日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「毎日が『舞台の初日』。なれない、なれない」。

2011-02-28 08:30:49 | 日本語の授業
 今日も快晴といきたいところですが、今日は雨、この降り方ですと、一日中雨ということになるかもしれません。
 
 さて、今日で2月とも「おさらば」です。全く何と早く過ぎ去ろうとしていることでしょう、如月という月は。2月が始まったと同時に、行事やら何やらかにやらが、目白押しにやってきて、で、押されて押されて、頭の中が何ともかんとも判らぬうちに、どこぞへ追いやられしているような案配です。そして3月になる…のです。とはいえ、3月も「去る」ですからね。もしかしたら2月よりも、もっと速く過ぎていくのかもしれません。

 先週はとても忙しかった…。その上、土曜日に治療院に行ってからは、グッタリとしてしまって、友人の「どこかへ行こう」という誘いも、「申し訳ない。またいつか」と断ってしまいました。こういう友人の誘いは、おそらく自分からは出ることなどしないであろう私のような性格の者にとっては、得難いことであるにもかかわらず(大体、できる限りは応じることにしているのですが。出た方がいいというのは事実ですから。ただ急は困る)。

 というわけで、部屋でぼんやりとすごしてしまいました。といって言われた治療などせずにです。どうも動くという気力が湧かないのです。困ったことです。日曜日は、一日中、ウツラウツラしているだけ。まるで、このまま終わりが来てしまうのではないかと毎週思ってしまうほどなのですが、不思議なことに学生の顔を見た途端、シャキッとしてしまうのです。

 学生はまた学生で困っているでしょうね。ボウッとしているから、「よし、今日は大丈夫だ」と思い込んで近づくと、バッサバッサとやられる。狐にでもつままれたような気がしているかもしれません。

 まあ、そんなこんなで、この仕事をしている限りは、「五日は人並み、二日はどこかへ
半分足をつっこんだ」状態で続けていくことでしょう。

 その上、百年生きようと、千年生きようと、今日という日は永遠に舞台の初日のようなものですから、大変です。なれません。毎日に、「常に失敗の思い」がつきまといます。

 ところで、日本の政治というのは、私たちに一番身近で、その善し悪しで私たちの幸福度も増したり減じたりするものであるにも拘わらず、私たちの視線は、日本の政治からは遠く隔たっています。あるいは隔たっているように感じられるだけなのかもしれませんが。

 何となれば、国民は、数年に一度、自分達の権利を行使することが出来るからです、曲がりなりにも。ただ、これにも「ごまかし」があって、たとえ投票率が10%に過ぎずとも、その10%のうちの1%しか支持されていなくとも、「万歳」という声は毎回聞こえてきます(つまり、誰かが必ず当選しているのです)。

 国民も「おかしい」ということは勘づいているのですが、本来、それをどうにかする、またしなければならない人達が、自分達に都合のいい、この形を変えるはずもありません。別の機関が決めた方がいいでしょうに、その権限も譲ろうとはしません。これでは、他の国の人達から「やはり、日本人は民主主義がわかっていないのだ。それに、その形をよくしていくこともできないだろう。なぜなら、できるようにしてやっていても、それを利用できないのだから」と言われても仕方がないのです。

 自分の国への不満を言いながら、北アフリカで起こっている反政府運動を見ています。「自由」や「民主」という言葉は、自分達から遠く離れているときは、本当に美しく、憧れてしまうものなのですが、いざ手にしてしまうと、どう扱っていいのかわからず、放り出してしまうものなのです。そうではありませんか。自分の国を見るまでもなく、大体、突然に「自由」や「民主」などを手に入れた国は、そんなものです。「民度」が熟していないのです。

 「憧れている」ときには、その言葉に含まれている、ある意味では劇薬、あるいは毒とでも言った方がいいのかもしれませんが、「義務」や「責任」なるものが、見えていないのです。ですから、その存在すら気づいていないのです(知っていたら、独裁の方がいいと言うかもしれません。みんな「混乱」は嫌なのですし、「努力」も嫌なのです。もちろん「義務」も「責任」もしたくないのです。

 「さあ、民主主義国家になった」と言われても、それは形だけのことであって、「これで自由になった。何をしても良い。さあ、仕事をくれ。平等なんだろう」と言うことになってしまうのです。

 「何を以て平等とするか」が欠けているのです。知識も技術もない。そういう人と知識も技術も見識もある人とが同じ給料というわけがないのです。その知識や技術を獲得できるだけ(研修や学習)の時間を、そういう個々の人に与えようとしても、その人は、待つことができないのです。待てないので、「民主主義になったのだろう?平等になったのだろう?だから、くれ!今、欲しいのだ」と叫ぶだけでしょう。

 いやはや、「民主」とか「自由」とか言うものは、つくづく手に負えない代物だと思います。そういうものを考えついた「ヒト」という動物は、元来、オオカミやライオンの持っている能力を何一つ持っていません。鋭い牙も爪もない。強い力も敏捷な行動力もない。人が百獣の王たり得ているのは、ただ単に「多くの人と協力する」力を備えているだけのことなのです。しかるに、それも往々にして忘れてしまう。

もちろん、これは他人事ではなく、己を顧みてもそうなのですが。

日々是好日