goo blog サービス終了のお知らせ 

ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

ナマケモノ

2018年10月08日 17時10分37秒 | 本の中から
「ホントにすごい!生き物図鑑 地球生物・生き方コレクション」という長い題名の本を読んでいる。
現代・過去の変わった生物の話がいろいろ書かれているけど、特に興味を持ったのは、全体の中ではたいして変わっていないナマケモノの話。
ナマケモノは本当に怠け者。
ナマケモノは一日20時間も寝て過ごす。
クマは冬眠するとはいえせいぜい冬の間だけ。
あとはあくせく動き回る。
ところがナマケモノは年中冬眠している。
そして一日の食事はというとなんと8グラム程度。
葉っぱ数枚、あるいは自分の体に生えた苔を食べる程度。
でも恒温動物は自分の体温を維持するためだけに本来不要なエネルギーを摂らないといけない。
ところがナマケモノはなんと逆進化、その怠け癖を維持するために変温動物になってしまった。
それで一日数枚の葉っぱで命を維持していけるのだ。
しかもその葉っぱを完全に消化するまでに1カ月もかかるらしい。

でもバカにしてはいけない。
ナマケモノはたま~~~に移動する時もあるのだ。
それなりに、ゆったりまったり・・・ではあるけど。
時速18メートル!
亀よりはるかに遅!!
それでもせいいっぱい急いでいるのだろうね。

このナマケモノの生態を知るにつけ、これこそ人類の最高に進化した姿ではないだろうか?
と思えてくる。
このナマケモノのようにみんなが暮らしたら現代の問題はすべて解決する。
地球温暖化も少子化対策も高齢者問題も年金問題もみんなみんな解決する。
みんながナマケモノになったらいい。

(サンスクリット版縮約)法華経

2018年10月05日 10時16分45秒 | 本の中から
「(サンスクリット版縮約)法華経」(植木雅俊・訳)を読んだ。

これで法華経は3回読んだことになる。
昔読んだ岩波文庫の「法華経」(坂本幸男・岩本裕訳)
そしてこの前読んだ、「全品現代語訳・法華経」(大角修・訳)
そして今回の「(サンスクリット版縮約)法華経」(植木雅俊・訳)

この3訳の「法華経」みなそれぞれに味がある。
そして今まで持ってた違和感、「観世音菩薩普門品」とか「陀羅尼品」とかその他いくつかの品が、どうやら後世で追加されたものらしいことも分かった納得した。

サンスクリット語訳はわかりやすくはあるのだけど、だらだらした文章にはまったくうんざりさせられた。
これでも縮約!
原本はどれほど、だらだらだったか!
それにこの訳の偈(詩)の部分、訳者ははなから詩として訳すことを放棄しているらしい。
もちろんそのまま散文で訳したら本文とほとんど重なってしまうので、重なる部分は省いて訳している。
もう少し詩として訳したらいいのに・・・

やっぱり鳩摩羅什訳の「法華経」は名訳だと思う。
単に訳するだけでなく、有名な方便品の十如是(この部分はサンスクリットの現本にはないらしい)などを加えることによって(よくわからぬながらも)さらに深みを、有難味を増している。
法華経は鳩摩羅什以前と以後にわかれるだろう。
前者を尊ぶのは仏教学者、後者を尊ぶのは仏教徒。
宗教は生きている。
その生きている宗教が一番わかってないのが仏教学者なのかもしれない。
「(サンスクリット版縮約)法華経」を読んでふとそう思った。

さてこの三つの訳ではまず、「全品現代語訳・法華経」(大角修・訳)をおすめしたい。
入りやすいわかりやすい。
やはり今の日本人にいちばん合うのは鳩摩羅什訳の「法華経」だろう。



法華経

2018年09月27日 17時50分12秒 | 本の中から
たまたま、(ふと血迷って・・・)法華経を読んだ。
法華経は昔読んだことがある。
読み下し文と口語訳で。
そしてその印象はというと・・・
う~~~ん、よくわからぬ、まさに難解難入!
いったいこの法華経から菩薩や法華経を讃える文章を除いたら、いったい何が残るのだろう?
文底秘沈などと言われると、う~~~んとわからぬままに納得せざるを得ない。

しかしこのよくわからないところが、ありがたいのかもしれない。
今回読んだのは、「全品現代語訳・法華経」(大角修・訳)
とってもわかりやすく書いている。
初めて法華経を読む人にはおすすめ。
でも・・・なんか・・・やっぱり・・・よくわからぬ。
このよくわからぬところが法華経の魅力なのかもしれない。

昔読んだときは観音経(観世音菩薩普門品第二十五)に魅かれたというか違和感を持った。
観音様さえ拝んでいたら願い事がすべてかなう。
それなら他の品はどうなるのだろう?
さんざん仏・菩薩、法華経をたたえてきた他の品は?

この「観世音菩薩普門品第二十五」が独立して「観音経」として読経されてきたのもわかるような気がした。
今、寺で圧倒的に多い仏像は釈迦牟尼仏ではなく薬師如来と観音菩薩。
はるかに~はるかに~遠い~遠い~未来に仏になるといわれるよりも、現世で願いが叶う、病気が治る、
その方がずっといい!
それで観音菩薩を拝むのはよくわかる。
それに日本はもともと女系文化。
観音様というと思うのはやっぱり美しい女性。
日本のキリスト教の世界でも「イエス様」よりも「マリア様」が信仰の対象になってきた。
そしてその折衷案なのか「マリア観音」というものが信仰の対象になってきた。
こう考えると今の天皇は男系で続いてきたけど、
天照大神以来、女系の方がよかったのではないのかな?とついつい思えてくる。

まあそんなことは置いといて、今回読んで興味を持った持ったのは、陀羅尼本第二十六。
なんか訳の分からぬ呪文満載。
こんな訳のわからぬ呪文にとっても魅かれる。
そしてこれらを歌にしてみたいと思った。
(ここら辺が普通の人と違うのかな・・・自分でも自分をわけの分からぬ人間だと思ってるから・・・)
でもね宮沢賢治はこの呪文をしゃれた詩にしているのだよ。
祭りと言う詩にね。
そしてこの詩で賢治は効果的にこの呪文を循環させた。
この詩を読むとますます歌にしたくなった。

この陀羅尼本、訳のわからぬところがいい。
想像力を思いっきり弾ませられるのがいい。
そうそう歌にしようね。


図書館

2018年09月21日 18時03分25秒 | 本の中から
図書館で本を借りるたびにいつも思う。
こんなことしてていいのいのだろうか?
図書館で借りた本なんてしょせんタダ読み。
苦労して本を書いた著者だけでなく出版社も、
ただ読みされていいのだろうか?
著者・出版社・読者は共存共栄の関係にある。
それを乱しているのは図書館ではないか?
町の本屋の経営を圧迫してるのも図書館ではないか?

そう思うと図書館で本を借りるのはとってやましい。
しかし読者の立場になるといいたくなる。
何年か前、本を整理しようと思って何百冊か車で30分の所の古本屋にもちこんだことがある。
そしてその値段が・・・なんと1000円!
学生時代こんなたくさんの本を買うのにどれほど苦労したか・・・
それが1000円!
今までの自分の人生がずたずたにされたような、そんな気持になって、意気消沈して、どうでもいいやという気持ちになって、手放し退散したのだった。
もう二度と古本屋にはいかない!
我が家の裏の沢のそばで本を焼いて、その炎を見ながら、焼いた本の思いにふける、その方がずっといい!

いえいえそんな話じゃない、図書館の話。
図書館はすべて有料でありたい。
個人で金が払えないなら、せめて自治体が金を払え!
著者・出版社・読者は共存共栄の関係にあるのだ。

悪魔呼ばれたヴァイオリニスト

2018年09月20日 18時31分13秒 | 本の中から
今日は一日雨だった。
こんな物憂げな秋雨の日はパガニーニのヴァイオリン協奏曲がよく似合う。
と言っても今日聞いたわけではない。
「悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト」という本を読んだ。

パガニーニの曲を聞くとそこに感じるのは竹久夢二のやるせなさ。
大正か昭和初期か、ある天才ヴァイオリニストがいた。
そしてアメリカに留学し、そして日米ギャップ、いじめにあい、自殺を図って、脳をやられて、生涯ふぐ者で終わった・・・
そんなある天才ヴァイオリニストのことを。

パガニーニの協奏曲ではオーケストラは単にバイオリンの伴奏でしかない。
モーッアルトの歌曲の伴奏のピアノのように。
でもそれだけにヴァイオリンの魅力にひかれる。

雨の中、日本の薄幸の天才ヴァイオリニストのことをつい思い浮かべる。

列子

2018年09月01日 17時16分15秒 | 本の中から
諸子百家の時代は中国の歴史の中でもとっても魅力的な時代だ。
漢以後、儒教に汚染された中国は実につまらない。

諸子百家の中では韓非子が好きだ。
荘子もおもしろい。
孔子は未だに良さはわからない。
退屈なだけだ。
論語を読んでも少しも心に響かない。
孔子がなぜあれほど尊敬されてきたか・・・少しも理解できない。
儒教にゆがめられた頭でなく普通に自分の眼で見て自分の頭で考えたら・・・
はたして孔子ってそんなに素晴らしいのだろうか?
孔子の教えって、権力者の権力維持の道具でしかなかったのではないだろうか?
ドイツの哲学者・ショーペンハウエルも(わかりやすい言葉で)言っている。
孔子・・・「退屈だ!」
荘子・・・「とっても面白い!」
これが普通の当たり前の感覚ではないだろうか?

でもまあそれはそれとして、たまたま列子を読んだ。

列子は思想書というよりは説話集という感じで、それだけに読みやすい。
思想的には荘子に近い。
荘子と共通する説話もたくさんのっている。
この列子の中には「杞憂」とか「朝三暮四」とかの有名な逸話も多い。

ところで書きたかったのは「朝三暮四」の話。

猿を飼ってた人が、猿が増えすぎたので餌代をけちろうと、猿たちに提案した。
「これからは栃の実を朝3つ暮れに4つにしようと思うがどうだろう?」
すると猿たちはみんな怒って反対した!
そこで「では朝4つ暮れに3つで、どうか?」と言ったところ、猿たちは大いに喜んだ。

これは猿たちの愚かさを笑った話。

でもはたしてそうだろうか?
じつは猿たちはとっても賢いと思うのだ。
この猿は経済の原則をよく知っている。
朝多い分の1個を他の猿に貸し付けて夕方利息をとって多く返してもらったらいい。
栃の実では実感はわかないかもしれないけど。
もし夏の初めに夏のボーナスを30万、冬にボーナスを40万払うか
夏に40万、冬に30万払うかどちらがいい?
と聞かれたら誰だって夏の40万を選ぶだろう。
この10万の差をうまく使ったらもっと増やすことができるだろうから・・・
というわけで実に賢いサルで、それをバカにして笑う人間の方がずっと愚かだと思う。

あるいはそんなせこい話ではなくてこの猿、実はメタボ猿で最近体重のことがとって気になってならない。
そんなダイエット志向の猿だったのかもしれない。
それで朝は軽く、夕食はたくさん、でなく、
朝は充分に夕食は軽く。
と思ったのかもしれない。

こう考えると愚かなのは猿ではなく人間の方だと思えてならない。

ジャーナリスト

2018年08月24日 17時20分24秒 | 本の中から

・冒頭社説には2種類しかない、野党型と与党型と。
 野党型の記者は政府が何をしようと、必ず何か難癖をつけ、非難し叱責し忠告しなければならない。
 一方政府側の冒頭社説の記者は、政府がどんなことをしでかそうと、必ずそれを弁護することになっている。
 前者は常に変わらぬ否定であり、後者は常に変わらぬ肯定である。
 ・・・ところでどちらの陣営に属する場合でも、この職に就いて何年かするうちに記者たちは精神にタコができて、
 ある種の決まったもの見方をするようになり、一定数の紋切り型だけで食いつなぐようになる。
 ・・・そこに留まるようなことがあれば、優れた人といえども必ず凡庸な人間になってしまう。

・記者は2種類にわかれる、与党の記者と野党の記者に。
 与党の記者は好人物として通っている。概して才気ある人物が多く、面白く快活で世話好きである。
 外交官のように堕落しているとみずから認めているが、みな楽天家である。
 一方野党の記者は取りすましもったいぶった輩が多い。
 思うにこれは体の外に多くの徳を出しすぎたため、体の中には徳が残っていないからに相違ない。
 謹厳家をもって任じ執拗に政府を責め立てるが、本当の目的は一族郎党の便宜を図るためであったりする。

・野党新聞の標的となるのは決まって権力の依怙贔屓や攻勢を書く、さながらこん棒の一撃のような印象を与える。
 それも当然で野党の新聞は例外なく次のような格言を金科玉条としているのである。

 「まずは鉄槌、説明はそれからだ」

・今日、批評はもはやただ一つのことにしか役立っていない。
 批評家に糊口の資を与えることである。

・ジャーナリストにとってありそうなことはすべて真実である。

・(結論)もしジャーナリズムが存在していないなら、まちがってもこれを発明してはならない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上、長い長い引用でした。

じつはこれ、今のジャーナリズムのことを言っているわけじゃない。
今から170年以上も昔のバルザックの「ジャーナリストの生理学」からの引用。
野党新聞を朝日や毎日に置き換えたら、
与党新聞を産経や読売に置き換えたら、
今の日本でもそのまま通用する。

・ジャーナリストにとってありそうなことはすべて真実である。
 それで、慰安婦問題もモリカケ問題も
 まずは鉄槌!~理由はあとから

翻訳者は解説で言っている。
 一般にジャーナリズムはフランス革命で「表現の自由」を得たことで初めて誕生したとされるが、この「表現の自由」はジャーナリズムによって「妬み、僻み、嫉み」の「三み」を全開させる権利と曲解され、人間のありとあらゆる悪徳が社会の表面に浮上するきっかけを作った。
そう今の日本でも170年もの間、何の進化することもなくこのジャーナリズムがはびこっている。

そしてバルザックは言っている。もし本当の言論の自由が実現したら今のジャーナリズムは滅びてしまうだろうと。
かっては新聞への投書~その実新聞社の検閲を通してしか自分の意見を伝えることはできなかった。
それもその投書も投書者へ何の断りもなく了解もなく編集者がかってに文章を変えたり、縮めたりしてきた。
こんな傲慢なことがまかり通っていた。
(きっと今でもそうだろう)
ところがネットが普及して、自分たちの意見を自由に伝えることができるようになった。
するとたちまち新聞社が今までやってきた捏造、誘導記事があからさまになってきた。
そう、言論の自由で一番困っているのは今のマスコミなのだ。
 




「中華思想を妄信する中国人と韓国人の悲劇」

2018年08月07日 17時31分16秒 | 本の中から
「中華思想を妄信する中国人と韓国人の悲劇」(ケント・ギルバート著)を読んだ。
内容はごくごく当たり前のこと。
でもこんな当たり前のことを外国人から教えられないとわからない日本人がなんと多いことか!
嘆かわしいことだ。


古代ローマの喜劇

2018年07月29日 18時12分15秒 | 本の中から
古代ローマの喜劇作家、プラウトゥスの「捕虜」とテレンティウスの「アンドロスから来た娘」を読んだ。
悲劇は古代ギリシャの3大詩人(アイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデス)と近代悲劇、たとえばラシーヌとの間には時代のギャップ感じない。(シェークスピアはちょっと癖があるけど・・・)
ところがアリストファネスとモリエールとの間にはとってもギャップを感じていた。
でもアリストファネスの最後の作品「福の神」からメナンドロス、そして今度読んだプラウトゥスとテレンティウスの作品を読んでギャップは解消した。

アリストファネス最後の作品「福の神」はそれまでの作品と違って風俗劇的要素が強い。
そこにはもうあの辛辣な政治批判はない。
雲の世界や鳥の世界や黄泉の国への旅もない。
そして登場するのは貧相な福の神。

メナンドロスはさらに現実の風俗を描く。
観客をより身近な笑いに誘う。

そして古代ローマの喜劇。
ローマ帝国って嫌いだったので古代ローマの文学もほとんど読まなかった。
でもローマの劇は喜劇も悲劇もギリシャの模倣。
プラウトゥスもテレンティウスもメナンドロスの模倣。
でもそこにはローマ色もある。
とりわけ奴隷の存在は大きい。
もちろん古代ギリシャにも奴隷はいた。
でも主役は市民。
ところがローマの劇では奴隷が活躍する。
これはモリエールの劇では奴隷が召使になって主人をからかう。
「アンドロスから来た娘」では奴隷がまるでボーマルシェの「フィガロの結婚」のフィガロのように縦横無尽に才気を使って自分の都合のいいようにことを納めようとするけど、ことごとく失敗する。
「捕虜」では道化が出てきて、まるでシェークスピアの喜劇を見てるようだ。

今まで意図的に避けてきた古代ローマ文学、
この古代ローマ文学これからもうちょっと迷い込もうかなと思っている。


メナンドロス

2018年07月17日 05時53分46秒 | 本の中から
メナンドロスを読んだ。
メナンドロスはアリストファネスの死後、約半世紀ほどして生まれた喜劇作家だ。
でも不幸なことにその作品はほとんど残されていない。
(あちこち欠落はあるものの)ほぼ完全な形で残されているものは「気むずかし屋」
それ以外は「調停裁判」も「髪を切られる女」も半分くらいしか残っていないし「サモスの女」はさらにわずかしか残っていない。

古代ギリシャの3大悲劇詩人の悲劇やアリストファネスの喜劇が大部分ほぼ完全な形で残されているのがとても不思議だったけど、
その一方でやっぱり膨大な作品が失われている、とっても残念だ。
その中にはとっても傑作もあっただろう。

そう、傑作がのこるとは限らない、運も大きい。
「気むずかし屋」と「髪を切られる女」は20世紀になって発見された。
「気むずかし屋」と「サモスの女」はメナンドロスの25歳くらいのころの作品らしいけど当然どちらも代表作というわけではない。
にもかかわらず残っているのは幸運というほかないし、失われた傑作をとても残念に思う。

「調停裁判」はたしかにいい作品だと思う。
古代ギリシャ喜劇の形は残しつつも、内容はモリエールにも匹敵する普遍的なもの。
アリストファネスの喜劇に特有の当時の政治への揶揄、古代ギリシャ語による駄洒落。
これを理解するには当時の古代アテネの政情や古代ギリシャ語の知識を必要とする。
それがわからないなら(注)をやたらやたらと見ながらでしかそのユーモアを感じることができない。
その点メナンドロスは(モリエールも)そんな予備知識なしに楽しむことができる。
そんな意味ではメナンドロスやモリエールはアリストファネスよりも普遍的と言えるだろう。

でもそれはしばしば風俗的にとられ軽くみられがちだ。
でもモリエールは風俗劇を昇華して普遍的な性格劇にした。
メナンドロスにも風俗劇でなく性格劇な面も見える。
もっともっと素晴らしい性格劇があったはずなのに・・・
失われた作品が・・・残念でたまらない。

ともあれ、それでも、やっぱりメナンドロスよりもアリストファネスの方が好きだ。
あの健康な諧謔、自由奔放な創造性・・・やっぱりアリストファネスがいい。

時空の旅

2018年07月13日 20時53分57秒 | 本の中から
かってロシア文学を夢中になって読んだことがある。
トルストイやドストエフスキーはもちろんだけど、
とりわけゴーゴリに魅かれた。
それからレールモントフの「現代の英雄」
そしてグリボエードフの「知恵の悲しみ」
自分自身のしょうもない人生の中から読書の世界を除いたら、きっと何にも残らない。
読書を通してロシアもとっても身近に感じられた。
読書を通して時空の旅ができたことが、とっても嬉しい。

ハムレットとドン・キホーテ

2018年07月13日 18時20分20秒 | 本の中から
ハムレットとドン・キホーテ、どちらが優れているか。
確かツルネーゲフだったかな?そんな小論文を書いてたと思う。
途中の経過は忘れたけどドン・キホーテの方がずっといい!という結論だったと思う。
確かに今でもそう思う。

ハムレットは自分のことしか考えてない。
ドン・キホーテは自分を犠牲にして他の人を助けることをまず第一に考える。
絶対ドン・キホーテの方がただしい。
ところが現実はドン・キホーテは単なるお邪魔虫。
空想の世界と現実の世界は違う。

ハムレットは悲劇?
ドン・キホーテは喜劇?
いえいえ実はまったく逆。
若い人はハムレットを読んでほしい。
そして定年退職になったあと、ドン・キホーテを読んでほしい。
きっとドン・キホーテその悲しみがわかるだろう。

サチュリコン

2018年06月30日 17時55分12秒 | 本の中から
ペトロニウスの「サチュリコン」を読んだ。
確か中学のころだったか、シェンキェヴィチの『クォ・ヴァディス』を夢中になって読んだ。
『クォ・ヴァディス』は暴君ネロとキリスト教徒の大弾圧・殉教をあつかったスペクタクル小説。
その小説の中にペトロニウスが登場する。
ペトロニウスは最後はネロによって自殺させられる。
それで「サチュリコン」を読んで見たかったのだけど、結局読まないで時が過ぎ、
今頃になって読もうという気になった。

さて読んでみるとこれがあまり面白くない。
読むのが苦痛でさえあった。
驚くほど豪華でバカげた饗宴の描写にはあきれながらも興味をひかれたが、
それ以外少しも共感しない、というかよくわからない。
それもまあ無理のないところで、もともと16巻という長大なものが今では2巻分ほどしか残されていないという・・・これではつなぎがわからない。
とも昔から読みたいとも持ってた本を何とか読み終えた。

まだまだほかにも読みたいと思ってきて、読んでない本はたくさんある。
これからもちまちま読んでいく。

本当の話

2018年06月27日 05時08分08秒 | 本の中から
ルキアノス「本当の話」を読んだ。
昔読んだ本、それも確か2~3度も読んだと思う。
荒唐無稽な話そしてとっても想像力豊かな話。
こんな本を読むと古代ギリシャ・ローマの小説がとっても身近に感じられる。
そのため後世に大きな影響を与えている。
シラノ・ド・ベジュルラクの「月世界旅行」とかスィフトの「ガリバー旅行記」とか・・・
スィフトはいつもジャーナリストの目を持っていて、話が空想的であればあるほどそこにあるのは「現実」
現実から離れることはない。
ガリバー旅行記の中では「小人国」や「大人国」の章よりも「飛ぶ島」や「馬の国」が好きだ。
スィフトの人間嫌いの面がもろに出ているとっても棘のある話で、そこがもともとあまり素直でない、ちょっとゆがんだ見方をするこのぐうたら百姓好みの作品だ。
一方ルキアノスのこの作品は皮肉とユーモアの精神は旺盛ながら自由奔放な想像力はルイスキャロルの「不思議の国のアリス」の世界を彷彿させる。
ガリバー旅行記のような棘はないので誰でも楽しむことができる。
こんな本を読むとたいていの人は、自分でもこんな本書いてみたいな、と思うだろう。
でもすぐに気づく、「無理!絶対無理!!」

修養全集

2018年06月18日 04時52分08秒 | 本の中から
修養全集2「東西感動美談集」と12「日本の誇」を読んだ。
なんせ昭和4年発行の本。
出版社は「大日本雄弁会講談社」
なんとも時代時代がかった会社名で今の講談社の前身。
今は大手の出版社なので「講談社」という社名に何の違和感ももたないけど、きっと昔は講談の本をだしていたのだろう。
子供のころざらざらした紙の薄い本、真田十勇士~猿飛佐助の話などをとっても面白く読んだ記憶があるけど、あれ、この、講談社の本だったのかな?
講談も浪曲も・・・今ではほぼなくなったのが残念だ。

ところで本題、この本を読むとすぐに傷むのでノリで修理しながらの読書だった。
この手の本って今どきなかなか読む機会がない。
でも読んでて気持ちがいい。
なんせ良いことばかり書いてあるのだから。
この種の本はまず子供たちに読ませた方がいい。
今小学校ではどんな本を推奨しているのか知らないけど、まずはプラス面を教えてほしい。
人間っていいんだね、人のために生きるっていいんだね、日本人っていいいんだね。
家族へのやさしさ、他人への思いやり。
とっても身近ないい話、小さな誰でもできるいい話。

それから偉人伝。
子供のころはよく読んだけど、今どれほど読ませているのだろう?
ゲルマニュームの発見でノーベル賞をとったキュリー夫妻よりも、もしかしたら「キュリー夫人伝」を書いてノーベル賞をとった確かキュリー夫人の妹だったかな?その功績の方がずっと大きいかもしれない。
伝記は子供たちに大きく生きる希望を与えてくれる。

上杉鷹山・・・なんとアメリカの大統領のスピーチで初めて知った。
こんな人がいたんだなぁ~と。
学校で習ったことは一度もなかった。

新田義貞はもちろんのこと楠木正成さえも今では知らない人が多いのではないだろうか?
戦後太平記の世界を意図的にマスコミも学校も排除してきた。
NHKの大河ドラマというと相変わらずの幕末と戦国時代、たまに源平、赤穂浪士・・・
あくびが出そうで今ではほとんど見ていない。
日本の歴史はこれだけか?
そうじゃない、幕末や戦国時代に匹敵する壮大なドラマがあったそれが太平記の世界。
それが取り上げられたのは(記憶では)ただ1度だけ。
それから大化の改新から白村江の戦い~壬申の乱への壮大なドラマ。
これは(記憶では)1度もない。
大河ドラマは世界的に見れば小さないざこざを扱った田舎世界の出来事だ。
ところが世界的に見てもとっても注目されるドラマがあった、それは元寇。
これも(記憶では)ただ1度だけ。

もっと日本が、日本人が世界でどれほど貢献しているのかをアピールしない。
そうすることによって子供たちに夢を与える、子供たちを大きく育てる。
ところが現実はどうだろう?出る杭をたたく、子供たちから夢を奪う、それが教育?

英雄なんてしょせん大量殺戮者じゃない?
シーザー、アレクサンダー・・・いったい何をしてきたの?
建武の中興・・・なんてしょせん後醍醐天皇の懐古趣味、それにつけこみ自分たちの利益しか考えなかった現代の官僚、当時の公家達。その結果建武の中興は失敗した。それに準じた楠木正成親子は時代を見る目がなかった。
優柔不断ではあったけど足利尊氏の方がまだしこ進歩的だった。
・・・こんなことは高校くらいになって自分で考えればいいことだ。