曇り。
昨夜というか、未明に激しい雨が降っていたようで、雨音で起こされてしまいました。もっとも短時間であったようですが。そのおかげで、早朝は、秋の気配が…風が違いますね。窓を開けると、もわっとした空気ではなく、普通の風が吹き込んできました。ほっ。
さて、学校です。
今日は、休み中の「漢字テスト」最終日。来週の火曜は、その週に新学期が始まることもあり、教員の会議などがあるので、お休みです。テストは、計5回。皆勤の人もいましたし、「(来ないので)今のレベルで大学に行きたいと言っているのか」とメールを送った人もいました。それを見たからでしょう、泡を食って飛んで来ました。
大半の者は、2,3回は来たけれども、あとは疲れた…。学校に来てから練習していた者もいましたが、「N3テスト」とは違い、「N2」にもなると、それだけで合格…とは参りませんね。やはり、直前に、一度は見直すにしても、事前の練習が必要です。今まで(N3まで)は、それで「合格できていた」と、己に才あるかのごとく、誇っていた輩も、きれいさっぱり、バッサ、バッサと切られていきます。
その反対に、最初は、才無げに見えたコツコツ型の人たちが、そういう要領のいい連中を尻目に、合格していきますから、やはり努力は人を裏切らないのでしょう。漢字であってみれば、この「N2」くらいまで来なければ、できるできないの差は、その人にしてもわからないと見えます。
要領よく、国でもやって来ていて、日本でもそれでやれるかと思いきや、日本人は、要領がいいというのを、勉強では余り認める傾向にはありませんものね。
そういえば、中国人の学生がこんなことを言っていました。
「あの人は、頭がいい。すぐに暗記できるし、話もできる。でも、日本人はそれをあまり認めませんね。褒めません。どうして?中国だったら、『あの人は頭がいい』と皆が言い、そして、それだけで、別格にしてもらえるのに」
社会に出れば、また違う部分も出てくることでしょうが、こと学校での勉強に関して言えば、「学問に対して誠実であること、才に傲らず、コツコツとできる」ことが大切。「天才の99%は努力からなっている」と、しごく生真面目に信じているのが、日本人なのかもしれません。天才でもないのに、何をえばっていると言われて終わりです。
職人気質を尊ぶ国民性から来ているのかもしれませんが。
実際、最初からきちんと「習ったように書く」という練習をしてきた学生は、半年も経たぬうちに、(漢字も)それなりの形になってきます。反対にテストの時だけ、パパッと練習し、暗記して来た学生は、漢字一つにしても、まだ、歪な形をしています。これまで漢字を教えてきた教師が、幾度となく、漢字のパーツのバランスや、部首などの指導をしてきているはずなのに、それができていないのです。言われるままに、その都度、練習を欠かさなかった学生達の字とは、明らかな差があります。
日本の社会では、「要領がいい、『適当』に頭がいい」というのは、余り褒めそやされません。「上」(どんなに努力しても敵わない人)があるのを小学校の頃から、嫌でも知らしめられているからでしょう、普通の日本人は。
こういう言い方は嫌だ、差別だと言われるかもしれませんが、インド圏などから来た学生を教えていると、否応なく、感じさせられてしまうことがあります。
「自分はできる」と思っているのです。あるいは、「自分は大学へ行ったから、頭がいい。知識がある」と思っているのです。そういう人が、本当に多いのです。
最初は、そういうエリート意識で、日本の普通の人(市井の人です)を見てしまうので、大変です。日本人は彼等よりもずっと知識があっても、もっとある人を身近に見ているので、だれも何も言わない。誇らない。誇ったりするのは生半可な知識のある人だけという気持ちが強いのです。
専門学校や大学を選ぶときにも、「もう、高校で勉強した」と言います。しかし、イギリス式の高校が多いので、高校卒と言っても、数学の高校でなければ、算数も満足にできない(日本の、習ったけれども、わからなかったというのとは違います。学校で習っていないのです)。知識も偏っていて、基本的なことも知らない(日本語のレベルは関係ありません)
だから、まず、「知らないことがたくさんある」という、日本人なら当たり前のことを、納得させておかねばならなくなるのです。これが、だいたい一年ほどが過ぎた段階でしょうか。聡い人なら、半年ほどで気がつきます。
こういう国では、截然とエリート教育がなされ、一般大衆の教育とは切り離されているとしか、思われないのです。大きく、三つでしょうか。ほんの一握りの超エリートと、高校や大学へ行くことのできる経済力のある家庭の子、そしてそれ以外の大勢です。超エリートと、それ以外の人たちとの差たるや、平均的な日本人からすると、想像を絶するとしか言いようがありません。
まずは、「皆、同じ教育を受けさせろよ」と言いたくなってしまうのですが。これも、日本では公教育で、先生が三年か四年、あるいは五年でほかの学校へ行くということがあるからでしょうし、公教育では教師のレベルがだいたい同じであるということも関係しているでしょうが。
今、二年生で、専門学校を見に行くときに、困ったことが起きています。日本人が多くを占める専門学校なのですが、その学校案内に、いろいろなコースが書かれてあるのです。それを見て、「私が勉強したいのは、ソフトです。それはありません」と言うのです。
多分、一事が万事なのでしょう。私はITの事はわからないので、ため息をつきながら、「まず、行ってごらん。行って、何をしたいのかと聞かれたときに、ソフトですなんて答えないでね。英語でも紹介は書かれてあるから、それをよく見てから、行ってね」
自分たちが高校で勉強したことが、世のすべてであるような感覚だけは、願い下げです。
日々是好日