農業機械が導入される前の農作業について興味を持ち、2014年に未来社から刊行された単行本で、田原開起著『百姓と仕事の民俗』を読みました。こういう本は検索でピンポイントに出会うことはなく、たいていは図書館の棚の中で見つけることが多いものです。今回も、図書館の棚を巡る中で見つけたものです。
著者・田原開起(たはら・はるゆき)氏は1937年に広島県に生まれ、公立学校教員や教育委員会の社会教育分野で仕事をした後に、1998年に定年退職、その7年後、大学院の修士課程を修了したという経歴の方らしい。その後は農業に従事とありますが、お元気なら今年で86歳になるはずです。出版社の紹介文には、次のようにあります。
農業機械を導入する前の農作業について関心を持っている者にとっては実に興味深い内容ですが、本書の構成は次のようになっています。
古希を過ぎた私の年齢でさえ牛耕の記憶はおぼろげで、たしか小学生の頃に耕耘機が導入されたのだったはずです。それでも牛と馬の習性の違いが馬道と牛道の違いになってくるというところが新鮮です。馬は平坦な道を好み、馬道は現代の道路につながるのに対し、牛は上り下りに強いため、山坂を越える峠道は生活道路として集落を結び、また塩や海の幸を運んだとあります。なるほど、軍馬はまぐさの提供を必要としますが、牛は途中のあぜ道の草を食みながら旅ができるのですから、荷駄を積んだ牛は明治以前には重要な物流手段だったのでしょう。
稲作だけでなく麦との二毛作の記載もあり、農作業の一年間の描写も興味深いものがあります。冬、藁打ちをする父の姿は確かに記憶がありますし、田植えまでの一連の仕事、堆肥振り、耕起、畦塗り、代掻きなどの大変さは重労働だったと思います。田植えの後も田んぼに入って一番除草、二番除草とスケジュールがあり、いずれも人力が基本でしたから、入市被曝者で原爆症だった父にはさぞ過酷な労働だったことでしょう。非農家出身でありながら、気丈な母がよく手助けをしてくれたおかげで、なんとかやれたということなのだろう。農業機械は父母を過酷な労働から解放した面があることは否めないと思います。
とはいえ、百姓が生み出した知恵は現代に通じるものも少なくない。例えば「段取り八分」は有名ですが、「仕事に呑まれる」(p.240)という表現は現代の私たちにも実に納得できるものです。すなわち、春の耕作はじめに、若い頃は「よし、やるぞ」と奮起しますが、年齢とともに「今年は予定通りできるだろうか」と不安になる。眼前の仕事に圧倒されるのを「仕事に呑まれては駄目だ」と弱気を戒めるのです。
若い頃、膨大な集計と統計処理を担当し、その量に圧倒されたこともありました。640KBのメモリしかないMS-DOSパソコンの表計算に入力しながら、何度もため息をついた記憶があります。専業農家となった今ならば、春先に剪定枝を片付けるとき、初夏、鈴なりのサクランボの収穫を始めるとき、仕事量に圧倒されて弱気になり、逃げ出したくなりますが、たしかに圧倒されていたらできるものもできなくなる。例えば午前中だけやろう、今日はここまでやろうと区切りを作り、少しずつやっていればやがて終わりは見えてくるものです。先人の知恵ですね。
著者・田原開起(たはら・はるゆき)氏は1937年に広島県に生まれ、公立学校教員や教育委員会の社会教育分野で仕事をした後に、1998年に定年退職、その7年後、大学院の修士課程を修了したという経歴の方らしい。その後は農業に従事とありますが、お元気なら今年で86歳になるはずです。出版社の紹介文には、次のようにあります。
「一世代前が百姓らしい最後の『百姓』であり、私たちの世代が『百姓』から『農業従事者』への移行の世代だともいえる。/私たちの次の世代は、ハイテクを組み込んだ農業機械とともに生きる『農業従事者』の世代である。」
広島県央の古老たちに長い時間をかけて「聴き取り」をし、消えゆくその言葉と「農作業」の具体例を、たくさんの写真とともに記録した貴重な資料集。自然と闘いながら、同時に身を委ね、日々を重ねてきた「百姓」たちの姿が浮かび上がる。
農業機械を導入する前の農作業について関心を持っている者にとっては実に興味深い内容ですが、本書の構成は次のようになっています。
第一部 百姓の四季
第一章 人と牛
I 人と牛の出会い/II 同伴者としての牛/III 牛馬と人と農耕/IV 牛耕とその終わり/V 件
第二章 農作業の一年間
I 冬のあいだの仕事/II 田植まで/III 田植のあとも続く作業/IV 水田の仕事が一段落/V 収穫の秋 十月/VI 秋が終わって一段落/VII 晩秋から冬(次の年への準備)/VIII こぼれ話
第二部 百姓が生み出した知恵
第一章 自然や人と響き合って生きる知恵
I 仕事から生まれた労働の知恵/II 仕事で鍛えられた子ども/III 円滑な共同体につながること/IV 仕事体験のなかのたわいない話
第二章 地域文化を考える
I すたれゆく挨拶言葉/II 語り伝えられている風俗/III 語り伝えられている風物
古希を過ぎた私の年齢でさえ牛耕の記憶はおぼろげで、たしか小学生の頃に耕耘機が導入されたのだったはずです。それでも牛と馬の習性の違いが馬道と牛道の違いになってくるというところが新鮮です。馬は平坦な道を好み、馬道は現代の道路につながるのに対し、牛は上り下りに強いため、山坂を越える峠道は生活道路として集落を結び、また塩や海の幸を運んだとあります。なるほど、軍馬はまぐさの提供を必要としますが、牛は途中のあぜ道の草を食みながら旅ができるのですから、荷駄を積んだ牛は明治以前には重要な物流手段だったのでしょう。
稲作だけでなく麦との二毛作の記載もあり、農作業の一年間の描写も興味深いものがあります。冬、藁打ちをする父の姿は確かに記憶がありますし、田植えまでの一連の仕事、堆肥振り、耕起、畦塗り、代掻きなどの大変さは重労働だったと思います。田植えの後も田んぼに入って一番除草、二番除草とスケジュールがあり、いずれも人力が基本でしたから、入市被曝者で原爆症だった父にはさぞ過酷な労働だったことでしょう。非農家出身でありながら、気丈な母がよく手助けをしてくれたおかげで、なんとかやれたということなのだろう。農業機械は父母を過酷な労働から解放した面があることは否めないと思います。
とはいえ、百姓が生み出した知恵は現代に通じるものも少なくない。例えば「段取り八分」は有名ですが、「仕事に呑まれる」(p.240)という表現は現代の私たちにも実に納得できるものです。すなわち、春の耕作はじめに、若い頃は「よし、やるぞ」と奮起しますが、年齢とともに「今年は予定通りできるだろうか」と不安になる。眼前の仕事に圧倒されるのを「仕事に呑まれては駄目だ」と弱気を戒めるのです。
若い頃、膨大な集計と統計処理を担当し、その量に圧倒されたこともありました。640KBのメモリしかないMS-DOSパソコンの表計算に入力しながら、何度もため息をついた記憶があります。専業農家となった今ならば、春先に剪定枝を片付けるとき、初夏、鈴なりのサクランボの収穫を始めるとき、仕事量に圧倒されて弱気になり、逃げ出したくなりますが、たしかに圧倒されていたらできるものもできなくなる。例えば午前中だけやろう、今日はここまでやろうと区切りを作り、少しずつやっていればやがて終わりは見えてくるものです。先人の知恵ですね。
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