それにしても、ワールドカップの日本とベルギーの戦いは、残念としか
言いようが有りません。
私も、学生時代サッカーをしていて、逆転負けをした時の気持ちが解ります。
特に、勝利を目の前にして負けた時の悔しさは、一番悔いが残るもので有り
全力を尽くし自分達の力を出し切ったと言うのは、メディアに対する言葉で有り
本心は、私達、応援していた多くの日本人の思いより遥かに深く重く苦しいものです。
しかし、この戦いは、既に予選突破の時から予想できたものであり、それ以上に
順位を上げるものでは有りませんでした。
勝利を得る為の計算が先行すれば、次第に、個人のパフォーマンスは失われ、
全体としての結果のみが優先されます。
予選突破の為の作戦が、見ている人達に不快感を与えたものの、それで勝利が得られた
とする考えが、決勝トーナメントで正に裏目に出たと言えるのです。
現代のスポーツに於ける戦いは、様々な場面をを想定して、選手たちのパフォーマンスを
コントロールする事から始まります。
特に、サッカーの様に多くの人数を持って戦うとなると、各選手の動き方戦い方の戦術が
前もってシミュレーションされる事が多く、選手同士も、戦術通り動く事が優先されます。
例え個人技に優れようとも、その個人技は、自分のパフォーマンスの為に使われると
言うのでなく、チーム全体の動きを助ける為に使われます。
この事は、社会における会社関係の関わり合いに於いても同じ事が言え、自社の利益を
如何に多く得られるようにするかが、最大の課題であり、その結果個人の利益も上がる
と言えるのです。
しかし、戦いの場に於いて、例え、絶対的に有利な状態であっても、終わるまでは、
その立場が逆転する事は珍しい事ではなく、リードを保つと言う事は、優劣が拮抗して
凌ぎを削り合っている時よりも遥かに難しいのです。
予選の時の様に、たまたま他力本願で勝てる時も有りますが、多くの場合、消極的に成れば
勝つために更なる力をぶつけて来る敵に足元をすくわれる事も有るのです。
勝っている時は、より厳しく相手が戦意を喪失するまで戦う事が大切です。
ベルギー戦は、2点リードした時点で、ベルギー選手の戦いの炎がより高まったのに対し
日本選手からは、更に得点を重ねようとする熱が伝わらず、何処かに守りの気持ちが
働いていた様に感じられました。
どん欲に更なる得点を得ようとする野性味が感じられず、ただ時が立つのを待っているかの様な
そう、予選突破の時の球回しをしているかの様な雰囲気が有りました。
一人一人が、チームとして与えられた職務を確実に果たす事に専念していて、個人的な
力強さが感じられません。
戦っていると、直接相手から感じられる激しさや野望に匹敵する心と身体のエネルギーが
有ってこそ、対等に戦う事が出来ます。
素晴らしいテクニックもパフォーマンスも、戦いのエネルギーがあってこそ生きて来ます。
しかし、突然、相手の圧力が感じられなくなると、例え負けていても、逆転の可能性を感じ
勝利の期待が高まって来るものです。
予選の時は、明らかに、勝利を得る為の球回しで有り、勝っても予選を突破できないポーランドの
選手達もそれに合わせてくれたから良かったのであり、苦しい戦いで得た勝利ではない勝ち方が
少なからず、決勝トーナメントで、勝利を夢見た瞬間から選手の心の隙を生んだと思われます。
この事は、選手を責める事ではなく、これまで、厳しい予選を戦って来た選手達を称える方が
遥かに大切と言えます。
最後の最後まで、絶対安心と言える戦いは無い事を改めて記憶にとどめる事が大切です。
ワールドカップ間近に監督交代という思いもしない出来事があり、指揮官が変わる事は、
日本丸の船長が就航間近で交代すると言う事で有り、船乗りである選手たちの心は、
想像以上に揺れ動き、ワールドカップでまともに戦えるかという不安が募ったものです。
しかしながら、蓋を開けると予選を突破という偉業を成し遂げ、監督も選手も一気に
日本人の心をつかんだと言えるのですが、如何に監督が変わったとしても、日本選手には
予選を突破できる実力が有ったと言う事なのです。
勝てたのは、逆風が吹く中で、如何に期待に応えるかという切羽詰まった状況が有ったからこそ
予選を勝ち抜けてきたと言えるのです。
しかし、勝ち続けるにつれ、少しづつ、心に余裕が出来、戦うエネルギーが薄れて来たとも言え
選手の中に有る戦い勝つ為のエネルギーが、チームとしての結束と言う、戦う為の手段に
向けられていく事で、一人一人の戦いのエネルギーがそがれて行ったと言えます。
ワールドカップで勝ち残るチームに共通の事は、素晴らしい戦術と高い個人技が挙げられますが
それ以上に、戦いの場面場面における勝利に向ける野獣の様なエネルギーに溢れています。
確かに、ルールの有るスポーツなのですが、戦い抜く為のエネルギーは、ルールを超える程の
格闘技の様な激しさが無ければならないのです。
グラウンドに立っている限り、決して爪を納めてはならず、相手の戦意が喪失するまで戦う気力が
無ければ、本当の勝者とは成らないのです。
この事は、私達の日常生活に於いても仕事に於いても同じ状況が起こるものであり、何か物事を
行っている時、計画通り進んでいると、そのまま、最後までうまくいくと思いがちです。
確かに、しっかりと予定を組み、計画通り段取りを進めて行けば、多くの場合トラブルなく進み
予定通りの成果が得られる事も有るのですが、時に、思いもしないアクシデントがあったり、
計画自体が間違っていて、思わぬ減収となる事も有ります。
問題は、トラブルが有ったりアクシデントが有った事ではなく、それが起こった原因があり、
原因の多くが、人間の心にある事です。
素晴らしい計画を立てたり策を練ったりすれば大丈夫と思い、殆どうまくいっていれば、
そのまま最後まで思うが儘に進むと思う慢心です。
これは、誰の心にも有る、人間のごく普通の感覚で有り、日常生活に於いても仕事上でも
はたまたサッカーの試合で有っても同じ事なのです。
私たち人間は、それ程強い精神が有るのではなく、ストレスが続いた時、同じことを繰り返した時
そこから解放されようと気持ちを緩める事が多いのです。
この事は、緩急のリズムと同じく、生きていく生活のリズムとして成り立ち、あらゆる行いに於いて
生きていく上で生じる生体反応とも言えるのです。
その為、苦しい戦いの後には解放と喜びの勝利が求められるのです。
つまり、禍福は糾える縄の如し、と言われる様に、辛い事と苦しい事は交互にやって来ると言うのが
人間の生き方であり人生でもあると言えるのです。
しかし、これは、誰の身体にも備わっているものとも言え、どちらかを求め、どちらかを排除する事は
生きていく上でリズムを失ってしまうと言えるのです。
勝つ為には負ける事が必要であり、成功するには失敗が必要とも言えるのです。
しかしながら、どちらかを優先すると、人の心は病んでしまうのです。
常に勝つことを求められれば心の余裕は失われ、他人が求める勝利を自分の目的としがちとなります。
戦った結果勝つ事は、苦しい思いの後の甘味な思いで有り、しっかりとしたリズムと成り満足を得ます。
苦しい練習、戦いを経た後の勝利は格別であり、その喜びに、常に味を求める事と成ります。
しかし、いつも勝利と言う訳には行きません。すると、負けたことが、自分の人生のマイナスの様に
思ってしまう事が有り、人々の心を苦しめ、戦う事を辞めてしまう事が有ります。
すると、勝利を得る為の苦しい練習や戦いが無くなる事で、それ以上の喜びは得られなくなります。
つまり、喜びのレベルも苦しみに応じて下がって来るのです。
戦いから退けば、楽になると言うのは間違いで、戦う為の努力や苦しみを無くすことで、同じ様な
強い喜びを得られなくなるのです。
人は、欲しいものを簡単に与えられたり、戦う術や努力を失ってしまうと、自らの心の満足が弱くなり
その結果、急激に生きる気力と体力が失われてしまうのです。
人は、生まれてから死ぬまで、素晴らしい感動と喜びを得たいがために努力をし頑張るのです。
そして、たとえ目的が達成されなくとも、その苦しい努力は、いずれ喜びに変わるのです。
その人生の縮図を見せてくれるのがスポーツでも有るのです。
様々な種類のスポーツがあるも、そのいずれも、自分の心を満足させるために努力し戦うのです。
戦いの場を失う事が、喜びの気持ちを得られなくなるとも言えるのです。
この喜びは、全ての国民に与えられるべきであり、私達も、喜びを得る為に頑張る場所が必要です。
若い人達も高齢者も、生きている限り、この戦いの場を与えられる事が重要です。
高齢者が本当に求めているのは、何不自由ない生活ではなく、自分が誰かの為に役に立っている
誰かの為に頑張っていると言う証が欲しいのです。
安心安全な生活を与え、健康に生きながらえさせる事が、高齢者達にとって本当に幸せでな無いのです。
多くの高齢者達は、社会から置いてけぼりと成り、世の中で役に立たないと言う負い目を追っています。
より良い環境を与えられ、食べる事に不自由しなくても、自分がこの世に存在している価値を感じなければ
幸せとは言えないのです。
辛い思いをして勝利するように、何か努力して誰かの為に役に立っていると思う時、高齢者達が本当に
この世に生きている事を喜びとするのです。
スポーツ選手たちは、常に、勝ち負けを味わえる、生きている証を味わえる環境にあるのです。
その姿は、多くの人達に勇気を与え、自分達の人生に力を与える事となるのです。
選手は勝つ事も大切ですが、如何に負けの重要性を感じられるようになるか、それを期待したいものです。