ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

ミント風呂

2020年06月22日 18時17分18秒 | 田舎暮らし
はびこっていたミントを思いっきり刈り取って、風呂に入れた。
ざまぁ~~みろ!
家の前のミニ菜園がこれですっきり!
さまぁ~~みろ!
そして風呂はミントの香りいっぱい!
肌もすべすべ、とっても気持ちよかったよ。
どう?みんなやってみない?
ハーブ退治・・・じゃなくてハーブ風呂。
バケツいっぱい摘み取って風呂に入れたら、
う~~~ん、最高!
酒が進む!進みすぎる!!
今宵もまた酔っぱらっているのでありました。

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赤い鳥(5)

2020年06月22日 02時48分35秒 | 田舎暮らし
明治になってたくさん外国から(お雇い)外国人がやって来た。
「お雇い外国人」なんて言い方とっても失礼だと思うけど、当時の明治時代人、
外国人に頼らないでなんとか早く日本人だけで西洋を追い越したい!
そんな明治人の気持ちがとっても感じられる言葉だ。

そこらへんは今の日本人とまったく違うよね。
憲法9条を守ろうね、日本人の命は外国人に任せようね、頼ろうね、委ねようね。
明治人はこんな情けない国民ではなかった。
自分の命は自分で守る、自分たちの家族は自分たちで守る、自分たちの国は自分たちで守る。
こんな当たり前のことがわかっている人たちだった。
国を卑しめるのが正しいことだと、その実、国を売って自分たちの飯の種にする、こんな卑しい人間はいなかったよ。
いえいえそうじゃなくって、唱歌の話だったね。
音楽の分野でも多数の(お雇い)教師がやって来た。
そしてほとんどの人は、すっかりうんざりして帰っていった。
「これほど音楽に才能のない民族はない!」と言って。
当時音楽というと日本では「謡曲」や「清元」や「常磐津」や「詩吟」や「義太夫」や・・・
こんな風土からどうして西洋音楽が生まれることができるだろう?
そこで明治政府は西洋音楽を普及させるためにまず西洋の歌を日本語の詩に置き換えて学ばせた、
明治14年「蛍の光」
明治17年「庭の千草」
明治21年「故郷の空」
明治22年「埴生の宿」
でもまあこれは仕方ないこと、西洋音楽をなじませるためには歌詞を変えて、日本の歌として普及するほかない。
そうそう「故郷の空」を元の詩通りに「誰かと誰かがライ麦畑でキスをした・・・」なんて、
そんな歌を小学生に歌わせられないよね。
そして次第に歌詞の翻訳だけでなく次第に作曲する人が出てきた。
明治39年「青葉の笛」は平家物語に材をとったオリジナルの日本の歌。
こうしてずいぶん時間がかかったけど、
「これほど音楽に才能のない民族はない!」
と言われてきたけど、
次第に西洋音楽を日本のものとしてきた。
大正2年の「早春賦」これはモーツアルトの「春への憧れ」のパクりだと言われても仕方ない面はあるけど、
これが「知床旅情」になるともはやまったく日本の歌。
もともと日本に3拍子の歌はなかった。
すべて2拍子4拍子系の歌。
日本民謡もみんなそう。
ところが唯一の例外は「五木の子守歌」
これは3拍子。
でももともとは「五木の子守歌」は3拍子ではなかった。
それを3拍子に編曲したのが今、朝ドラのモデルになってる古関雄二。
そして「五木の子守歌」が全国に広まった。
今では普通に誰でも3拍子の歌を歌えるけど・・・
(演歌歌手、ちゃんと3拍子の歌、歌えるのかな?)
子どもの頃3拍子の歌を歌える大人、ほんと少なかったなぁ~~~!
はてさて、「赤い鳥」からずいぶん長い寄り道。
今では日本人の音楽センスは世界最高水準にまでいってるよね。
でもそれまでに長い長い道のりがあったんだよ。
さてまだまだ書きたいこといっぱいあるような気がするけど・・・
面倒くさい!これでやめます。
またまた酔っぱらってきました。
うぃ~~~!!

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