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ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

電子図書館

2018年06月16日 19時01分06秒 | 本の中から
初めて電子図書館で本を借りてみた。
「県民性」の常識・非常識 電子書籍版 (PHP文庫)を。
パソコンで読んでるけどスマホだったらもっと気楽に寝転んでも読めるだろう。
まだ本が少ないのであまり読みたい本はない。
これからもたいていは図書館の本を読むことになるだろうけど、
でも将来は電子書籍になってくるだろうから今のうちに慣れとかないとね。
もはや情報の媒体産業は過去の遺物。
本も新聞紙も。
新聞記者が偉そうにしているのも今のうち。
そのうちホームレス生活を送ることになるだろう。
テレビは情報を直接茶の間に送っているのでこれからも残る。
ただ情報媒体としてのテレビが残るかどうかは疑問。
きっとそのうちパソコンに代わってしまうだろう。
でもまあ、そんな話ではなく電子書籍の話。
本を読んでるとどんどん読んでる実感がある。
残ってるページの厚みがわかる。
あと何日、あるいはあと何時間で読み終えるという実感がある。
電子書籍ではそれがない。
もちろんこれはソフトの問題で、そこらへんもビジュアル的に表示してほしい。
でもまあ、正直普通に本の方が読みやすいけど、
でもまあ、これもなれの問題だろう。

ところで「県民性」の常識・非常識・・・というこの手の本はいつ読んでも面白い。
とりわけかわいそうな県の話が面白い。
ここは兵庫県。
大して自慢もできないけど神戸という大都市や芦屋や西宮という高級なイメージの市があるのが大きい。
それで多分それほど可哀そうだとは思われてはいないだろう。
(本当はこんな市がなかったら・・・結構かわいそうな県なのだけどね)

そこですぐ近くの県・・・あの県とか・・・あの県とか・・・
そんな県の話になるとついつい優越感に浸りおもわずにやりとする。

地獄ツアー

2018年05月29日 05時58分58秒 | 本の中から
地獄に住みたいとは思わないけど、もしできることなら地獄ツアーには参加してみたいものだ。
天国や極楽よりもよほど刺激的だろうから。
天国や極楽なんてお花畑があるだけ。
良い香り、音楽、うまい食べ物・・・人間の想像力なんて知れている。
一度行ったらもう充分だ。
もちろん「酒は美味いしねえちゃんは綺麗だ」という天国の線は捨てがたい。
たらふくうまい酒を試飲できるなら、しかもきれいな姉ちゃんがお酌してくれるなら、何度行ってもいいかな、とも思う。
でも美人は3日見たら飽きるともいう。
それに天国の姉ちゃんがみなきれいだとすると、美人しか天国には行けないことになるかもしれない。
としたら逆に男はイケメンしか天国に行けないということも考えられる。
ますます天国の道は険しいように思われる。

もともと普通の人間は六道で生きている。
それで誰しも極楽よりは地獄により近い。
死んだら西方浄土に行く、死んだら仏様になるなんて大間違い。
まずは遠い極楽でなく近い地獄に行くことになるだろう。

地獄は退屈な極楽と違ってとっても変化に富み退屈しないことだけは確かだ。
地獄には大きく分けて8つの階層がある。
等活地獄・黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・そして 無間地獄
そのうえ各階層には16の小地獄があり、合計136もの地獄があるという。
極楽の退屈さに比べて地獄はなんと想像力豊かな世界だろう。
これじゃ地獄ツアーは到底1日で見ることはできない。
何回も参加することになるだろう。
極楽で幸せそうに暮らしている人を見るよりも、地獄で苦しんでいる人たち見る方がきっとみんな楽しめるだろう。

地獄に行くにはまず三途の川を渡らねばならない。
実は三途の川は仏教の世界だけにあるのではない。
古代ギリシャや古代ローマ、キリスト教の世界もある。
アリストファネスの「蛙」には死の世界に川を船で渡るシーンがある。
ウェルギリウスの「アエネーイス」でもアエナーアスは川を船で渡る。
ダンテも「新曲・地獄編」で川を船で渡る。
まったく違った世界で同じように地獄に行くには船で渡らねばならない。
もっともダンテの場合は「アエネーイス」の影響を強く受けているので、古代ローマ人の死生観を引き継いだのかもしれないけど、
仏教と古代ギリシャ・ローマとの類似点はどうだろう?
(日本神話には三途の川は出てこない。黄泉の国は地続きになっている)
古代アーリア人共通の神話があったのだろうか?

しかし地獄の思想というのは不思議だ。
どんなに天国に行きたいと思っても、地獄にいく可能性があったらだれも死にたいとは思わないだろう。
そのために生に執着する。
現世への執着をなくす、死への恐れをなくすのも宗教の一つの使命だと思うけど、地獄がある限り人はやっぱり現世に執着する。
いったい天国や地獄は必要なのだろうか?

ほとんどんの人は天国に行くために、つまり自分のために死ぬことはできないのではないだろうか?
そして人のためなら死ねるのではないか?
もっとも人のためと言ってもそれも特殊な教育を受けて、国家のためとか天皇のためとか(そんな教育まっぴらだけど)そんなんじゃなく、
家族のためなら死ねるんじゃないか?
とっても高価な薬があってそれを飲み続けたらあるいは治るかもしれない・・・でも残された家族はきっと経済的に破綻する。
そんな時たいていの人はそんな薬を飲もうとは思わないだろう。
また、小さな子供が危険な目にあってるとき、とっさ的に自分の体を犠牲にしても助けようとするだろう。

ところで生物は最初から死をプログラムされているという。
もしいつまでも生きていたら、お互い生活圏を奪い合うことになるからだ。
それで種族保存のために、そしてより小さい単位の家族のために死がプログラムされている。
寿命が来たら誰でも死ぬ。
自分のためでなく家族のために死ぬ。
こう考えると天国も地獄も必要ないのではないか。
人は人のために死ぬのだという規範、道徳律だけで充分なのではないか?

もっとも「酒は美味いしねえちゃんは綺麗だ」という世界も捨てがたいのだが・・・

エレゲイア詩集

2018年05月02日 05時21分40秒 | 本の中から
テオグニスの「エレゲイア詩集」を拾い読みした。
この本は学生時代何度も読んだ詩集。
あちこち線が引いてあった。
自分自身はあまり本に線は引かないけど、
引いたところを読み返すと、
大して面白くもないところに引いてあったりして、
昔はこんなのを面白いと思ったのかな、と逆にそれが面白かった。

テオグニスは紀元前6世紀の初め頃古代ギリシャの都市国家・メガラで貴族として生まれた。
しかし貴族と大衆との政争に会い財産を没収され、友に裏切られて、各地を放浪し、ようやく晩年になって故郷に戻ることができた。

 私は行ったことがある
 昔のことだがシケリアの地へ
 葡萄ゆたかなエウボイアの野畑へも
 またスパルタへ、あのエウロータースの葦しげる美しの都へも
 そしてどの地を訪れても人々はみな私を喜び迎えてくれた
 だがなぜか私の心には喜びの火がともらなかった
 それほどに故郷はほかのどの土地にもかえがたい

古来酒の詩は意外と少ない。
オマルハイヤームの「ルバイヤート」、大伴旅人、李白、ヴィヨン。
昔酒の詩人になりたいなと大いに酒を飲んだ。
でも詩人はやっぱり無理で、単なる酔っぱらいで終わった。

 さあ飲め酒を
 この酒はテーウゲスト山のふもとの葡萄のつるが汲んだもの
 年おうる、神の愛するテオティーモスが山肌のくぼみに沿って
 プラタニストースの冷たい水をやりながら育てた葡萄だ
 さあ飲んで、つらい思いを吹き散らせ
 酔いがまわれば、ずっと心も軽くなる。

テオグニスの詩にあるものは貧しさ、恨み、そして死。

 信を尊び宝を捨てたが
 信を破ってまた手に入れた
 その両方を思う心を棘がさす

 愛するキュルノス、貧すれば死ぬ方がよい
 つらい貧窮に実をすり減らしながら生き永らえるよりは

テオグニスはいつも死を意識する。

 もう私を呼んでいる、家へ帰れと
 海の底から屍が
 死んでいながら生きた口から声をはなって

 この世の至福は生まれてこないこと
 焼き焦がす陽の光を眼にしないこと
 だが生まれた上は速やかにハーデスの門をくぐり
 こんもりと掻きよせた台地の底に横たわること
 
いつも死にたい死にたいといってる人は意外と死なないものだ。
エピクロスはこの詩をからかっている。
この世の至福は生まれてこないこと、ならさっさとハーデスの門をくぐればいいじゃないかと。
でもテオグニスは長生きして晩年に故郷に帰った。
このぐうたら百姓も死ぬ死ぬと言っているので、意外と長生きするかもしれない。
困ったものだ。
早くハーデスの門をくぐりたいのだが、
死神とたらふく酒を酌み交わしたいのだが、

 

修養全集4巻「寓話道話お伽噺」

2018年04月12日 17時45分46秒 | 本の中から
修養全集4巻「寓話道話お伽噺」を読んだ。
なんと昭和4年発行の古い本。
出版社は大日本雄弁会講談社。
なんとも勇ましい会社名だけど今の講談社の前身。
出版社の住所は東京市本郷区駒込・・・
旧漢字・旧仮名遣い、でも平易な文章と昔懐かしい挿絵がいっぱいなのですんなり読める。

修養とは今ではあまり使われなくなったけど、学問を修め精神をみがき、人格を高めるよう努力すること。
学問とはもともと試験に通っていい大学に行きいい会社に就職することではなく「刻苦勉励して修養を積む」「精神を修養する」
そう、自分の精神を磨くことが目的だった。

寓話はイソップなどの西洋の寓話やインドの寓話。
あるいはこれらの寓話を自由改作したり新たに創作したりした話を納めている。

道話・・・これはもう完全に死語だね。
・人の道を説いた話。
・江戸時代、心学者によって行われた訓話。身近な例をあげて、わかりやすく道徳を説いたもの。心学道話。
でもこの本ではそればかりでなく文字通り道で説いた話、
釈迦やキリストやソクラテスや講師が道で弟子たちに説いた話、
それから法話や落語の人情噺、偉人の説話・・・などが収録されている。

お伽噺
これも日本・西洋・中国・ロシヤ・・・など多くの話が自由に収録されている。
(今どきこんな編集は許されないだろうな・・・)

ともあれ突っ込みどころ満載の本。
それもいじわるな意味でなく、いい意味での突っ込みどころ満載の本。
そしてとっも懐かしさを感じさせる本。
こんな本を古民家においてる雰囲気っていいね!

そこでちょっと突っ込み。
こんな話が載っていた。

  瓶を造るを見る

 二人の友人が焼き物師のところで瀬戸物の作るのを見てから、ある立派な所から招かれている宴会にでようと出かけた。
ところが一人の人は瀬戸物づくりに夢中になり、もう一つ見ていこう、もう一つ見ていこう、といって動かない。
そのうち時間も迫り仕方なく先に行ってるとといって一人で行ったのだった。
でも時間が経っても来ない、いつまでも来ない。
それで一人でたくさんのごちそうを頂き帰りには珍しい品物を山のように頂いた。
(教訓)
つまらぬことにいつまでも引っかかっていると飛んだ大間違いを起こすものだ

寓話というと話そのものは面白いものが多いけど教訓にはたいてい白けさせられる。
イソップの寓話の教訓もほとんど常識的だ。

この話もそう。
極めて常識的、
きわめて俗物的、何より酔うことを優先する、このぐうたら百姓的だ。

酔うのはいっ時。
酔いがさめたらもう終わり。
でも瀬戸物の作り方を学ぶと、学んだことはこれからもずっと自分に実になる。
飲み会をやめて瀬戸物づくりを学んだほうがずっと賢い。


古代ギリシャの旅

2018年03月28日 19時05分51秒 | 本の中から
今でも中断しつつも古代ギリシャの本の旅を続けている。
今読んでるるのはルクレティウスの「事物の本性について」
ルクレティウスは古代ローマの人だけど、この長編詩では古代ギリシャの哲学者エピクロスの思想を詩に綴っている。

エピクロスというと「快楽主義」と誰でも思っているだろうけどまったくそれは誤解。
「快楽主義」ではなく「現実主義」

エピクロスの思想、当時はとっても斬新だっただろうけど、今では当たり前だとしか思えない。
ものごとのすべては原子「アトム」でできている。
霊魂、感情もアトムでできている。
それで死後の世界は霊魂なるものも存在しない。

という当時は斬新的だったかもしれないけど、今では当たりまえの考え方としか思えない。
だから読んでてとっても退屈だ。

ルクレティウスは生涯でこの作品しか残していない。
それでいて、この作品が「世界古典文学全集」に名を残すほどの作品を作った。
たった1作で、今でいえばノーベル文学賞並みの作品作った。
これは詩の評価以外にエピクロスの作品がほとんど残っていない、
わずかに手紙が確か2通だけ、あとは断片だけ。
エピクロスは生涯300冊の本を書いたといわれる。
でも残されたまともな思想を伝える本はこのルクレティウスの詩だけ。
でも幸いにもこの膨大な詩で今エピクロスの哲学の全容をとらえることが出きる。

その範囲はというと・・・
とっても広大、この世のすべてにわたっている。

物質と空間・・・すべてアトム(原子)からなる。
時間自信で独立に存在するものではない。
宇宙は無限で宇宙の中心はない。

時間は不定、アトムはその進路をそらす。
空虚の中ではアトムの速度は同じ重さだけでは衝突は生まれない。
アトムはすべて運動しているが全体として停止している。
「事物の本性について」・・・とっても退屈だった。
宇宙には世界が多数存在する。
自然は神々とは関係ない。

体と魂とは分離できない。
死ねば魂もまた死ぬ。
死ねば物への渇望もまた消える。

神々は人間のために世界を作ったわけじゃない。
世界は死すべきものである。

さらには天体・宇宙~太陽や星や月のこと、
生物のこと、人類の歴史。
気象や地質。
恋愛、感覚、視聴覚・・・

・・・このようにあらゆる分野で詩という形で議論を展開していく。

きっと原文のラテン語ではとっても素晴らしい詩なのだろう。
エピクロスの哲学を詩という形で紹介しただけなのに、世界文学全集に乗せられるだけの作品を現したのだから。
でも翻訳を通して読むと少しもその魅了を感じない。
そのエピクロスの哲学も当時はとっても斬新だったのだろうけど、今では当たり前、退屈でしかない。
これは詩の宿命なのだろう。

ハイネはあれほど素晴らしい詩を残しているのに、翻訳で読むとまったくがっかりさせられる。
でもハイネの場合はシューベルトやシューマン、とりわけシューマンの歌曲によってその美しさを感じることができる。
でも他の詩人の詩はどうだろうか?
芭蕉の句を英訳したものを直訳した詩を読んだら、それは芭蕉とはまったく違った別の詩でがっかりさせられ。

これは詩の宿命かもしれない。
ともあれ生涯300冊も書いたのに今では他人の現したこの作品1作しか残されていない。
これは悲しいことだけど、ターレスとかヘラクレイトスとか断片しか残っていない人に比べるとまだ幸せかもしれない。
あの膨大な著作を書いたアリストテレス。
それでも今では4分の1しか残ってないという。
それに比べるとほぼ全作が残っているプラトンやクセノフォンは、
失われた作品はあるけど大部分は残っている、3大悲劇詩人・アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス、そして喜劇詩人アリストファネスは幸せだったというべきだろう。

再読

2018年02月26日 02時21分44秒 | 本の中から
中断しつつもアリストファネスをみな再読した。
日頃再読しない人間。
読みたい本はたくさんあるので、なかなか再読までは目が回らない。
でも再読すると最初に読んだ頃のことが蘇り懐かしいし、あの頃とは全く違った読後感を覚えるのが面白い。
アリストファネスを読んだのか高校時代、すっかり夢中になった。
でも今読み直すと、あの自由奔放な想像力は今でも面白いと思いながらも注釈なしでは面白さが伝わってこないのがなんとも煩わしい。
もともと喜劇はその時代に左右される。
時代に言葉に観客のレベルに制約されるためにその時代のことがわからないと面白さが伝わらない。
もちろんモリエールの作品のような、とりわけ「人間嫌い」のような時代を超えた作品は注釈なしで楽しむことができる。
これこそ本当の喜劇だと思うけどこんな作品はまれだ。
そこがしばしば悲劇の方が喜劇よりも上だと思われるところだけど、でもそんなことはない。
なんせ喜劇大好き人間なのだから。

でもあらためてアリストファネスを読むと、とりわけ鳥や蛙みたいな作品を読むとやっぱりアリストファネスはいいね!と思う。
でも騎士みたいな作品は評価しない。
これは当時の権力者クレオンの悪口を言ってるだけ。
クレオンは主戦論者で平和主義者のアリストファネスにはなんとも我慢できなかっただろうし、
ペロポネソス戦争で敗れてアテネを滅亡させた原因を作った人間。
主戦論は俗耳には入りやすい。
アリストファネスの気持ちはわかるけど時代を離れて喜劇として読むとやっぱり単に悪口を言ってるだけだとしか思えない。
でもこの作品が、1等をとった。
いつの時代でも権力者の悪口をいうと一般の人には受けるものだ。
しかしこのような作品が上演されて台本が残っているということに、古代アテネの言論の自由ってすごいなと思う。
この騎士の上演に役者はクレオンの仮面をかぶることを怖がり、しかたなくアリストファネス自身がこの仮面をかぶって上演したという。
アリストファネスはこのこともありいろいろ迫害を受けたらしいことは他の喜劇のはしはしに台詞として残っている。
にもかかわらずそれもすべて台本として残っていることに、あらためて古代アテネの言論の自由ってすごいなと思う。

ところで、こんなことじゃない、再読の話。
もともと再読しない人間。
でも再読したい本はたくさんある。
とりわけ読みたいのは、
ショーペンハウエルのパレルガ・ウント・パラリポメナ(哲学小品集)とモンテーニュのエセー
哲学小品集は渋い作品で晩年に読み返すときっとその渋さに味を感じるだろうなと思っていた。
エセーは膨大な作品でこれまた晩年に読むとじっくりした味わいを感じるだろうなと思っていた。
どちらも完読することができるかどうか・・・多分無理だろうけど、そのうち読み返そうと思っている。

ともあれこれから、古典という船に乗り酒瓶を片手に心の旅を楽しもうと思っている。

「アナグマはクマではありません」

2018年02月10日 10時14分45秒 | 本の中から
「アナグマはクマではありません」福田幸広・著を読んだ。
アナグマの写真集で、写真で見るとアナグマって可愛いものが。
これで畑さえ荒らさなかったらね・・・

我が家の前の廃屋のアナグマ、最近見ない。
冬は冬眠みたいな暮らしをするらしいので、暖かくなったらまたでてくるだろう。
でてこなくてもいいけど・・・

アナグマは穴の中で暮らす。
廃屋アナグマは廃屋の床で暮らしているのかと思っていたけど、
やっぱり床の下に穴を掘って暮らしているのだろう。
農園のところどころ穴を掘ったらしい跡がある。
これもきっとアナグマの仕業だろう。

アナグマはもちろんクマの仲間ではない。
タヌキに似ていてムジナとも呼ばれてマンガ日本昔話でもおなじみの動物。
それでタヌキの仲間だと思われがちだけど実は全然違ってて、イタチの仲間。
体型はどう見てもタヌキだけどね

アナグマは食肉目イタチ科アナグマ属
タヌキは食肉目イヌ科タヌキ属

イヌの仲間のタヌキとは分類上は大分離れている。

イタチの仲間はアナグマ、テンだけでなくカワウソやラッコまで地上に地中に水の中に(それから廃屋まで)・・・いろんなところに住んでいる。
なんてネットを検索しながのほほんと雨の日を過ごしている。

「森友・加計事件」~朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪~

2018年02月06日 18時48分00秒 | 本の中から
「森友・加計事件」~朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪~小川榮太郎・著
を読んだ。
普通のことが普通に書かれているだけだと思った。
そしてその結果は

古代アテネはデマゴーグに扇動されて衆愚政治になり、そしてつぶれた。
民主制は常に衆愚政治に陥る危険性を持っている。
そうならないためにはどうしたらいいか?
それには一人一人が賢くならなければならない。
でもそれはそんなに難しいことではない。
自分の目で見て自分の頭で考えたらいいだけのことだ、当たり前に考えたらいいだけのことだ。
ところが当たり前に考えることがとっても難しいらしい。

今度の森友・加計事件これを当たり前に見ると事件でも何でもない。
ところが朝日の色眼鏡をかけてみるとこれが事件に見えてくる。
いったい何が問題だったのか?
色眼鏡を外して自分の目で見てほしい。

国有地が不当に安く、9億から1億3400万で払い下げられた、というのが問題の発端。
ところがこの土地は訳あり物件で飛行場のすぐ近くなので騒音と、その上地下は不法投棄されたゴミの山、
そのため入札しても買い手は誰も現れない、
そして豊中市は隣の土地を実質的には森友よりもさらに安い価格で購入して公園にしている。
さらに瓢箪から駒、生コンがらみで辻本清美疑惑まで浮上してあわてて民進党はもみ消した。
そんないわくつきの物件を森友という人は不動産に関して所詮素人、高く買わされたに過ぎない。

さらに不可解なのは安倍首相夫人が100万円寄付したと非難されていることだ。
これは二重におかしい。
寄付は悪いことか?
寄付したといって非難されたらこれからはみんな寄付なんかしなくなるだろう。
東日本大震災でも阪神大震災でも多くの寄付が寄せられた。
その寄付をした人たちは悪いことをしたのか、寄付を非難されないといけないのか。
さらにおかしいのは森友が突然安倍首相夫人から寄付されたと言い出したこと。
森友の性格からいって寄付されたらすぐにそれを宣伝してより多くの寄付金を集めただろう。
所が言い出したのは朝日、NHK、野党の議員、そして怪しげな「作家」との会談後なのだ。
これはおかしいと誰だって思う。

そしてその結果どうなったか?
今、森友夫妻は長期拘留されている。
結局朝日などに騙され捨てられただけなのだ。
ある意味朝日の被害者なのだ。

昔住んでいた大阪の南港ポートタウン、そこに「さくら幼稚園」という森友が経営する幼稚園があった。
その幼稚園はちょっと派手だったけど別に悪い噂はきかなかった。
普通に経営していた。
理事長もちょっと癖があるという程度の噂しか聞こえてこなかった。
たしかに癖はあるけど教育への情熱はあった。
それを利用して踏みつぶしたのが朝日だ。

まだまだ書きたいことはいっぱいあるけど、加計学園のことも書いてないけど、
もうすっかり酔いどれタイムになったので今日はここまで・・・


能(4)

2018年02月03日 18時06分53秒 | 本の中から
昔は普通のまわりのおじさんたちも祝いの席では鶴亀や高砂を謡った。
あの文化はどこに消えたのだろう?

昔はみんな普通に習い事をしていた。
謡曲、義太夫、清元、常磐津・・・
文楽は都会にいたころ時々見に行ってたので義太夫はわかるけど、清元、常磐津なんてぜんぜん区別できない。
江戸時代のそして明治・大正・昭和に受け継がれてきた文化はどこに消えたのだろう?

「能」の本を読んで思ったのは、とっても大切なものを亡くしたんじゃないかな、ということ。
豊かな日本の文化を、ただただ演劇を見る、コンサートを聴く、そんな受け身になるのでなく、
みんなが役者になって自分で演じるような文化、そんな文化が再現したらいいなと思った。

能(3)

2018年02月03日 16時46分13秒 | 本の中から
能の役者はみな能面をかけるかというとそうではなく、シテだけがかけ、ワキはかけない。
シテは神や幽霊や鬼の類、それを能面であらわす。
能面のような表情のないのっぺりした顔、でも役者の美妙な動き、光の当たり具合によって表情がまったく変わってくる。
「面」を「おもて」というのは面をかぶったとき人はその本性を本当の姿を現す。
能面をかぶっていないときは「直面(ひためん)」といってそれは本当の顔ではない。

・・・そう聞くとすっぴんの女性と化粧した女性の違いをついつい思う。
たいていの女性はすっぴんで人前に出ることを嫌い、化粧して、能面をかぶって人前に出る。
これって男を欺く鬼や幽霊や魑魅魍魎の類ではないだろうか?
とついついあらぬことを考える。
ところで能面をかぶるということは実はとってもつらいこと。
小さな小さな目の穴からしか、暗い暗い世界からしか見ることができない。
そして能面は落ちないようにしっかり頭に結び付けられているため、たちまち酸欠状態になってしまうらしい。
化粧という名の能面をかぶっている女性もそれはそれでかなり大変に違いない。
いつ面がはがれるか、きっといつも気にしているのだろう。

(続く)

能(2)

2018年02月02日 18時05分55秒 | 本の中から
能というとやっぱり都会。
東京、そして大阪にもりっぱな能楽堂がある。
ところでこの前の市民大学講座の講師・福王流ワキ方・江崎欣次朗さんは同じこの市に在住の人。
ん?どうして??
ここには能楽堂なんてしゃれたものはない。
隣の姫路でも聞いたことない。
まあ、毎年姫路城で薪能を開催してはいるのだけど・・・

で、調べてみたら実は姫路には能の文化があった。
福王流というのは関西を中心に活動している流派、そのうちの一つが姫路。

~維新後、1898年に十四世福王繁十郎盛哲が没して宗家が一時中絶するものの、遺弟の野島信(東京)、中村弥三郎(大阪)、江崎金次郎(姫路)らが芸系を守った~とある。

これで納得。
この播磨にも能の文化があったということに。

ところでなかなか納得できないのがシテ方、ワキ方、狂言方、そして囃子。
囃子も笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方・・・みんな分業されている。
今の演劇だったら演技がうまくなったら脇役から主役に抜擢されるだろう。
オーケストラの打楽器奏者だったら小鼓・大鼓・太鼓、みなたたけるだろう。
ところがいくら演技がうまくなってもワキ方に生まれついたら一生脇役をしなければいけない。
小鼓をたたく家に生まれついたら一生大鼓をたたくことはできない。
これってとっても変じゃない?
そもそも家元という制度そのものがおかしいんじゃない?
文楽には家元なんてないよ。
そこは実力主義の世界だよ。
それが普通なんじゃない?
と、どうしても思ってしまう。

・・・う~む、いかん!
またしても焼酎が、芋焼酎がきいてきた。
というわけで続きは明日ですよ~~~!
うぃぃ~~~!!

能(1)

2018年02月01日 17時50分09秒 | 本の中から
「能」安田登・著(新潮社)を読んだ。
この前、市民大学講座で「能」の話を聞いた。
とっても楽しい話だった。
それで能の本を読もうと思ったのだ。

もともと能には興味はあった、興味だけはあった。
でも根がどうしようもないぐうたら人間。
テレビで何度か能を見た程度で、一度も本物を見たことがない。
都会にいたころせめて1度だけでも能楽堂で能を見たかったなぁ~と今頃になって後悔している。
テレビだとあの間がどうしてもだらだらと感じられる。
でも能楽堂という特別の空間だったらまったく別の時間を楽しむことができたかも知れない。
それでも、もしかしたら能が好きになるかもしれないなぁ~とテレビでみてそんな気がした。
それで能にもずっと、でもちょっとだけ興味はあったのだ。

でも・・・なんかよくわからぬ、という気持ちはずっと持ち続けていた。
それはあの舞、あの仕草。
いったいどんな意味があるのだろう?
いくら考えてもわからなかった。
でもこの本を読んで初めて分かった。
じつは何の意味もないことに。
そうか、そうだったのか、
なぁ~んだ、考えすぎだったのだ。
そう思うと能がより近く感じられた。
それにあのだらだらした間延びした「間」。
実は今のスピードになったのは江戸時代になってから。
それ以前は今の倍以上の速さだったとか。
テレビドラマでよく演じられる信長が桶狭間の戦いに出るときの、「敦盛」の、人間50年~、を舞うシーン、
あの時信長はドラマの倍以上のスピードで舞っていた・・・と想像するとその緊迫感が伝わってくる。

さてさて、まだまだ書きたいことはいっぱいあるのだけど、なんせ今は晩酌タイム、酔いが回ってきた。
というわけでお休みなさい。
続きは明日ですよ~~~~
ういぃ~~~

「鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台」

2018年01月23日 17時23分16秒 | 本の中から
「鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台」(学研ムック~歴史群像編集部・編)を読んだ。
この本は壬申の乱から日露戦争(旅順)まで日本の大きな戦や京都や江戸の都市の変遷などを書いている。
鳥瞰イラストでとってもわかりやすいし、
読んでるとまるで鳥になって過去へタイムトラベルしているようだ。

そんなこととっても評価しつつも、
でも次第になんかまどろっこしくなる。
もっともっとトラベルしたい。
ところが相変わらずの源平、戦国、幕末~明治維新、NHKの大河ドラマ路線。
壬申の乱があるのは評価できるけど、どうして南北朝の戦がない。
源平や戦国時代に匹敵する大戦、とうしてもっともっとドラマ性にあふれる戦、それがなぜない?
白村江の戦い、南北朝の戦いや支那事変~太平洋戦争がなぜない?
日本の揺るがす大戦があったのになぜない?

こう見るとこの編集部は今でも相変わらずGHQのマインドコントロールに洗脳されている、汚染されている。
そう思わざるをえない。

この本に取り上げられている戦いはすべて所詮田舎社会のもめごとだ。
蒙古襲来も田舎社会を守る戦い。
日本の歴史はすべて自閉症的な歴史だ。
でも例外はある。
それは白村江の戦いと大東亜戦争。

滅亡した百済の亡命者を受け入れて、百済を回復すべく起こした戦争。
でもそれに敗れて、すっかり内向きになって都も大津に移した。
それ以来ずっと日本は内向き、田舎社会を続けてきた。
ところがそれができない大きな事件が起きた。
それが元寇。
今の感覚で見ると外交が稚拙。
使者を切るなどもってのほか。
適当にあしらって丁重に時間ぎをしたらよかった。
まったく執権は当時の世界情勢がわかっていなかった。
それで一応は恭順したふりをして、お土産などを持たせて、相手を敬って、そして帰したら、それで相手のメンツは保ったのだ。
そう、メンツさえ保ってやればよかった。
フビライも戦を望んでいなかったのだ。

ところが使者を切る、何度も何度も使いを出したのに、返事も出さない。
これじゃ、やらないわけにはいかない。
そして第一次の蒙古襲来。
朝鮮人を主体に将軍も朝鮮人だった。
そしてフビライから禁じられていた対馬・壱岐を襲い、住民を虐殺し強姦し略奪し手に穴をあけ紐で繋いだり、そんな残酷なことをしたのは朝鮮人だった。
そして歴史は繰り返す。
日本の敗戦時には残留日本人に残虐を尽くし、ベトナム戦争の時はアメリカを隠れ蓑にベトナムで残虐を尽くしベトナム人を殺しまくり犯しまくった。

なんてことはおいといて、元寇、結果的には撃退したけどそれはまったく危うい選択だった。
でも鎌倉武士の勇敢な攻撃にすっかりびびって船の中に引っ込んでいるところに嵐が起きて船がみな沈没してしまった。
次はさすがに元も本腰をあげた。
日本を征服しようと、今度はまじ、朝鮮人なんか信用できるかと中国からやってきた。
ところがさすがに今度は日本もまじ。
本腰入れて防備をかためて臨んだので、さすがにすぐには蒙古軍は日本軍をやっつけられぬ。
もたもたしてるうちにまたまた嵐。
こうして蒙古軍は壊滅した。

いえいえこんな話じゃない、大東亜戦争の話。
明治維新後日本は真剣に考えた。
どうしたら欧米から東洋を守ることができるかを。
そのためには日本・中国・朝鮮が同盟することを。
そして朝鮮に使者を送った。
ところが文章が悪いという理由だけで拒絶された。
朝鮮はずっと中国の属国だった。それで朝鮮に対しては「王」と書いた。
日本はずっと独立国だった、それで「天皇」と書いた。
ところが朝鮮王は日本は朝鮮よりも下だと思ってたので、それだけでこの文を受けることを拒絶した。
そのために日本は「脱亜入欧」苦渋の選択だった。
このため日韓併合を産むきっかけになった。
どうして朝鮮は日本に併合されたのか。
それは単に弱かっただけなのだ。
今朝鮮人が日本人に言ってることは、併合したことを謝れ、日本が自分たちよりも強かったことを謝れと言っているに過ぎない。
いったい日本人がアメリカに占領したことを謝れなて言うか?
朝鮮人たちが今でも日本人に言ってることはまったく非常識なことなのだ。

いやいやこんなことではない。
タイムマシンの鳥観図を見ていると、いろんな思いがわいてくる。

こうして歴史問題は捏造れる・・・

2018年01月21日 18時25分08秒 | 本の中から
「こうして歴史問題は捏造れる」(有馬哲夫・著)
「ついに『愛国心の』のタブーから解き放たれる日本人」(ケント・ギルバート著)
を読んだ。
これを読んで、普通のことを、普通に書いているだけだと思った。

ところがこんなことがほんの数年前までは、当たり前ではなかったのだ。
たちまち「右翼」というレッテルを貼られ(今でも張られてはいるけど・・・)抹殺されてきた。
憲法を守れ!言いながら、憲法に保障されている言論の自由さえも守れない、憲法改正という議論さえも許さない、こんな人間ばかりだった。
今までずっとこんな人間たちに支配されてきたのだ。

でも今ではネットの普及で自由に意見が言えるようになった。
昔は新聞に投書することでしか、新聞社の検閲を経てしか自分の意見を言えなかった。
しかもその投書をかってに何の了解もなく自分たちの都合で勝手に変えてしまう、
そんな新聞社の傲慢な検閲を経てしか自分たちの意見を伝えることができなかった。

しかし、今では違う。
このようにネットで自由に自分たちの意見を伝えることができる。
これが本当の言論の自由ではないだろうか?

でもこんなことを言ってもこんなことにどっぷりつかっている人たちを変えることは難しい。
聞く耳を持たない人たちをどうやって説得できる?
日本を卑しめてそれを飯の種にしている人たちをどうやって説得できる?
卑しめるかわりに甘い餌をやらなければ絶対に説得できない。
それで、こんな人たちを説得するのはあきらめて、国を売って暮らしている人たちのことはほっといて、
この人たちに大脳が汚染された人たちのことを考えたらいい。
まだまだそこには希望がある。

まあ、言いたいことはいっぱいあるけど、そんな人たちのことはおいといて、
「こうして歴史問題は捏造れる」、「ついに『愛国心の』のタブーから解き放たれる日本人」・・・ほかにもこの手の本はやくさんあるけど、
外国人の書いた「ついに『愛国心の』のタブーから解き放たれる日本人」に希望を持った。
物事を当たり前に見ること、それが基本的なものの見方。
それが哲学だ。
哲学というと変なものの見方をすると思っている人たち、それは間違っている。
まず正面から見る。
そしてそれがまちがっていないかどうか、斜めから見る、後ろから見る。
それが哲学だ。
この本を読むとよほど鈍感な人でない限り、今まで、斜めから見る後ろからだけで見てたことに気づくだろう。



劇場

2018年01月19日 17時45分18秒 | 本の中から
又吉直樹「劇場」を読んだ。
娘が演劇系で下北沢当たりの小さな劇場にも行ったことあるので、とっても興味深く読んだ。

がっぽりがっぽり稼いでいるのはほんの一握り。
あとはみんなその日暮らしの貧しい貧しい暮らしをしている。

講演が決まると途端に貧乏する。
だって仕事をやめて練習に専念しないといけないから。
それで正職にはつけない。
パートでかつかつの生活を送る。
そんなことが(ほんの少しはわかっているので)興味深く読んだ。

この作者の目はとても冷めている。
こんな冷めた目で漫才の台本が書けるのだろうか?
と、ついつい思う。
いやいや覚めてるからこそ書けるんだとも思う。

芥川賞をとった「火花」では横山やすし風な芸人を冷たく観察してた芸人がいた。
そして「劇場」ではとってもかわいい女性の心をずたずた気づつけてしまったどうしようもない男がいた。
でもそこにあるのは世渡り下手な不器用なシャイな本当は弱い心の優しい男。
こんな本を読むととってもやるせなく、とっても侘しく、とっても悲しい。