電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

有岡利幸『桃〜ものと人間の文化史157』を読む〜その1

2023年01月13日 06時00分39秒 | -ノンフィクション
山形の週末定年果樹農家として、サクランボや桃などを栽培していますが、来歴が比較的わかっているサクランボとは異なり、桃についてはその歴史を全く知りませんでした。「ももたろう」など各種民話に桃が登場し、桃の節句などというものがあるくらいだから、たぶん昔からあったのだろうとは思うものの、病害虫の多さなどを思えば、現在のような生食のできる桃が昔から栽培されていたとは信じがたい。結局は、桃の歴史は不明のままでした。たまたま図書館に行き、ぶらりと書棚を回遊していたところに、有岡利幸著『桃〜ものと人間の文化史157』(法政大学出版局)を発見、読んでみようと手にした次第。

それによれば、縄文時代、長崎県の6000年前ころの遺跡で桃の核が多く出土したところから、この頃には桃が長崎県まで伝わっていたことがわかるとのことです。また、平城宮の庭園には桃が植えられ(p.50)ており、桃の歌も作られていたけれど、平安期主流の和歌は梅を尊び桃を排除した(p.64)らしいこと、3月3日と雛遊びが江戸期に結びついた(p.106)らしいこと、などがわかりました。これらの桃はもちろんいわゆる在来種で、花を愛で、あるいは薬用や救荒植物として植えられていたもののようです。



江戸時代、天明5(1785)年4月に、菅江真澄が出羽国を訪れ、桃の花盛りを記している(p.150)そうで、これもいわゆる花桃、花を愛でるためのもので生食果実ではないようです。これに対して、元禄10(1697)年、宮崎安貞が著した『農業全書』には、中国から伝わる果実を食用とする桃の品種が渡来しておりこの栽培法を記している(p.176〜8)とのことです。花桃に対して果桃というとらえ方ができるでしょうか。
江戸中期の享保・元文(1716〜41)年間に全国で作成された「諸国物産帳」に主な農作物の一つとして、桃の品種数が報告され、例えば出羽国では庄内領に4種、米沢領に2種、全国では計52種となっている(p.181〜4)そうです。品種としては庄内領が源平桃、ずばいもも、白桃、緋桃の4種、米沢領がずばいもも、秋桃の2種とのこと(p.186)です。大きさは中、味も中とされていることから、食用桃であることは間違いないようです。

近世の下北の桃は救荒作物の一種(p.192〜4)で、「じんべえもも」は果実の小さなネクタリン(油桃)であり、土地の人たちは飢餓に備えて絶やすなと伝承、豊産性で凶作の年にもよく結実するため、干果、漬物、砂糖漬など保存食として備えると共に、近隣で販売あるいは漁村の海産物と交換していたとのこと。これはいわゆる在来品種です。

これに対して、明治10(1877)年、第1回内国勧業博覧会で雛祭りの行事が復活、明治37〜8(1904〜5)年の日露戦争の頃、夫婦雛が「夫婦相和」に利用されて百貨店が売り出し始め、昭和11(1936)年、サトーハチロー作詞・河村光陽作曲の童謡「うれしいひな祭り」のレコード発売で「ひな祭り=桃の花」が全国に広まったこと、などを知りました。

※やや長くなりそうなので、記事を2回に分けることとします。


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2 コメント

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楽しみにしています (美恵子)
2023-01-13 10:12:36
桃の産地に住む人間にはとても興味のあるお話しです。
楽しみにしています。
桃の花は色が濃くてきれいですね。
美恵子 さん、 (narkejp)
2023-01-13 17:12:17
コメントありがとうございます。桃の歴史、たいへん興味深く読みました。続きは明日、投稿の予定です。桃の花、きれいですね。果樹園で桃の花が咲き始める頃は、ほんとに桃源郷という言葉のとおりです。桜と違ってなかなか散らないので、終わりの頃はだいぶ色がさめてしまいますが、そのあたりが平安期の人々に無視された理由かも(^o^)/

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