毎日の通勤で、県都・山形市に通勤しておりますが、山形市内へ入るのには必ず川を渡らなければならず、その橋の前後の信号で渋滞が発生することが多いようです。
この、市内に入るには必ず橋を渡らなければいけない、すなわち山形市内は川に囲まれているという地理的条件は、戦国時代であれば防衛上大きなメリットだったのでしょう。中央部の霞城公園のあたりに山形城があり、その周囲に旧市街地が広がりますが、この範囲がほぼすっぽりと三の丸の内に収まるのですから、山形城が日本有数の規模を持つ平城であった(*1)ということになります。
庶民の区画までを城の中に囲い込む形は、おそらくは小田原城に範をとったものでしょうが、今もなお「総構え」の規模と配置が踏襲されていることに、最上義光の先見性を感じます。最上氏の没落以後は、大名の度重なる配置転換で所領も削られる一方となり、大きすぎる城を維持することが難しくなります。分不相応の城を維持しなければならないということは、小規模な大名にとっては大きな負担で、どうしても維持できない部分が多くなっていったのでしょう。幕末にはすでに二の丸の内部でも荒れ果てていた箇所が少なくなかったようです。
(*1):山形城~Wikipediaの記述より
この、市内に入るには必ず橋を渡らなければいけない、すなわち山形市内は川に囲まれているという地理的条件は、戦国時代であれば防衛上大きなメリットだったのでしょう。中央部の霞城公園のあたりに山形城があり、その周囲に旧市街地が広がりますが、この範囲がほぼすっぽりと三の丸の内に収まるのですから、山形城が日本有数の規模を持つ平城であった(*1)ということになります。
庶民の区画までを城の中に囲い込む形は、おそらくは小田原城に範をとったものでしょうが、今もなお「総構え」の規模と配置が踏襲されていることに、最上義光の先見性を感じます。最上氏の没落以後は、大名の度重なる配置転換で所領も削られる一方となり、大きすぎる城を維持することが難しくなります。分不相応の城を維持しなければならないということは、小規模な大名にとっては大きな負担で、どうしても維持できない部分が多くなっていったのでしょう。幕末にはすでに二の丸の内部でも荒れ果てていた箇所が少なくなかったようです。
(*1):山形城~Wikipediaの記述より