ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

ヒヨコ(4)

2009年10月23日 04時32分16秒 | 鶏の話
鶏小屋に行くと、またヒヨコが1羽。
あれっ、また逃げ出したのかな?
小屋に入ると1羽、下に落ちて・・・
死んでいた。
やっぱりだめだったのか・・・

そして思った。
もしかしたらこのヒヨコ、元気になったのではなくて
死に場所を求めて、最後の力を振り絞って歩いたのではないか、と。
多くの動物は最後は死の旅に出る。
そのまま死んだら腐敗して家族が病気になるかもしれない、あるい残された家族が出て行かなくてはならなくなるだろう。
生命には「生きようとする意志」がある。
それも個体として生きようとする以上に「種」として生きようという意志が。
だからこそ「生きようとする意志」に反して生命には死のプログラムが組み込まれている。

生はウィルスとの戦いでもある。ウィルスは絶えず進化する。
そのためには生命体もまた進化しなければならない。
進化するためには絶えず新しい生に変わらなければならない。
死は種を維持するために必要なことなのだ。
動物は種として生きるために死んでいく。
きっと人間もまたかって死の旅をしたのだろう。
死に装束を着て巡礼するのはその名残かもしれない。
 *墓を作り埋葬することによって死の旅をしなくなった。
釈迦が飢えたトラを悲しんで自分の身体をトラに投げ出した、という説話は昔はごく普通に合ったことなのかもしれない。
死の旅に出ると最後は他の動物に食い殺されて、骨もそのうち土にかえる。これが自然の循環なのだろう。

鶏も鶏小屋さえなかったら最後は死の旅に出て他の動物に食い殺されてしまう。
循環型農業、自然農法なんて所詮擬似循環、擬似自然。
本当の循環型なら、本当の自然なら自分の身体を最後は動物に食い殺させる覚悟が必要だろう。

ヒヨコが死んだ。
ヒヨコを埋めた。
ヒヨコはすぐに土に戻っていく。
大きな自然の循環の中に。
コメント (2)
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