めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

人としての価値を認められない現代人の悲しさ

2018-11-19 18:33:43 | 東京

私達は、日頃、人であろうが物であろうが価値あるものを求めます。
価値あるものは、自分の人生を豊かにするだけでなく、自分自身を
幸せにしてくれると信じています。
その為、世の中に在るものは、全てが自分にとって価値の有る物か
無い物かで自分自身の意思表示が決定されます。

価値とは何か、そう、自分にとって利益となるもの、より心を
豊かにしてくれるものと言えますが、この感覚は、極めて個人的で
誰一人、全く同じ価値観を持つ事は無いのです。
私達は、生まれた場所や環境、更には育ち方と、様々な境遇の中で
心と身体を育てているのです。

所が、月日が経つと、いつの間にか、多くの人が共通の価値観を持ち
社会全体で、人々の求める物が決まって来るのです。
地域社会であったり、国で在ったりと、共通の言語を用いたり
同じ様な文化を持っていると、その地域特有の価値感が生れるもので
特に思想的な部分と成ると、宗教の様に、多くの国が関わってくるほど
共通の価値観が決まって来ます。

言葉の違い文化の違い風習の違いと、様々な環境の変化により
考え方も生き方も大きく変わって来るのが実情です。
そして、其々の地域や国の特性の元、より豊かな生活を目指し
様々な方法で、国の繁栄を計っているのです。

この様に、人々の思いが次第に、特定の考え方として統一され、
共通の利益の為に産業や文化を発展させていくのですが、
多くの人達の共通の目的が主体となって来ると、次第に
個人的な思いは否定され、全体の利益を優先するようになります。
経済的に豊かと成って、人々の暮らしは安定して来るとは言え
そこに、人々の思いが反映されているとは言えないのです。
経済的利益を多く得る人や組織が、人々の要望を具体化すると
言うのではなく、利益優先の、社会を担っている人達の欲望を
満たす為の経済発展と成って来るのです。

戦後の日本経済の発展も、正に、個人の望みを満たすための
産業発展が、いつの間にか、個人の利益と言うよりも、
企業側や社会をリードして行く人達の利益優先と成って
多くの国民の幸せが叶えられない世界と成っているのです。
人々の価値観が、経済性によって判断され、如何に豊かで
便利な生活が出来るかで人を判断するように成って来た事で
日本人の悩みが深くなったと言えるのです。

私達は、基本的に一個人として唯一無二の存在として
生まれて来ました。
両親だけでなく、周囲から、価値ある大切な存在として認められ
大切に育てられて来たのです。
所が、物心がつく頃から、何が大切で何を目的に生きるかと言う
世の中の価値観を植え付けらえて育つようになって来るのです。

両親からの無上の愛に支えられ、心からの笑みを振る舞っていれば、
誰もが喜んでいたはずなのに、月日が経つにつれ、自分の行う事が
如何に経済的に利益を得る方に繋がるかと言う教育を受ける様に
なってきた途端、より経済的な価値の有る物を手に入れるかと言う
経済社会での生き方をまい進するように成るのです。

学校教育は、人間としての成長を目的とするのではなく、
より豊かな暮らしを保障してくれる高校大学に進学する事を勧められ
豊かな社会生活を送る為のエスカレーターに乗る事を求めます。
しかし、同じエスカレーターに多くの人は乗ることはできません。
少しでも蹴落として、自分だけは、より高い地位に就こうとして
他の人の事は構っては要れれません。

少なからず、日本中の殆どの人は、より高きを目指せるエスカレーターを
目指して来たのですが、当然、誰もが乗れるわけではなく、大半の人が
落ちこぼれとして、低い階に留まるのが現状でした。
夢を果たせなかった多くの人達は、その悔しさに唇を噛んでいると
思えるのですが、彼らとて、経済性豊かな生活を目指していたのですから
自分達より上に行く人に価値観を感じ、従うしかないのです。

しかしながら、社会的地位が増した途端、人間的価値も増したと考える
子供のままの脳の人達が、社会の中心と成ったり、リーダーと成って
国民を導いて行く立場と成ると、それこそ、国民は不幸と成ってしまいます。
自分の事しか考えない人が、社会的地位を得たら、多くの人々の事を考える
筈はないのです。彼らの頭の中は、常に私欲しか有りません。

それを覆い隠すために、巧みな弁舌で国民を煙に巻き、更には、
不祥事を行ったり、不正不義を行った時は、保身の為に、詰まらない
言い訳で保身にまい進するのです。
つまり、如何に文化が発達して、世界的な経済大国になったとしても
日本人は、自分の利益しか考えられない民族と成ってしまったのです。

与野党の攻防も、国民の為と言うより、お互いのプライドからの痴話げんか
に過ぎません。お互いの足を引っ張り合うだけの実の無い討論は、大切な
血税を使う意味が有りません。
与党の弁舌も、野党の追及も、個人的な不備の突き合いであり、野良猫の
テリトリー争いを見ている様で、国民にとって何の利益も感じられません。

現代の日本人の問題は、庶民であっても、国を代表する人達であっても
人に対する信頼関係が非常に希薄と成っている事です。
話術は巧みで有っても、人の本心を感じられなかったり、相手の思いを
受け取れなかったり、人としての心構えが利益優先と成っているのが
人々の心を荒立たせ、多くの人が苦しむ結果と成っているのです。

ほんの内輪の人達との関わり合いで有っても、十分に心の底からの
対話と理解が無くなっているのです。
人の気持ちを知ると言う事は、自分の気持を知ってもらって
そこから、共通の利益を見つけ、お互いにWinWinの関係を作る
と言うのではなく、
お互いの考えの違い、思いの違いを知る事で、
自分の考えの柔軟性を育て、相手の考え方を受け止める力を
育てる事が大切と言えるのです。

今の世の中、何をするにしても利益を得る事、そして勝つことが優先され
利益の中身や勝つ事の意味が解っていない人があまりにも多いのです。
勝つ事、利益を得ると言う事は、相手が有ってこそ成り立ち、其々が
与えられた状況で前に進まなければならないのです。

勝った人だけ、利益を得た人だけが前に進めるのではないのです。
どちらの立場に立っても、対人的にお互いの立場を知る事に依って
相手の存在価値を見出さなければならないのです。
人は、勝手も負けても、自分の価値を認められる事が大切で有り
その時初めて、前に進む事が出来るのです。

人生に於いて、自分が勝者になる時も敗者になる時も有り、更には
利益を得る時も失う時も有るのです。
しかし、それは、人間としての優劣を決める事ではなく、其々の
新たなる道を作る為の手段であり、出発点に過ぎないのです。

この事は、小さい頃からの教育課程に於いても大切な事であり、
勝者と敗者は、人間として同列である事を学ぶ事が大切です。
日本社会における問題は、勝者に常に価値を見出し、敗者を見捨て
排除しようとする傾向です。

勝者は、より驕り、敗者は、悔しさで勝者を憎みます。
そして、敗者は、心の傷を抱きながら絶え間ない努力を重ね
いつか勝者と成って目指していた地位を獲得します。
しかし、この事を、自分の価値が上がったと勘違いする人が多く
また、誰かを傷つける事と成るのです。

日本社会は、勝っても負けても人として成長できない、
他人よりも経済的な価値が優先する社会である事が
いつまで経っても人々の心を安心させず、人に対して
優しさを失い心を荒げやすくなっていると言えるのです。

スポーツに於いて、勝者は敗者の事をどの様な目で見られるかが
問われます。
自分が望む勝利は、相手がより強者で有れば有る程価値が有ります。
それは、負けるかも知れない相手に勝った事で、自分の勝利の
価値がより高まったからです。

しかし、この時、敗者と成った相手を罵倒したり卑下すれば、
自分の価値が一気に落ちてしまう事を知っています。
その為に、負けた相手に礼儀を尽くす事が大切なのです。

一般社会に於いても、人は、様々な環境で、社会の支える一端を
荷っていると言え、何でも手に入ると言う事は、自分の望む物は
誰かのお陰で手来ていると言う事実が有るのです。
自分とは全く違う分野にいる人であっても、何処かで自分の生活を
支えていると言う事です。

なぜ、成長過程に於いて、対人的マナーを習わなければならないか
それは、生きて行く間に、様々な人によって支えられている事を知り
関わり合った人に礼儀を尽くす事で、自分も他人から大切にされ
生きる喜びと安心を得られるからです。

今の世の中は、経済性によって支えられていても、人によって
支えられていると感じる事が少なくなっているのです。
便利で経済的に豊かな生活は、お金さえあれば手に入りますが、
心の支えが無ければ、どんなに豊かな生活をしていても、常に不安で
生き甲斐を見失ってしまうのです。
人を信じられる心を育てる事がいかに大切か、人を信じる事で
人から愛される人間になれる事を忘れた日本人は、とても哀れで
寂しいと言えます。

 



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