電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

文明開化とは言うものの~技術が支持され普及する理由

2016年02月07日 06時01分24秒 | 歴史技術科学
開国と明治維新によって、国策として導入し始めた西欧の科学技術は、明治の日本社会に無条件に受け入れられたわけではありませんでした。好奇心から新しいものに手を出しても、現実に適合しなければ、やがて捨てられるのが世の常です。例えば明治期の繊維産業における染色技術を例に取ることで、西欧の技術が受け入れられた理由を推測することができます。

絹や羊毛などの動物繊維は、紅花だけでなく塩基性アニリン染料によく染まり、鮮やかな色に発色します。これに対し、木綿や麻などの植物性繊維は、塩基性アニリン染料では染まりにくく、水洗いすれば色落ちしてしまいます。すでに江戸末期に輸入されていた染粉(化学染料)は、草木染の地味な色や、藍染めの複雑で面倒な工程と高経費を改善するものとして期待されたのでしたが、実際は水洗いすると色落ちしてしまうために、粗悪な「まがい物」として認識されており、文明開化とはいうものの、塩基性アニリン染料など化学染料に関する技術は、ひろく社会に受け入れられる状況にはなかったようです。

1885(明治18)年、農商務省主催で、東京上野公園において、繭糸織物陶磁器共進会が開催されます。ここでは、出品物の展示と表彰だけでなく、技術的啓蒙のための講話と経験交流のための集談会が開催されました。織物分野では、粗悪な「まがい物」が跋扈し問題となっていた染色の問題を背景に、三人の技術者が話しています(*1)。
その三人とは:

  • 山岡次郎 維新直後の福井藩推薦米国留学者で、コロンビア大学鉱山学部等で化学及び染色法を修め、明治8年6月に帰国して文部省督学局に採用され、開成学校、次いで明治10年に東京大学助教授として化学及び染色法を教える。明治14年より農商務省御用掛。この集談会のプロデューサー的な役割。
  • 平賀義美 福岡県出身。長崎で英学を修め、明治3年に福岡藩貢進生として大学南校に入学、外国人教師の化学実験に感動して化学を志し、旧福岡藩主の給費生として英国留学、オーエンス大学で染色術を専攻。1881(明治14)年に帰国したばかりの新帰朝者。翌年に平賀家の養子となり改名。兵庫県川西市に実験研究棟・化学実験室付きの英国風西洋館である旧平賀邸が残る。

     (Wikimedia commons より「川西市郷土館」)
  • 高松豊吉(*2) 貢進生として大学南校・開成学校・東京大学理学部化学科に入学、アトキンソンに化学を学ぶ。1879(明治12)年~1882(明治15)年まで英国マンチェスターのオーエンス・カレッジでロスコウから無機化学を、ショルレンマーから有機化学を学び、ドイツのフンボルト大学ベルリンに転学、ホフマンに師事して応用化学を修めた。染料化学の新帰朝者である。

     (晩年の高松豊吉~Wikipediaより)

     (高松豊吉らを指導したカール・ショルレンマー~Wikipediaより)

というもので、いずれも理論と実験と通じて化学を学ぶという共通の経歴を持つことが注目されます。

この集談会の主要なテーマは、当時の中心的産業でありながら、粗悪な製品が染織物全体の評価を下げている染織業の現状に対し、紅花染には高い評価を与えつつ、基礎知識と技術の確立を目指すものでした。具体的には、

  • 色素には「永存スル」ものと「永存セザル」ものとがあること(染料の性質)
  • 繊維ごとの染色特性の違い、媒染剤と染色堅牢度などの基礎知識
  • 染色化学の習得とその上に立つ技術の練磨が急務であること

などを説きます。同時に、高松と平賀がアリザリンを中心に媒染剤に応じて鮮やかに色を変える技術を示したことは、聴く者に強い印象を与えたことでしょう。

確実な知識と技術の有効性が、染織業の振興の基礎となっていること、担い手となる技術者を養成する職工学校の設立と、指導する大学出身の化学者の存在が、当時の社会に印象深く受容されたことでしょう。すなわち、文明開花や当時の大学の権威は、国家の威信のゆえではなく、産業技術として有効だったために一般社会から信頼と尊敬をかち得ていたのだろう、ということです。このことから、新しい技術や科学思想などが社会に広く受容されるのは、一定の有効性が実際に示され、そしてそれが在来産業の技術進歩にも貢献したからではないか、という一般化ができそうに思えます。

(*1):中岡哲郎『日本近代技術の形成』(p.169~171)
(*2):高松豊吉~Wikipediaの記述。なんでも、お笑い芸人の たかまつ・なな さんの曽祖父にあたるそうです。

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