ふと何気なく、指輪物語を読んでいる。
かねてから気になっていたのは「ハリー・ポッター」と「指輪物語」。
どちらもイギリスの作家の作品。
イギリスの小説というと、ついついフィールディングの「トム・ジョーンズ」のようなだらだらとした、長たらしい小説を想像してしまう。
でも、きっと「トム・ジョーンズ」はイギリスの国民小説なのだろう。
そして「指輪物語」も「ハリー・ポッター」イギリスの国民小説になるのだろう。
国民小説って何だろう?
国民の誰からも愛される小説、日ごろ小説を読まない人も、一押しで自慢できる小説。
国民性が色濃く反映している小説。
ディケンズの小説にもとっても国民色を感じる。
フランスではというと、デューマの「ダルタニアン物語」
あるいはユーゴーの「レ・ミゼラブル」かな?
きっと日頃あまり小説を読まない人でも、フランス人は誰でもみんな読んでるに違いない。
そして外国人にこれを読めと自慢して勧めるに違いない。
そんなのが国民小説。
スペインだと「ドン・キホーテ」。
きっとスペイン人だったら、みんな読んでるだろう・・・
ロシアではドストエフスキーではなくゴーゴリでもなくトルストイ。
トルストイの長編3編はきっと国民文学としてずっとロシア人の自慢ではないかと想像する。
日本は司馬遼太郎の「竜馬が行く」と吉川英治の「宮本武蔵」。
あるいはもううちょっと昔だったら滝沢馬琴の『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』。
「源氏物語」は国民文学とはなりえない。
いったい日本人で「源氏物語」を全部読んだ人がどれほどいる?
イタリア人はダンテの「神曲」をほとんどの人が全部は読んでいないらしい。
学校でその断片を教材として習うので、それだけでもううんざりして全編を読む気にならないらしい。
いったい国民文学とは何だろう?
それは国土に密着した土着性。
それと、切れの良さ。
そう、改めて国民文学の定義を考えると、土着性以外に切れの良さを感じてならない。
「竜馬が行く」も「宮本武蔵」も「ダルタニアン物語」も新聞に連載されていた。
ということは毎日小さい切りをつけないといけない。
一日分の終わりに翌日に期待を持たせないといけない。
そこが「だらだら」でなく「切り」になる。
日頃小説を読まない人も、「切り」がある方が都合がいい。
ちょっとトイレに行きたい、ちょっと休んで一杯飲みたい・・・
そんな時に切がある文章はとっても都合がいい。
ところで話は戻るけど、「ハリー・ポッター」と「指輪物語」。
どちらも書下ろし小説。
でも、「ハリー・ポッター」はとってもとっても切りがいい、
一方「指輪物語」はきりが悪く呑みに行くチャンスやトイレに行くチャンスをついつい逃してしまう。
そんな意味では、「ハリー・ポッター」の方が「指輪物語」よりも国民文学としては優れているかもしれない。
でもまぁ~文学的価値なんてそんなものはどうでもいい。
面白ければいい。
そして面白ければ、国民文学としての価値が出るし、
されにもっともっと面白ければそれが歴史に残る世界文学になるのだよ。
ハムレットやドン・キホーテのように。
かねてから気になっていたのは「ハリー・ポッター」と「指輪物語」。
どちらもイギリスの作家の作品。
イギリスの小説というと、ついついフィールディングの「トム・ジョーンズ」のようなだらだらとした、長たらしい小説を想像してしまう。
でも、きっと「トム・ジョーンズ」はイギリスの国民小説なのだろう。
そして「指輪物語」も「ハリー・ポッター」イギリスの国民小説になるのだろう。
国民小説って何だろう?
国民の誰からも愛される小説、日ごろ小説を読まない人も、一押しで自慢できる小説。
国民性が色濃く反映している小説。
ディケンズの小説にもとっても国民色を感じる。
フランスではというと、デューマの「ダルタニアン物語」
あるいはユーゴーの「レ・ミゼラブル」かな?
きっと日頃あまり小説を読まない人でも、フランス人は誰でもみんな読んでるに違いない。
そして外国人にこれを読めと自慢して勧めるに違いない。
そんなのが国民小説。
スペインだと「ドン・キホーテ」。
きっとスペイン人だったら、みんな読んでるだろう・・・
ロシアではドストエフスキーではなくゴーゴリでもなくトルストイ。
トルストイの長編3編はきっと国民文学としてずっとロシア人の自慢ではないかと想像する。
日本は司馬遼太郎の「竜馬が行く」と吉川英治の「宮本武蔵」。
あるいはもううちょっと昔だったら滝沢馬琴の『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』。
「源氏物語」は国民文学とはなりえない。
いったい日本人で「源氏物語」を全部読んだ人がどれほどいる?
イタリア人はダンテの「神曲」をほとんどの人が全部は読んでいないらしい。
学校でその断片を教材として習うので、それだけでもううんざりして全編を読む気にならないらしい。
いったい国民文学とは何だろう?
それは国土に密着した土着性。
それと、切れの良さ。
そう、改めて国民文学の定義を考えると、土着性以外に切れの良さを感じてならない。
「竜馬が行く」も「宮本武蔵」も「ダルタニアン物語」も新聞に連載されていた。
ということは毎日小さい切りをつけないといけない。
一日分の終わりに翌日に期待を持たせないといけない。
そこが「だらだら」でなく「切り」になる。
日頃小説を読まない人も、「切り」がある方が都合がいい。
ちょっとトイレに行きたい、ちょっと休んで一杯飲みたい・・・
そんな時に切がある文章はとっても都合がいい。
ところで話は戻るけど、「ハリー・ポッター」と「指輪物語」。
どちらも書下ろし小説。
でも、「ハリー・ポッター」はとってもとっても切りがいい、
一方「指輪物語」はきりが悪く呑みに行くチャンスやトイレに行くチャンスをついつい逃してしまう。
そんな意味では、「ハリー・ポッター」の方が「指輪物語」よりも国民文学としては優れているかもしれない。
でもまぁ~文学的価値なんてそんなものはどうでもいい。
面白ければいい。
そして面白ければ、国民文学としての価値が出るし、
されにもっともっと面白ければそれが歴史に残る世界文学になるのだよ。
ハムレットやドン・キホーテのように。