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ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

ラシーヌ

2017年08月13日 21時06分21秒 | 本の中から
ラシーヌの代表作をいくつか読んだ。
パターンはほぼ同じ。
古代のギリシャやローマの世界に題材を借りつつ、女性の心理劇、悲劇を描く。
舞台は「三単一」同じ場所で1日の間に筋がすすんで完結する。
それで劇は会話で終始する。
荒々しいシェークスピアと比べると宮廷的サロン的。
古代ギリシャやローマ好みのルイ14世の宮廷の空気を反映した作品。
(たとえは悪いけど)シェークスピアをどつき漫才だとすると、ラシーヌはしゃべくり漫才。
今の日本でラシーヌがどれほど上演されてるかどうか知らないけどシェークスピアほどには一般受けしないだろう。

ところで「イフィジェニー」を読んで、エウリピデスの「タウリスのイピゲネイア」を読みたくなった。
それでもっとルイ14世の時代の旅を続けようと思ってたけど、まだコルネーユも読んでいないけど、
ギリシャ、ローマの時代に旅立つことにした。
もともと古代ギリシャ大好き人間。
それで今エウリピデスを読んでいる。
アリストパネスも再読したい。

ラシーヌを・・・

2017年07月24日 18時58分47秒 | 本の中から
ラシーヌを読んでいる。
もどかしく読んでいる。
きっとフランス語だったらこのすばらしい詩が、この素晴らしい戯曲がわかるんだろうな~
なんて思いながら読んでいる。

でもね素晴らしい詩人が、作家が、素晴らしい人?
いえいえそれは、まったく違う!

美しい詩を作る詩人の心の中が美しい?
美しい音楽を作った人の心が美しい?
美しい小説を書いた人の心が美しい?
それはまったく違う!!
喜劇作家は楽しい人間?
いえいえまったく違う。
それどころか偏屈な人間、しばしば卑しい人間、

ワーグナー、あの壮大な楽劇を創ったワーグナー、
でもその人物はというとまるで悪魔!
こんな人間とは付き合いたくない。
あの壮大な交響曲を書いたブルックナー、
その内面は小市民。
やたらと世評を気にする小市民。
勲章をもらって大喜びし、
世評を気にしてやたらと改作した。
あの楽しい小説を書いたゴーゴリ
伝記を読んでがっかりした。
お友達にはなりたくないなぁ~と思った。

ラシーヌも同じ。
戯曲の序文を読むとほかの作家の悪口三昧。
まったく受けなかった最初の戯曲、
モリエールは好意で十数回も講演したのに、
受けなかったのはモリエール劇団の演技が下手だったと、モリエール劇団を非難する。
こんな人間とはあまりお友達にはなりたくない。
中庸の人モリエール。
妬み嫉みやっかみはあったけど、人間性については誰も非難しなかった。
喜劇の序文には非難されてることに対しての反論はあるけど、ユーモアを交えた反論だった。
ところがラシーヌは牙をむきだす。
そこにモリエールとラシーヌの人間性の違い、
それは育ちの違いだけのことではないかもしれない。
裕福な家庭に育ったモリエール。
生まれすぐに孤児になり修道院生活を送ったラシーヌ。
この環境の違いは大きいけど、でもそれだけではない。
同じく貧しい家庭に生まれたルソーともまったく違う。
そこにはもって生まれたものがあるのだろう。

しかしそんなことはどうでもいい。
残された作品だけを見ればいい。
ラシーヌの悲劇、とってもしっかりした作品だ。
(喜劇は評価しない)


モリエール全集

2017年07月10日 07時56分34秒 | 本の中から
モリエール全集を読み終えた。
パスしようと思っていた10巻目の資料集まで読んだ。
10巻目にあった尾崎紅葉訳の「夏小袖」(守銭奴)も面白く読んだ。
これはかなり自由な訳だけど原作には忠実で守銭奴を読んだことのある人だったらすぐに「夏小袖」を見たら「守銭奴」だと気づくだろう。
当時評判になったらしく何度も各地で上演されたらしい。
戯曲は読むものではなくまず劇としてみるもの。
特に喜劇は時代の影響を受ける。
それでその時その場に応じて台詞の言い回しをかえないと劇そのものが生きてこない。
大筋さえ原作に忠実だったらいい。
ただ全集となると学術的な意味もあり原作に忠実でないといけないだろう。
資料集の中に過去の翻訳と今度の全集の翻訳の対比があった。
それを見ると今回の訳の方が最も読みやすい。
この点も評価できる。

さてモリエール全集を読み、もう少しこのルイ14世の時代を旅してみようかと思っている。
次はラシーヌを読んでみよう。
ラシーヌの最初の作品はモリエール劇団で演じられた。
でもあまり受けなかった。
ラシーヌはそれをなんと役者の演劇が下手だったから、と劇団のせいにした。
新人の作品を取り上げてくれたことに感謝しないといけないところなのに・・・

それ以来当然ながらモリエールとラシーヌの関係はうまくいっていない。
それで逆にラシーヌに興味をもって読んでみようかと思った。
もちろん全集ではなく代表作をいくつか読んで済ませるつもりだけど・・・

モリエール全集~人間嫌い

2017年07月01日 00時42分29秒 | 本の中から
「人間嫌い」を再読した。
この劇は間違いなくモリエールの最高傑作。
いつの時代でも通用する性格劇だ。
でも昔読んだ頃からはずいぶん色あせて見えた。
かってはアルセストに自分をダブらせて読んだものだけど、
今読むとアルセストにある種の滑稽感を見てしまう。

昔読んだ本の解説ではこの劇はさっぱり不人気でそうそうにやめて、
急遽「ドン・ジュアン」をかき揚げ上演した。
この「人間嫌い」をたかく評価していた批評家ボワローは大衆受けする「ドン・ジュアン」に変えたのを嘆いた・・・
というようなことが書かれてあった・・・ような気がする。
でも今全集で読んでいるとそうでもないらしい。
「人間嫌い」は結構あたったし、それに「ドン・ジュアン」は「人間嫌い」のあとに書いたのでなく上演禁止になった「タルチュフ」のあとにかいたらしい。
解説が間違っていたのか記憶違か?
まあそんなことはどうでもいい。

再読の楽しみというのは夢中で読んだ昔の頃・その時代を思い出す事ではないだろうか?
そして夢中で読んだ作品ほど再読すると色あせて見えてくる。

今では「人間嫌い」や「タルチュフ」よりも
初めて読んだ壮大なバラエティー劇「プシシェ」や笑劇と宮廷劇をあわせたような「アンフィトリヨン」に今まで知らなかったモリエールの別の魅力を感じている。

モリエール全集~タルチュフ

2017年06月19日 07時38分35秒 | 本の中から
「タルチュフ」を読んだ。
この訳で「読む」のでなく「劇」として見た場合どうだろう?

最初の笑わせどころ、2日間留守にして帰ってきた主人が召使に聞く。
留守中何もなかったか?
「奥様がおととい熱を出して、夕方まで下がらず苦しんでおられました」
「で、タルチュフは?」
「ぴんぴんしてます。でっぷり太って脂ぎって・・・」
「気の毒なお方だ・・・」
「奥様は夕食は全くお食べになれませんでした」
「で、タルチュフは?」
「奥様の前で一人でたらふく食べてました」
「気の毒なお方だ・・・」

このような会話がしばらく続く。
昔読んだ本では確か「気の毒なお方だ・・・」ではなく「そうかい、そうかい」となってたように思う。
この方が劇としてはぴったりくる。
「気の毒なお方だ・・・」というのはきっと直訳だろう。
でもこれではうけない。

訳者は仏文系の人らしい。
演劇関係者の人が訳したらもっと違ったものになっただろう。
日常会話ではほとんど使われることが無くなった「・・・ですわ」という女言葉。
この「わ」言葉が全集ではやたらと出てくるのも翻訳調で不自然な印象を与える。
全集によく出てくる「詩」も詩になっていない。
詩を散文で書いている。

ところで「タルチュフ」の話し、途中まではよく覚えてたのだけど、最後はどうなったかな?
実はよく覚えていなかった。
そして再読してみてわかった。
いかにもとってつけたような終わらせ方。
タルチュフの悪だくみに財産すべてを失われしそうになったとき、
国王の裁定によって財産はのこされ逆にタルチュフが逮捕される。
そして国王をたたえて劇は終わる。

実はこの作品は王・ルイ14世がヴェサイユ宮殿で主催した7日間に及ぶ祝祭劇の一つとして上演された。
そのために王をたたえて終わるというのは自然なことだったろう。
ただしその時は3幕までしか上演されなかった。

この祝祭の時は「タルチュフ」だけでなく、「エリード姫」「はた迷惑な人たち」もそして最後は「強制結婚」で締めくくられ、それだけでなく他の日もモリエール劇団はバレーなどにたびたび登場するという、モリエール劇団がもっとも輝いたイベントだった。

モリエール全集~(4)

2017年06月16日 18時44分20秒 | 本の中から
モリエール全集を読んでいる。
とってもまじめに読んでいる。
9巻から逆に読んでいってつまらなくなったらやめようと思っていたのだけど、
9巻と8巻を読んでちょっと真面目に読んでみようかなと思い1巻から読むことにした。
パスしようと思っていた昔読んだ本も再読している。

モリエールというと笑劇、性格劇というイメージが強い。
でも別の分野、今まで読んだ本の中にはなかったコメディーバレーや祝祭劇。
モリエールは喜劇作家、俳優のイメージを持つけどプロデューサーでもある。
こんな一面を知ったのは収穫だった。
ただ本ではなかなかバレーや音楽が伝わってこないのは残念だけど。

ところでモリエール全集と同時に「太陽王ルイ14世」(鹿島茂)という本を読んだ。
するとモリエールの劇の時代背景がわかって面白い。

「はた迷惑な人たち」は財務卿フーケの居城で初演された。
王宮以上の豪華な居城で同じ年に王が主催した劇・饗宴よりも、
さらにさらに豪華な饗宴の呼び物の一つとしてモリエールの祝祭劇が披露されたれた。
ところが王のご機嫌を取るつもりが逆に不興をかって3週間後にフーケは逮捕され失脚する。
(まあ当然だけど・・・)
そこにはおごりがあった。
フーケは公私混同もいいところ、国の金を着服しまくった。
でもその一方で国は始末屋・ケチのルイ13世のころよりもずっと裕福になった。
公私混同というと国が潤わなければ自分も潤わない。
そのためには国ももうからないといけない。
それがフーケの政策だった。
これが悪いことか?

ルイ14世から100年以上のあとの日本。
田沼意次の時代だった。
とっても景気のいい時代だった。
ところが失脚後、松平定信の時代となった。
「寛政の改革」と言われる時代に。
そして贅沢禁止令、コメの増産。
贅沢を禁止するとたちまち不景気になる。
コメを増産するとたちまちコメの値段が下がる。
するとコメを報酬として受け取っていた武家階級が困窮する。
こんなこと素人でもわかること。
ところが儒教に凝り固まった人間にはそんなこともわからない。
幕府は急速に滅亡への道を進む。

田沼意次のことを考えるとついつい田中角栄のことが頭に浮かぶ。
はたして田中角栄がやったことが悪いことだったのだろうか?
松平定信のことを考えるとついつい民主党政権のころが頭に浮かぶ。

下手な管理者はすぐに経費削減という。
でも経費を削減して売り上げを伸ばせるか?
確かに経費削減は必要だけどその一方で成長分野にはどんどん金をつぎこまないといけない。
そこらへんの未来志向が、夢が、民主党にはまったくなかった。
まったく魅力のない政党だった。

同じことは朝日・毎日にも言える。
批判だけで飯を食っている。
夢がまったくない・・・それが朝日・毎日。
一見批判的な記事を載せつつも、
内面は保守のかたまり。

いえいえそんなことじゃなくてモリエールの話。
モリエールを読んでると昔々の自分がよみがえってくる。
そうそうそんな時代もあったんだよね。
今古典を読む楽しみにほんのりほんわか浸っている。

「たつの・宍粟・太子の昭和」

2017年06月07日 02時31分34秒 | 本の中から
「たつの・宍粟・太子の昭和」という写真アルバムを読んでいる。
今住んでいる地域の昔の写真集。
この町に生まれ育ったわけではないのでたいして懐かしくはないのだけど、
昔ここがどんな町だったのか興味があったので読んでいる。

戦時中の写真は面白くない、辛い、
こんな時代来てほしくない。
軍人やそれを笠に威張り散らす心の貧しい人間たち、
そんな時代来てほしくない。

でも戦後の活気ある写真を見るのは楽しい。
アルバムを見ていくと次第に経済的に潤っていく、
そんな光景を見るのは楽しい。
人がたくさんいる写真を見るのは楽しい。
そしてみなモノクロの世界。
モノクロだけに想像が膨らむ。

今、この町の写真を後世の人が見たらどう思うだろう?
うらぶれた町、活気のない町。
道路も建物も整っているけど人がいない町。
こんな町を見てどう思うだろう?

モリエール全集(4)

2017年06月04日 18時45分36秒 | 本の中から
文化は連続的に開花するのでなく断続的に開花する。
モリエールがいた時代のフランス。
デカルトやパスカルがロシュフコーやフォンテーヌがシラノ・ド・ベルジュラックやコルネイユやモリエールやラシーヌが、
相次いで生まれ育った時代。
フランスの国民文学、アレクサンドル・デュマの「ダルタニアン物語」の、舞台となった時代。
ブルボン王朝の絶頂期、ルイ14世の時代だった。
このように文化が一度に開花する時代はほかにもある。

古代アテネ。
ソクラテスやプラトンやアイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデス・アリストパネスを相次いで輩出した輝かしい古代アテネ。

レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロやラファエロがいた15~16世紀のイタリア。
古代アテネのような輝かしい時代だった。

18世紀~19世紀のオーストリアのウィーン。
ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、シューベルトがあいついで暮らした町、ウィーン。
不思議なことにあの「魔弾の射手」の作曲家ウェーバーはシューベルトよりも先に生まれてベートーベンやシューベルトよりも先に死んでいる。
ウェーバーというとロマン派の作曲家、シューベルトの次の世代の人間とついつい思ってしまう。

日本でも開花したことがある。
平安時代、紫式部や清少納言などがいた時代。
モリエールとほぼ同時代の芭蕉・西鶴・近松などがいた時代。

文化は一度に開花する。
モリエールの時代、フランス人にとって、きっと古き良き時代だったのだろう。

モリエール全集(3)

2017年06月04日 02時13分58秒 | 本の中から
モリエール全集(1)(2)を読んだ。
現存してい初期の笑劇、「ル・バルブイエの嫉妬」からすでにモリエールだ。
3つ子の才能100までも。
人は基本的に変わらないものらしい。

昔、高校のころふとラジオを聞いたら交響曲が流れていた。
初めて聞く曲だった。
なんだろう?モーッツアルトじゃないな、
ハイドン?・・・でもないな。
ベートーベン、それも初期の作品、きっと1番だろうと思った。
曲が終わってやっぱりベートーベンの1番だということがわかった。
まったく同じように、途中からそれも初めて聞いたのに、シューベルトの1番もあてることができた。
これはずっと密かに自慢しているのだけど、もしかしたら誰でもわかることなのかもしれない。
3つ子の魂100までも。
持って生まれたものは一生変わらないものなのだろう。

モリエール全集を読んでいる。
モリエールは最初からモリエールだ。
「粗忽な男」狂言風なバカ殿さまと賢い家来の構図。
古今東西笑いを誘う。
賢い召使いと善良だけど愚かな主人、でも憎めない。

モリエールは医者嫌い「トンデモ医者」から最後の作品「病は気から」までことあるごとに医者は笑いの対象。
まあ医者が好きな人はあまりいないだろうけど・・・
それに医者は人類に何を寄与したか?プラスかマイナスか?
ある本を読んだらマイナスと書かれてあった。
人はあまりに医者を信用し過ぎていないだろうか?
成人病って何だろう?
西洋医学で成人病を治すことができるのだろうか?
治したふりをしているだけじゃないのか?
何十年も高血圧の薬を飲み続けて、それで治った人がいる?
何十年も痛風の薬を飲み続けて、それで治った人がいる?
抑えているだけ。
病人は生かさず殺さず絞り続けろ。
一度成人病になったらもう終わり、一生医者に貢いでいかないといけない。
これが西洋医学ではなかったか?
西洋医学で評価するのは外科的医療だけ。
風邪さえも治せない。
これが今の西洋医学ではないのか?

バッハやヘンデルを殺した偽医者。
モーツアルトを砒素で殺した医者。
そんな医者さえいなかったらもっと長生きできたのに・・・
モーツアルトがベートーベンと同じ時代をもっと長く生きることができたら、どんな名作を生まれたことか・・・

いやいやそんな話じゃない。
モリエールの話。
「滑稽な才女たち」~知ったかぶりの人間もまた喜劇の材料。
モリエールは医者だけじゃない、学者も嫌いだったらしい。
まあ学者が好きな人もあまりいないだろう。
学者って時の権力者のあとをぞろぞろくっついていく人間。
第三者委員会なんてそんな人間の集まりだよね。
それで結構な笑いの種。
モリエールの筆はさえる。

でも一番好きだったのは「ドン・ガルシ・ナヴァール あるいは嫉妬深い王子」
一見あまりモリエールらしくない作品。
たいていのモリエールの作品の舞台はサロン、家・・・小さな舞台だけど、この劇の背後にはシェークスピア的な壮大な舞台がある。
でも展開するのはサロンのなか。
嫉妬深い王子ととその王子が求婚している気位高く強情な姫との性格劇。
モリエールはこの劇にずいぶん力を入れて書いたのに「人間嫌い」とおなじように受けなかった。
それで早々と講演を打ち切り他の劇を上演することになった。
営業面を考えないといけない座主としてのつらいところだ。
でもよほどこの劇に愛着があったのか、後に「人間嫌い」や「タルチュフ」にその台詞の一部を使っている。
当時の観客のレベルが惜しまれる。
もうちょっと高かったらな~、もっともっと素晴らしい作品ができたのに・・・
でも今の日本でこの劇をあるいは「人間嫌い」を上演してもあまり受けないと思う。
人類は石器時代からそれほど進歩はしていない。

モリエール全集~再読の楽しみ(2)

2017年05月30日 04時36分02秒 | 本の中から
再読はほとんどしない。
愛読書と言われるものも少ししかない。
読みたい本はいっぱいある。
せっかく買ったのにいつでも読める、そのうち読める、と思って、ながいことほったらかしにしてる本も多い。
そして再読する時間がもったいなくてやっぱり初めての本を読む。

でも今、モリエール全集読んでて再読の楽しみを味わっている。
再読すると夢中になって読んだ昔の頃がよみがえる。
でもその一方で冷ややかに第3者的にそれを見ている自分がいる。
読みながら筋立てに、ちょっと無理があるなぁ~ここはこうしたらいいのに・・・なんてついつい思ってしまう。
それで昔のように夢中になることはない。
本を読んで感激するのはきっと10代20代。
戦争と平和を今読めるだろうか?
ジャンクリストフを今読めるだろうか?
何年か前、チボーケの人々を読もうとして途中でやめてしまった。
読むには読む時期がある、今しかないという時期がある。
それを逃すともう一生読むことはできない。
時期を逃すと、もう読んでも感激はない。

でもそれでも再読とっても楽しい。
昔と違った読み方ができるから。

モリエール全集~再読の楽しみ

2017年05月29日 18時35分47秒 | 本の中から
モリエール全集を読んでいる。
9巻と8巻を読んで後ろから順に読んでいこうと思っていた。
後期の方がいい作品が多いだろうし、もし途中で嫌になっても、前期の作品だけで止めたら損した気分になる。
それで逆に読んでいこうと思ったのだけど、9と8を読んで、これならみんな読めそうだと、やっぱり最初から読むことにしたのだった。
それで今、1巻を読み終えて2巻目を読んでいる。
昔、読んだ本も再読した。
「町人貴族」と「病は気から」
「病は気から」はモリエール最後の作品。
確か昔読んだ本は「気で病む男」という題だったと思う。
この舞台の4日目にモリエールは倒れそのまま亡くなった。

気で病む男に扮するモリエールは舞台の中で倒れた。
それを迫真の演技だと思った観客はやんやの喝采!
そしてそのまま死んだ・・・と昔読んだ本の解説にそんなことが書かれていた。
これを悲劇と見るか、喜劇と見るか、役者として最高の死に方と見るか・・・
きっと最高の死に方だろうなぁ~なんて昔思っていたけど、
いま全集で読むとモリエールは4日目の舞台を終わってその夜突然倒れてそのまま亡くなったらしい。
きっとこの全集の方が正しいだろう。

「町人貴族」、昔はとっても好きな作品だったけど、今読むと後味の悪さを感じる。
お人よしの町人貴族が周りの人間から騙されっぱなしなのだ。
「気で病む男」は最後はウソがばれて救いはあるのだけど、町人貴族は騙されっぱなしで終わる。
でも当時の観客は後味の悪さは感じなかっただろう。
最後はバレーや歌で終わる。
それで楽しんで帰ることができただろう。

プシシェを読んで今まで思っていたモリエールのイメージはずいぶん変わった。
このギリシャ神話を舞台にした大掛かりな仕掛けと音楽・バレー。
モリエールはこれをプロデュースした。
台本もコルネイユなどとの共作。
内容も喜劇ではない。
仕掛けや歌や踊りのつなぎのための筋、台本。
これを成功させたモリエールのプロデュースの手腕を感じたのは以外だった。

昔読んだ町人貴族も気で病む男も幕間のダンスや音楽をちょっとした解説だけで詳細は略していた。
本として読む分にはそれでいいけど、モリエールの全貌を知るためにはやっぱり必要だと思う。
その点この全集は、モリエール作品全集というよりもモリエールの研究書という感じの実にしっかりした内容。
これからはモリエールを勉強しようと思っている人はこの全集は避けて通ることはできないだろう。
といってもこの全集(臨川書店)2000年4月発行。
えっ、17年前?!
たまたま同じ市の別の図書館で見つけて、取り寄せて読んでいるのだ。
ところがとってもきれい!
誰も読んでた気配がない。
17年もだれも読まなかったのだろうか?




モリエール全集

2017年05月14日 03時44分57秒 | 本の中から
モリエール全集を読んでいる。
モリエールは高校時代夢中になって読んだ。
文庫本はみんな読んで、文学全集のモリエール集も読んで・・・それで終わり。
フランス語を勉強して原文でもいいから全部読もう!何て気にはさすがになれなくてそれで終わった。
学生時代ろくに勉強もしないで本を読み漁った。
そのなかで戯曲もよく読んだ。
チェーホフもシェークスピア全集も。
そして戯曲を書こうと思った。
一つも書けなかったけど・・・
根がどうしようもない人間なのだ。

戯曲の中でも特に喜劇に魅かれた。
アリストパネスやモリエールに。
悲劇よりも喜劇のほうが時代の壁を乗り越えとっても身近に感じられる。
人は何を面白いと思うのか?
それによってその人の中身を、あるいはその時代の雰囲気を直接感じることができる。
悲劇ではそれがなかなか伝わりにくい。

もし今大阪で、吉本で、「人間嫌い」を初演したら受けるだろうか?
あまり受ける気はしない。
早々に(当時のフランスと同じように)幕を下ろすだろう。

モリエールは喜劇の作者でもあったけど、役者、そして劇団のオーナーでもあった。
そのためにもまず経営を考え、客が入る劇を書き演じないといけなかった。
どんないい作品でも客は入らないとわかるとすぐに打ち切って大衆受けする作品を書かないといけななった。
それで「人間嫌い」はすぐに打ち切られて、急遽「ドン・ジュアン」を書きこれが受けた。
喜劇は時代を反映する。
それを感じられるのが面白い。

・・・なんて話ではなくモリエール全集の話。
全10巻のうち最終巻の評論集はパスして、9巻から逆のさかのぼって読んでいこうと思っている。
半分くらいはすでに読んでるので、そんなに時間はかからないだろう。
初期時代の作品になり、あまり面白くないと思ったら、その時は読むのをやめたらいい。
今日は「学者きどりの女たち」を読んだ。
偽善者「タルチュフ」と学問道楽の「町人貴族」を思い出した。
(どちらも好きな作品)
いかにもモリエール風な筋立て。

ただこの2つの作品に比べて浅くもう一つ面白味のかけると思った。
もっとも高校時代にこの作品を読んだらきっと同じように面白いと感じたかもしれないけど・・・
たいして人間的な魅力を感じないアンリエッタとその恋人クリタンドルよりも
学者気取りの女、アルマンドやアンリエッタやベリーズをもう少し人間味を持たせて結論をちょっと変えたら、
女に学問はいらない、ではなく、やっぱり女には学問よね!
するともっと面白い、今でも受ける劇になるだろう。


「日本と世界の死刑問題」

2017年03月07日 19時07分48秒 | 本の中から
「日本と世界の死刑問題」(菊田 幸一・著)を読んだ。
とっても納得できる内容だった。
死刑擁護派は感情的に、情緒的に考え、
死刑反対派は論理的に考える。
それで両者の議論は成り立たない。
論理が感情に勝つとは限らない、
というよりも世の中はしばしば感情で動く。
いくら冤罪のことを言っても無駄だ。
自分がもしかしたら冤罪で死刑になるかもしれない・・・という想像力にかけているのだ。

死刑の主たる根拠は復讐だ。
リンチにかわって国が犯人を殺す。これが正しいことかどうか?
「被害者のことを、被害者の家族のことを考えろ!」
では被害者の家族の意志で死刑かどうか決まるのか、
もし家族が死刑にしないでといったら死刑にならないで済むのか。
「人を殺したからその報いに殺されるのは当然だ」
殺人者の99%は死刑になっていない。
死刑と無期懲役の間は明確に区別できるものではない。
わずかな違いである人は死刑になりある人は無期懲役になる。
そしてその違いはあまりに大きい。

国が被害者とその家族に代わって犯人を処刑する。
そこには国が認めた「殺し屋」がいる。
裁判官と死刑執行人。
死刑擁護者は彼らの心の痛みを想像できないのだろうか?
そして日頃死刑擁護を言ってる人間が重大な事件の裁判員裁判に選ばれたらたちまちびびって辞退する。
こんな人間を軽蔑する。

古代ギリシャのアテネでは死刑も市民の投票で死刑執行も抽選で選ばれた市民の手で行なわれた。
ソクラテスも抽選で選ばれた一般の市民に処刑された。
それが民主主義の原点ではないか。

もし裁判員裁判に選ばれたら、そして現行の法では死刑相当だと思ったら間違いなく心情的には死刑反対でも「死刑」選ぶだろう。
もし古代ギリシャのアテネにいたら、そして死刑執行人に抽選で選ばれたら間違いなく執行するだろう。
もし法務大臣だったら間違いなく死刑確定後の死刑囚に6か月以内に死刑の署名をするだろう。
それくらいの覚悟で死刑反対を言っている。

最後に池田小学校のあの悲惨な殺人事件。
自殺する勇気がないために理不尽な殺人をしたあの事件。
たくさんの税金を使って本人の希望通りに死刑にしてやったあの事件。
その後類似事件がたくさんでて理不尽に多くの人が殺されていった。
こんな事件を防止するためにはどうしたらいいか?
死刑が殺人の抑止になるどころか逆に殺人を助長している。
このことをどう考えているのか。
むざむざ死んでいった子供たちの命をどう考えているのか?
こんな理不尽な殺人をどうやったら防ぐことができるのか。
これを真剣に考えてほしい。

数か月前、珍しい死刑擁護論の本を読んだ。
確か岩波新書だったかな?
池田小の事件をどいう書いてるのか興味があったから。
すると「こんな人間は死刑にするほかない」・・・だって!!
これが死刑擁護派の論理か?
すっかり呆れてしまった。

自分自身はこう思っている。
死刑廃止。
その代り仮釈放なしの終身刑を設ける。
そして強制労働をさせて、その報酬の半分を遺族に渡す。
死刑になって終わり、ではなく一生かけて償え!と。
もちろんこれは冤罪の人には過酷だけど、
生きている限り、たとえわずかでも冤罪を晴らすチャンスがあるのだ。
それまで頑張ってほしい。

ギリシャ人の物語

2017年03月02日 18時36分02秒 | 本の中から
「ギリシャ人の物語」(塩野七生・著)2巻目を読んでいる。
1巻目を読んだのは1年前くらい。
かなり忘れていた。
なんせ1年に一回くらいの刊行なのだから。

さて2巻目、前回はペルシャ戦争が主な舞台。
そして今度はペリクレスの時代とそれに続くペロポネソス戦争。
そしてこの同時代にソクラテスやプラトンやアリストファネスやソフォクレスやエウリピデスがいる。
古代ギリシャ好き人間にとってはワクワクするような時。
でも本当はアテネが凋落していくとき、
民主制が破たんしていくとき。
でもこの激動の時代、とっても魅力的に感じる。
高校時代にはまっていたアリストファネス。
歴史をもっと知ってたらさらに面白く読んでただろう。
悲劇よりも喜劇の方がより直接的に時代を反映しているのだから。

というわけでとっても面白く読んでいるのだけど、
同じ著者の「ローマ人の物語」が15巻にも及ぶのに、
ギリシャ人の物語は3巻で終わるらしい。
古代ギリシャ好き、ローマ帝国嫌いの人間にとってはもっと長く書いてほしいところだ。
とはいえ長い長いローマ帝国の歴史に比べるととっても短い古代ギリシャの歴史、
まあ仕方ないといえば仕方ないのだけど・・・


生物はなぜ誕生したのか

2017年01月31日 18時45分10秒 | 本の中から
生物はなぜ誕生したのか?

こんな問いに答えられる人がいるのだろうか?

なぜ???

・・・なぜ今ここにいるのだろう?

こんな問に答えられる人がいるだろうか?

図書館でふと見た本。
「生物はなぜ誕生したのか」
題がとっても気になったので借りてきた。
家に帰ってよく見たら、原題は「A NEW HISTORY OF LIFE」
なぁ~んだ、そんじょそこらにある生命の歴史の本か・・・!
これじゃや羊頭狗肉の類だね。
でもこれは著者の責任ではない訳者がかってにつけたのだろう。
著者はピーター・ウォードという人とジュセフ・カーシュヴィという人。
この手の本にありがちなイラストや写真などがほとんどない400ページ以上の不愛想な、どちらかというと学術的な本。
でもとっても面白く読んだ。
最新の生命の歴史、種の繁栄と絶滅。
納得できたこともあるけど納得できないこともあった。

一番最初の生命は特殊な環境の下での化学反応によってほんの2分くらいで生まれたかもしれない・・・
ほんの2分間でDNAやRNAが作られたのだろうか?
有機物質は化学反応で作られるだろう。
でもそこから化学反応でどうやってRNAが作られるのだろう?
著者もそこらへんはなんら明らかにしていない。
でもでも長い長い宇宙の歴史の中で無機質から有機質が、
有機質の中から生命が作られたのは確かだろう。

最初の生命は酸素がまったくない世界、
海底の火口や温泉から生まれた。
酸素はとっても厄介、とっても危険なものだった。
でも生命は長い長い時間をかけて、植物の作り出す酸素に適応して生きてきた。
そして今では酸素がないと動物も植物も生きていけない。
それならもしかしたら酸素のまったくないところで反映している生物がいるかもしれない。
宇宙の中ではそれが普通なのかも知れない。

この地球では大きな絶滅は5回あった。
さらにこの5回を入れて絶滅は10回あった。
大きな絶滅で種の9割が絶滅した。
そして後の5回の絶滅で種の5割が絶滅した。
その原因はと言うと、恐竜絶滅の隕石は有名だけど、そのほとんどすべては酸素の濃度と温度だという。
温度は確かにそうかもしれない。
かって2度地球の歴史の中で、赤道の海まで凍ってしまうスノーボールになったことがあるらしい。
そうなるとほとんどの生物は生きていけない。
それから温度が50~60度になったことがあったらしい。
これじゃほとんどの生物は生きていけない。
それから酸素濃度。
10~35%の間で変動してきた、
この酸素濃度が絶滅の主たる原因と著者は考えているようだ。
今は20%程度、10%というと高度が4000~5000メートルほどの高地。
でも人間はそんな所にも暮らしている。
一人の人間がそんなところに移っても暮らしていける。
まして何万年も時間をかけて徐々に酸素が欠乏していく、
それだったらほとんどの生物はそれに適応していくだろう。

・・・なんていろいろ考えながら、それなりに説得力のある本だった。
そしてやっぱり気になるのは次の絶滅の時期。
隕石は例外として、それは遠い遠い未来の話。
そんなことを恐れることもなく、
今まで通り毎日酔ってのほほんと暮らしていったらいいのだよ。
と感じるまったくどうしようもないこのぐうたら百姓でありました。