによって作られた街は、災害で失った故郷を、更なる復興事業という
人災で失っていると言う事実を知らなければなりません。
近代的で、日本中どこにでもある街に作り替えられ、被災者たちが、残りの人生を
安らかに過ごす事が出来ないと言うのが現実なのです。

復興事業というのは、早急に行うライフラインの復活や生活基盤の確保は大切ですが、
その土地の過去と未来を繋ぐ、人々がその後不幸を忘れて未来へ向かえる様な
街づくりと心のケアを行わなければならないのです。
戦後、日本中で様々な大災害が起こっていますが、被災地は、目で見ただけで、
周辺の街とは違っているのが解ります。

その地の風景には不釣り合いな街づくりで有ったり、とりあえず、住めることだけを優先した
故郷の街が復興したと言うより、建築者と支援団体、国と言った、その地の事を何も知らない
部外者たちの勝手な思い込みで作られた街が広がっています。
もちろん、以前より立派な住居に住めるようになった被災者達も居ます。
しかしながら、便利に成ったとは言え、心から満足していない方々が多いのも事実です。

国や支援した側からすれば、助けてあげたのだから文句を言うな、と言いたげな上から目線で
自己満足の発言が多い事も、被災者たちの心を逆なでする原因と成っています。
確かに、苦しみから解放してあげたのだから、それで十分だと思う人も少なくないのですが、
人がその土地で生まれ生きて行くと言う事は、ただ、ライフラインを整え、立派な住居を
与えられたとしても、手放しでは喜べないのです。

喜び、満足とは、個人の心が自分の価値観で満たされた時得られるものであり、誰もが、
他人とは違った考えや生き方を選んでいる事からも解ります。
多くの考えの違った人達が集まり、地域における共通の利益の為に、お互いが何を成すかを
考え、周りの人の事を気にしながら作り上げたのが故郷なのです。
長い月日を掛け、その地に住む人々が育てて来た世界が故郷の街なのです。
自分がその地に生きる為、人間同士の関わり合いをもって豊かな生活を目指し、
周囲の環境に生かされる事で初めて安住の地としてきたのです。

そんな大切な故郷が破壊された悲しみは、部外者には到底解らない心の苦しみを生みます。
被災者たちがまず壊れた我が家に帰ってする事は、自分達の思い出とその地に住んだ証を
探す事です。家族それぞれに、生きて来た心の支えがあるのです。
泥の中から、他人にとってはどうでもいい様なものを必死で探す姿は、人間が何によって
生かされ生きて来たかが解ります。

この事は、誰もが、同じような被害を受けた時思う事で有り、自分の生活環境を取り戻す
と言う事以上に、自分の心の支えを取り戻す事が重要なのです。
つまり、心の支援がなくして、本当の復興事業はあり得ないのです。
様々な人道的な支援、福祉事業も同じであり、見た目の豊かさを与えたとしても、
人々の心は癒されず、ただ、援助されていると言う心の負い目が、表面的な喜びの弁をつくり
不自然な喜びの笑顔を作るのです。

被災者たちのその後と高齢者達の生き方はよく似ています。
経済的に生活できる様に支援する事は、高齢者事業と何だ変わりません。
日本各地に作られた高齢者の為の様々な設備によって、より便利で豊かな老後が約束されます。
しかし、被災者達も高齢者達も、経済的に生かされているだけで有って、人として寄り添う様な
ケアが有りません。立派な施設を利用できる様にすれば、高齢者は喜ぶと思っている福祉関係者は
とても多く、政府関係者も、予算を多く振り分け、多くの施設を作れば、高齢者達は喜ぶと
まるでペットに美味しい餌を与えておけばいい様な、人としての関わり合いが解らない、
頭の中だけの福祉を考えて居る人が少なくないのです。

どれだけの支援物資を送ったか、どれだけ人材を送ったかという数字的な比較によって、
支援活動を行ったと考える政府関係者も多く、単なる部下からの数字報告だけで、
自分達が成すべきことを決めている被災者の気持ちが全く解らない人も多い様です。
経済的社会的な力で地位を成した方々は、自分が思う様に何事も進めたがり
自分の頭の中の正解を一般の人達に当てはめがちです。

知識は一杯で有り、手段は沢山持っていても、常に、闇夜に鉄砲の状態の支援策は
部下たちや有識者に言われるがままの、外的支援でしか有りません。
被災地を数日後に視察しても、それは、政治家としてのパフォーマンスに過ぎず、
被災地に出向いたと言う自分のおごりにしかなりません。

災害が起ころうが起こるまいが、リーダー達は、常に国民の気持ちの耳を傾け
自分達の考えとは全く違う思いが有る事、更に、人々の思いは、次々に
変わって行く事から、常に生の情報を得なければなりません。
お決まりの復興計画をどの場面でも当てはめていては、同じ街並みは作れても
人々の心を復興させる事は不可能なのです。

今回の大水害の前に、大阪で大地震があり、水害の前に竜巻の襲われた街も有ります。
次々ニュースは新しいものを優先して行きます。
人々の関心は、新たなる事件や事故、災害に移って言っても、過去の災害を振り返り
被災者達を愁う事は有りません。
国や行政官庁、支援団体企業も、そのニュースのスピードに載せられて、自分達の
目論見と思い込みで活動をするだけで、物的支援が終われば、次へ簡単に移り、
取り残された被災者達への支援は終了したとします。

この、刹那的な、身勝手な支援活動が日本の現実と言えるのです。
今や、日本中、誰もが、大きな災害に見舞われかねません。
もし、自分が被災者となった時、現実の不幸から免れるだけでなく、傷ついた心が
どれだけ癒され、前に向いて生きて行けるかが一番大切で有り、この事に関しては
我が国は、いまだに発展途上国と言え、成すべき人たちの無能ぶりが目立つだけなのです。