電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

明治初期の留学生の行先

2015年02月02日 06時04分54秒 | 歴史技術科学
文部科学省の「学制百年史」(*1)によれば、維新後に海外への留学生は急増し、留学生の選抜や規律等について、必ずしも良好とは言えなかったようです。そこで、政府は、明治3(1870)年に留学生をすべて文部省の管轄と定め、官選と私願の2区分に分けて試験で選抜することとしました。こうした制度改革に前後して、国費で留学生を派遣します(*2)。

1871(明治4)年には、第1回として長井長義、柴田承桂、菊地大麓、矢田部良吉ら11名が派遣されています。当方がわかる自然科学関係とくに化学分野で主な留学先を調べてみると、次のようになります。


■長井長義は、阿波藩の藩医の家に生まれ、長崎に留学して精得館で西洋医学をマンスフェルトに、化学をボードウィンに学んだ後に大学東校に進み、医学を目指してドイツに留学することになります。駐独代理公使の青木周蔵に下宿を斡旋してもらい、ベルリン大学に入学、リービッヒの教え子であるヴィルヘルム・ホフマンに化学を学びます。ヘルムホルツの植物学に惹かれながら化学実験に没頭するうちに、本来の留学目的である医学ではなく、化学・薬学の方向に転換してしまいます。ホフマンは長井を大学に留めておきたいと考えてドイツ人女性のテレーゼを紹介、二人は結婚します。

帰国後は、医科大学薬学科の教授となります。明治18(1885)年に、漢方薬の麻黄からエフェドリンを抽出発見し、後に化学合成が可能であることを示し、多くの喘息患者の症状を緩和することとなります。塩酸メチルエフェドリンは、交感神経興奮薬として今も感冒薬などに使われ、重要な意義のある発見でした。また、日本薬学会を創立し初代会頭に就任、テレーゼ夫人とともに女子教育に力を入れ、日本女子大学校に香雪化学館を創設し、最新の実験設備を備えて、後に帝国大学に入学する女性第1号の1人、丹下ウメを育てます。

■柴田承桂は、漢方医の家に生まれ、藩医・柴田家の養子となります。藩の貢進生として大学東校に進みますが、承桂も医師の道ではなく、化学・薬学者の道を選びます。長井長義とともにドイツ留学生に選ばれ、同じくリービッヒ門下生であるベルリン大学のホフマンの下で有機化学を学び、ミュンヘン大学で薬学・衛生学を学んだ後に、1874(明治7)年に帰国して東京医学校の薬学科教授に就任します。日本薬局方(1886)、改正日本薬局方(1891)の編纂などに携わります。

1875(明治8)年と1876(明治9)年、文部省は、東京開成学校在学生の中から第二次留学生を選び、海外に派遣します。この中には、化学関係では松井直吉(明治8)、桜井錠二(明治9)、杉浦重剛(明治9)らが含まれています。

■松井直吉は、美濃国大垣藩の出身で、大学南校でアトキンソンに化学を学び、文部省の国費留学生として米国コロンビア大学鉱山学科に留学、帰国後は帝国大学工科大学教授、同農科大学教授兼学長などを歴任、明治38年には東京帝国大学総長をつとめます。



  (photo:桜井錠二)
■桜井錠二は、加賀藩士の家に生まれ、父が早逝したために経済的な苦労をしますが、加賀藩のお雇い外国人教師オズボーンに英語で教育を受け、大学南校~東京開成学校でアトキンソンに学び、選ばれてロンドンのユニヴァーシティ・カレッジのウィリアムソン教授のもとへ留学します。初年度から首席となって奨学金を受け、有機水銀化合物の研究でロンドン化学会の会員として認められます。1881(明治14)年に帰国後は東京大学理学部講師となり、教授に昇進しますが、師匠と同じく原子論の立場を取り、初等中等教育における実験及び理論科学の重要性と意義を重視します。東京化学会の会長、東京帝国大学理科大学長となり、後の理化学研究所の前身となる研究所の設置をすすめます。

■杉浦重剛は近江国膳所藩の儒者の子として生まれ、漢学洋学を学び、藩の貢進生として大学南校に進み、選ばれて国費留学生としてイギリスに渡ります。はじめは農学を志すのですが、日本の農業には役立たないとこれを放棄、オーエンス・カレッジのロスコウ教授のもとへ移ります。ロスコウ教授は、実験観察を重視した優れた化学教科書を執筆発行したほか、南北戦争で失業したランカシャーの労働者のために「人民のための科学講義」という講演・教育活動を行うなどの事績が知られています。このあたりは、ファラデーの影響でしょうか。教授は、若い時代にユニヴァーシティ・カレッジでウィリアムソン教授に習っていますので、その点ではリービッヒ門下の孫弟子と言ってもよいでしょう。杉浦重剛は、ここではなんとか続いたようですが、さらにロンドンのサウスケンジントン校やロンドン大学に移ったら神経衰弱になってしまい、四年後の1880(明治13)年に帰国します。この後の国粋主義的言動は、おそらく英国留学時代の挫折経験が影響しているのではないかと考えられます。



このように、化学関係の留学生の行き先は、ほとんどがリービッヒ門下生またはその盟友の弟子たちのところであったということが分かります。リービッヒが開始した「実験室を通じて化学を学ぶ」という流儀が当時の大学教育を革新し、続々と生み出されるその門下生たちが、多くの大学に教授として就任していたわけですから、当然といえば当然の話です。

(*1):学制百年史:文部科学省
(*2):四:海外留学生と雇外国人教師~学制百年史:文部科学省
(*3):井本稔『日本の化学~100年のあゆみ』(1978,化学同人)


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