日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「英語のレベルチェックと、クラスの仲間の助け合い」。

2011-02-23 08:17:48 | 日本語の授業
 快晴です。雲一つありません。中天に、昼の月とも言いたいような、薄い半月がかかっています。

 さて、私はこの冬、鉢植えの花を三つ買いました。一つは「バラ(薔薇)」、一つは「ツバキ(椿)」、そして、あと一つは「シャクナゲ(石楠花)」です。「シャクナゲ」はまだまだ堅いつぼみですから、店頭で言われたように淡いピンクになるのかどうかはわかりませんが、「バラ」と「ツバキ」は色がはっきりしています。「バラ」が赤で、「ツバキ」が白なのです。

 今朝、この二つの花を見ているうちに、なんだかだんだんおかしな気分になってきました。どうして、この色の、この花を買ってしまったのだろうかと、不思議な気分になってしまったのです。

 私は「『ツバキ』というのは、寒椿のことであり、赤に限る」と、ずっと思っていましたし、「バラ」「バラ」で、「『バラ』の赤は強すぎる。ピンクは軟弱だ。白に限る」と、これもまた、そう思い込んできたのです。ところが、買ったのは全く反対、白い「ツバキ」と赤い「バラ」だったのです。気の迷いだったのでしょうか。もっとも、花に罪はありません。白い「ツバキ」など、すっくりと伸びた茎の先に白い花が咲いているのはなかなか見応えがあり、それはそれできれいですし、赤い「バラ」も小花であるからでしょうが、圧迫感はありません。

 とは言いましても、人というのはおかしなものですね。ずっと思っていたことと全く反対のことを、不意にしてしまうのですから。花なら、それはそれなりに楽しめるでしょうが、花のようなものではなかった場合、かなり厄介なことになってしまうでしょうね。

 早朝から、とりとめもないことを考えてしまいました。おかしなものです。

 さて、学校では、この四月から、上のクラスになる人達に、週一で英語の授業を入れることになりました。「国際関係」や「語学」を大学の専攻に選ぶ学生には、英語はどうしても必要になりますし、そうでない学生でも、一応英語の「イロハ」くらいは入れておいてやらないと、大学で困るだろうとの思いからなのですが、なかなかこういう学校側の気遣いは学生には伝わりにくいものらしく、それぞれがそれぞれの思いでとらえてしまいます。

 それは、自分の英語の力の程度というのが判らないことからはじまったり、母国でろくな教師がいなかったことからくるアレルギーであったりするのですが。一番大きいのは、自分の程度を過信していることから来る思い込みでしょう。日本人ならかなり英語ができる人でも、上があることをよく知っていますから(これが大きいのです。これは、遠慮から来るものでも、謙虚さから来るものでもないのです。上があることを知っているかどうか、その判断ができるだけの力があるかどうかが肝心要なのですが)、なんとかなるのですが、そこまで行っていない人達は、やや厄介な存在となります。

 日本語の中にも他国の言葉はカタカナ語として、かなり入っています。が、その知識だけで「私は英語がわかります」と言う人はまずいないでしょう。けれども、そのカタカナ語程度の英語力しかないにもかかわらず、「わかる。わかる」と、そう叫ぶことの出来る人もいるのです、国によっては。

 その上、あくまで「聞く」「話す」中心の英語教育を受けてきている人達は、日本式の「読解力」を問う英語教育のやり方にはあまり馴染めませんから、「話せ」と言われれば滔々と英語で話し続けることが出来る人でも、さて米英の文学者や識者の書いた文章を黙読させ、英語による問に答えを書かせていこうとすると、はったと筆が止まってしまうのです。

 そういう人達が一つの教室の中で、同時に学んでいくことになるのですから、教える方はなかなか大変です。時間を区切って、それぞれのレベルに合わせてやるしかないのでしょうが。

 ただ、救いはクラスメートの仲がいいことです。昨日、英語のレベルをチェックするために、クラスに入ってもらったのですが(私も同席していました)、英語が全く分からなくて、悲しんでいた学生のそばには、フィリピン人の学生がぴったりと寄り添い、「先生、大丈夫。いつも漢字を教えてもらっているから、今度は私が英語を手伝います」と言って彼女を力づけてくれていましたし、いつもは遠くに座っている学生同士でも、いざ相手が自分を必要としていることがわかると、すぐにそばに行ってくれました。

 こういう学生達を見る限り、この一年間は無駄ではなかったのですね。この中には三名ほど、違うクラスから来ている人もいるのですが、すぐにクラスの雰囲気に馴染めました。これも、彼らの前のクラスと同じ雰囲気だったからでしょう。こういう意味からも、クラス作りというのは大切なのです。みんながちゃんと前向きに勉強しようとしている。それを互いが判っている。そしてそれぞれの辛さ、問題点も(一年ほどを共に過ごせば嫌でも分かるようになりますから)わかる。こうなってくると、教師は「教える」だけでよくなるのです。

日々是好日
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