電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

閑話休題:配属将校の評判

2017年11月09日 06時04分26秒 | 歴史技術科学
戦前・戦中期の実験室のようすを調べるために、様々な回想記を読んでいると、配属将校への不満やあてこすりが多いことに気づきます。理屈っぽい理系人間だけでなく、大正デモクラシーの雰囲気を持った文系の人たちも、どうやら配属将校に強烈な不満を感じた人が多かったようです。確かに、学生の軍事教練が必修科目となり、理学部の化学教室前のペーブメントに学生を並べて「エイッ」「エイッ」と銃剣術等の訓練を強制するわけですから、場違いな感じは否めません。それに不服を言うとどうなったのかは記されていませんでしたが、一つだけ、亡父から聞いた事例がありました。

当方の高校時代(大阪万博前後)は大学紛争が高校にも影響を及ぼしていた時期で、ご多分にもれず「制服廃止運動」が起こっていました。制服廃止論者の主張は、「学生服は軍国主義の遺産であるから廃止すべきだ」というものでした。このときの生徒総会の様子を夕食時に話題にしたら、当時40代後半だった父が、こんなエピソードを教えてくれました。

山形県の村山農学校は、主として自営農家の子弟に農業を教える中等教育機関でした。亡父がこの学校に在学していたとき、いつも威張って嫌われていた配属将校から「学生服を廃止し、国民服を着用するべし」という提案が職員会議に出されたそうです。これに対して、M先生が反対意見を出します。「学生は学生服が一番だ。国民服など、あんなクソ色の服を学生に着せるのは反対だ」と言ったのだそうです。配属将校は「貴様!クソ色とは何だ!クソ色とは!」と烈火のごとく怒り、結局は国民服の着用が決まってしまった、とのことでした。M先生は学校にいられなくなり、まもなくおやめになってしまったそうです。

離任式等が行われたのかどうか不明ですが、職員会議の様子が学生に伝わっていたということは、他の先生の中に事情を教えてくれた人がいたということでしょう。配属将校への不満や、大政翼賛体制の下でなし崩しに進行する「会議等の手続き的には問題の無い」強制への不満などが、古き良き時代を知る師弟の間に共通する感覚だったのかもしれません。亡父にとって学生服は、むしろ平和な時代のシンボルだったようです。実は私自身が後にM先生の息子さんの知遇を得ることとなり、お父上のこのエピソードをお伝えしたところ、たいへん驚いておられました。実験室とは何の関連もありませんが、書き残したいと考えたところです。


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4 コメント

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これは小説になる! (おなら出ちゃっ太)
2017-11-09 20:48:14
故・吉村昭氏なら「これは小説になる」とおっしゃりそうなエピソードですね。
先生の気骨が鮮やかに感じられますし、怒った配属将校の顔色まで眼に浮かぶようです。
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おなら出ちゃっ太 さん、 (narkejp)
2017-11-10 06:05:04
コメントありがとうございます。亡父が教えてくれたエピソードは、たいへん印象的なものでした。同校の百年誌にもたぶん載っていないのではないかと思います。M先生は、たいへんおしゃれなジェントルマンだったそうです。
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双方の意見に耳を傾けるのは基本 (輪音)
2017-11-11 13:08:12
小説の書き手的見地からだと、配属将校たちの中間管理職的なジレンマとか彼らの思いとかを知りたいですね。
彼らは任務遂行のために命じていた訳ですし、軍隊に於いて上官の命令に逆らうことは危険とされています。
歴史的背景を考えることも大切ですし、配属将校皆が悪質だったとも思いがたいです。
片方のみの意見を聞いて論じるなかれ、は思考の基本かと存じます。

配属将校たちの本音を聞いてみたいものです。
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輪音 さん、 (narkejp)
2017-11-12 06:12:42
コメントありがとうございます。小説のネタにされるのであれば、ご自由にどうぞ(^o^)/
亡父によれば、国民服というのは「小便がかかると穴が開く」と揶揄されたような代物で、学生服のほうがずっと上等だったそうです。世の中全体に、国民服着用令みたいなお達しが出ていたようですね。
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