めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

先ずは自分の思いにチャレンジ

2015-01-06 15:37:28 | 新年の思い

ゆっくりとコーヒーを口に含ませ、過ぎ去った一年を思い浮かべています。
昨年のこの時期に書いた日記を覗いて見ると、新たなる気持ちで書いた
数々の誓いの思いが、しっかりと書かれた文字の筆圧の強さに読み取れます。

毎年の事ながら、今年こそはと言った思いが一年の計となり、気持ちを新たに

引き締める文章に、その時の決意が思い出されます。
しかしながら、その後の一年を振り返ると、新年の思いとは裏腹に
その半分も成し得なかった決意と、思いもしない予定外の出来事に翻弄される
無能さを知らされる結果になりました。

いつか大人に成り、自分の思う道をしっかりと前を見て歩き

思い描いた成果を上げる事が出来るのでしょうか。
頑張れば頑張るほど自らの無能さが自覚され、自分の存在すら否定されている様で
年を重ねるにつれて、未来に夢を抱く事すら否定的になったしまいます。

子供の頃や学生の頃は、大人と言う存在が、完成品の様に、なんでも自分の思いを

成し遂げて行く憧れの姿として映っていたものですが、現実の自分の姿を見ると、
とても、若い人たちのお手本にはならない事を思い知らされるだけでした。

世の中には素晴らしい先人が数多くいて、彼らの行い全てが自分とは異なった

特殊な能力で有るかのように思えてしまいます。
不平不満、期待と欲望は数々有れど、それを叶える技も力もないのが現状です。

しかし、こんな私も家族がいて、私を慕って付いてきてくれる人もいます。

こんなにも無能の人間から学ぶものが得るものが有るのだろうかと思っていしまいます。

人類は未完成ゆえに進歩したと言う人もいます。

いつも、思いが遂げられず、一生その無能さに苦しまなければならないのでしょうか。
今の生活よりもはるかに苦しく、今の知識や経験の10分の1も無かった若い頃の方が
何倍も心は豊かでした。

でも、こんな思いで毎年振り返ると、いかに自分は進歩していないのだろうかと

心悩んでしまうのですが、足踏みをしているような人生の日々が
思いがけない心を育てていることを最近知る様になりました。

一見マイナスと思われていた様々な行いや結果が、実は、新たなる知識を得たり、

新たなる可能性を知る為の大切な物であることが解って来ました。
沢山の勉強、努力は、良い結果を生む事よりも、自分の行い努力がいかに小さく
狭い物であるかを知る為にあるのです。

多くの知識を得ると言っても、世の中の全てを知ることは不可能であり、

逆に知らない事を自覚させられるのです。
沢山の努力も、その程度の努力では自分の思いを遂げるには余りにも足りない事を
自分自身に知らせる為に大切なのです。

つまり、自分の行ないは、結果の是非に関わらず、自分の求めるものをより明確にし

自分の人生をよりはっきりと自覚する為に有るのです。
一番いけない事は、何もしないでただ時の流れに身を任す事です。
それこそ、思いがけない事に巻き込まれたり、自分の無能さを曝されたりたりするのです。

私達は自分の人生をより明確に自覚する為に、様々な努力を重ねているのです。

自分がこの世に存在する意味は、誰にとっても永遠の未知なる課題です。
しかしながら、様々な努力をして自分を育てる事により、自他共にその存在を
浮き彫りに出来るのです。

今年もいくつかの目標を掲げ、様々な事を成し得ようと頑張るつもりです。

しかし、その結果は問いません。良くても悪くても、自分の行った努力や
行為によって、この1年自分が生きて来た意味が感じられると思うのです。

人類は未完成と言うのではなく、様々なやり遂げられない事を体験する事により

人類として生きて行くための道を見つけているのではと思うのです。

 



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