酒井朋子 中村沙絵 奥田太郎 編著 「汚穢のリズム きたなさ・おぞましさの生活考」読了
この本は、
『汚穢のリズムに感覚をそばだてる』
という前書きで始まる。
続いてその目的は、『この本は、汚穢のなかから、汚穢として脈打ちつつ、ものを考えようとしている。』
となっている。この時点で、「あかん・・」となってしまった。編者のひとりである酒井朋子という人は人類学者だということだ。そのほか、合計11名の著者と3名のアーティストのエッセイやインタビューで構成されているが著者のほとんどは同じく人類学者だ。こういう学者独特のよくわからない文化論が展開されるのかと思って恐る恐る読み進めたが、そうでもなくて投稿した人たちそれぞれ考える人間と汚穢の関係というようなものであっってあまり学問的な書き方がされていないというのはよかった。(学術的なところに気づいていなかっただけなのかもしれないが・・)
テーマは「汚穢」というひとつの言葉だが、それぞれのひとの経験と考えは全部違って、書籍としての統一性はないような気がする。“リズム”という言葉が何を意味しているのかということも最後まで僕にはわからなかった。
「汚穢の倫理」という研究会のウエブサイトに投稿されたエッセイを集めたものだそうだが、何を汚穢と感じるかというのは人それぞれ違うのだし、今の時代、汚穢とされるものは山のようにある。なかなかまとまらないのもうなずけるし、この本のキモもそこにあるのではないかと思う。
害虫、雑草、ゴミ、街の臭い、家畜、死、排泄。そういったものに潜む汚穢をテーマにしてひとつひとつのエッセイは書かれている。
『何かを汚穢だと感じているとき、人はそれを感じとりたくない、忌まわしい、離れたいと思っている。』
こういった性向が戦前のころまで当たり前のように身近にあった家畜の臭い、それを屠るときの血なまぐささ、人の死、街の路地のゴミ箱の臭い、そういったものを排除し距離を置くことになった。最近の介護の世界もそうだろう。老人の臭い、排泄、よだれ、そしてその先にある死、そういったものを自宅から追い出してきたのである。
『なにかを清潔にし美化するための浄化、整理、隔離、忌避行動が汚穢を生み出す。』
といった性向は過剰な潔癖さを生み出した。この本では海をきれいにし過ぎたことが海産物の収量の減少をもたらしたのではないかというようなエッセイとして取り上げられている。
最近、僕の港の周りで魚が釣れなくなったのはひょっとして海がきれいになりすぎたからなのではいかともおもっている僕には納得できる意見だ。
すべてに共通するものは、「汚穢」は人が作り出したものであるということを前提にして書かれているということだ。確かに昆虫やミミズ、鳥、犬や猫でさえこれは汚穢なものだから近づかないでおこうと思ってはいないだろう。まずは近寄って臭いを嗅いでみてから食べると危ないと思うくらいだろう。すなわち、汚穢と清潔の境界は人間だけが持っているものであるということだ。その境界線は時代とともに変化し、その変化は拡大の方向に向かう傾向がある。
加えて、人それぞれの生き方、選んだ職業によってその境界線は無数にある。「人と人は分かり合えない」というテーゼはここからくるのではないだろうかとも思えてくる。「性格の不一致」などというのも汚穢の基準の違いが原因なのではないかとも考えられる。
我が家の汚穢も変化した。今では山菜やワカメ、魚をさばいたあとのアラも汚穢なものとなり果てた。僕が家族に疎まれるのはそういったところにも原因がある。そしてそういった空気を読んでいる子供にも伝搬するのだろう。汚穢はきっと遺伝もするのである。
それはいったいいつからのことだったのだろうか。きっとそれは僕の行為が過剰になりすぎたことに対して最近になりとうとうその閾値を超えてしまったのであろう。僕はまったく自分が汚穢の度合いを増したとは思ってもいないのだが・・。
僕自身の汚穢の境界も変わってきた。僕の汚穢の境界線は他人との間にあるようで、その接近の度合いが強い電車の中でその変化が顕著だ。目の前にぶら下がるリュック、無理に組んでいる隣の足などが汚穢でならない。
また、コロナ以降、今ではすでに沈静化しているのもかかわらずアルコール消毒液が欠かせない。
変わらないのは、海山での汚穢の境界線だけだ。そこでの汚穢は野グソとクモの巣くらいだ。それはずっと変わらない。きっと僕の汚穢は自分と他人の間にその臭いを嗅ぎ取ってしまうようなのである。
少し違うかもしれないが、「虎と翼」に出てくる多岐川幸四郎のセリフにこういうものがあった。『人間、生きてこそだ。国や法、人間が定めたもんは、あっという間にひっくり返る…。ひっくり返るもんのために、死んじゃあならんのだ。法律っちゅうもんはな、縛られて死ぬためにあるんじゃない。人が、幸せになるためにあるんだよ。幸せになることを諦めた時点で矛盾が生じる。彼がどんなに立派だろうが、法を司る我々は、彼の死を非難して、怒り続けねばならん。その戒めに、この絵を飾るんだ。』
そうなのである。僕は人が決めた境界線のように、あっというまにひっくり返るものに汚穢を感じるようである。確かに自然界の様子というのはなかなか変わるものではないので汚穢の境界線もなかなか変わらないはずなのである。といっても最近はそうでもないようだが・・。
そして、何よりもその境界というのはより長く生きるための安全地帯を作るようなものであると僕は結論付けた。
最後まで読んでみて、「汚穢」と「神」はよく似ているのではないかと思い始めた。この本の前に読んでいた本では、神は人間が生み出したものであり、その定義は時代とともに拠り所とされる存在から敵対するもの、そして人間らしさを取り戻す象徴として復活してきたと書かれていた。同じように汚穢についても、清潔と汚穢の境界は人間がその線引きの位置を作り出し、その境界は時代とともに変化してきた。そして、それらが生まれた原因となったのは、人が「死」を認識しそれを恐れるようになったからではないか。死とは対極である誕生の前われらはどこに居たのか、そして、死後どこに行くのか。その入り口と出口の外、形而上にいてそれを示そうとするのが「神」であり、入り口と出口の内側、形而下にあってひとの拠り所として存在するのが「汚穢」なのであると思うのである。
その変化のしかたというのは神と同じく、その地位は次第に低められ隅のほうに追いやられて隔離されるような変化をしたけれども、すべてが人工的で無機質になってしまおうとしているとき、もう一度自分の側にそれを取り戻すことで有機的な本来の人間の姿を復元するために汚穢なものを復活させる必要があると考える人たちが出てきた。そういう意味で、かなりの部分で共通しているのではないかと思うのである。
この2冊の本を借りた時、清と濁の両極端な本だなと思ったのだけれども、人間らしさというのはどこにあるのだろうかということを考える上では同じ視点に立っているのではないかと思うのである。
この本は、
『汚穢のリズムに感覚をそばだてる』
という前書きで始まる。
続いてその目的は、『この本は、汚穢のなかから、汚穢として脈打ちつつ、ものを考えようとしている。』
となっている。この時点で、「あかん・・」となってしまった。編者のひとりである酒井朋子という人は人類学者だということだ。そのほか、合計11名の著者と3名のアーティストのエッセイやインタビューで構成されているが著者のほとんどは同じく人類学者だ。こういう学者独特のよくわからない文化論が展開されるのかと思って恐る恐る読み進めたが、そうでもなくて投稿した人たちそれぞれ考える人間と汚穢の関係というようなものであっってあまり学問的な書き方がされていないというのはよかった。(学術的なところに気づいていなかっただけなのかもしれないが・・)
テーマは「汚穢」というひとつの言葉だが、それぞれのひとの経験と考えは全部違って、書籍としての統一性はないような気がする。“リズム”という言葉が何を意味しているのかということも最後まで僕にはわからなかった。
「汚穢の倫理」という研究会のウエブサイトに投稿されたエッセイを集めたものだそうだが、何を汚穢と感じるかというのは人それぞれ違うのだし、今の時代、汚穢とされるものは山のようにある。なかなかまとまらないのもうなずけるし、この本のキモもそこにあるのではないかと思う。
害虫、雑草、ゴミ、街の臭い、家畜、死、排泄。そういったものに潜む汚穢をテーマにしてひとつひとつのエッセイは書かれている。
『何かを汚穢だと感じているとき、人はそれを感じとりたくない、忌まわしい、離れたいと思っている。』
こういった性向が戦前のころまで当たり前のように身近にあった家畜の臭い、それを屠るときの血なまぐささ、人の死、街の路地のゴミ箱の臭い、そういったものを排除し距離を置くことになった。最近の介護の世界もそうだろう。老人の臭い、排泄、よだれ、そしてその先にある死、そういったものを自宅から追い出してきたのである。
『なにかを清潔にし美化するための浄化、整理、隔離、忌避行動が汚穢を生み出す。』
といった性向は過剰な潔癖さを生み出した。この本では海をきれいにし過ぎたことが海産物の収量の減少をもたらしたのではないかというようなエッセイとして取り上げられている。
最近、僕の港の周りで魚が釣れなくなったのはひょっとして海がきれいになりすぎたからなのではいかともおもっている僕には納得できる意見だ。
すべてに共通するものは、「汚穢」は人が作り出したものであるということを前提にして書かれているということだ。確かに昆虫やミミズ、鳥、犬や猫でさえこれは汚穢なものだから近づかないでおこうと思ってはいないだろう。まずは近寄って臭いを嗅いでみてから食べると危ないと思うくらいだろう。すなわち、汚穢と清潔の境界は人間だけが持っているものであるということだ。その境界線は時代とともに変化し、その変化は拡大の方向に向かう傾向がある。
加えて、人それぞれの生き方、選んだ職業によってその境界線は無数にある。「人と人は分かり合えない」というテーゼはここからくるのではないだろうかとも思えてくる。「性格の不一致」などというのも汚穢の基準の違いが原因なのではないかとも考えられる。
我が家の汚穢も変化した。今では山菜やワカメ、魚をさばいたあとのアラも汚穢なものとなり果てた。僕が家族に疎まれるのはそういったところにも原因がある。そしてそういった空気を読んでいる子供にも伝搬するのだろう。汚穢はきっと遺伝もするのである。
それはいったいいつからのことだったのだろうか。きっとそれは僕の行為が過剰になりすぎたことに対して最近になりとうとうその閾値を超えてしまったのであろう。僕はまったく自分が汚穢の度合いを増したとは思ってもいないのだが・・。
僕自身の汚穢の境界も変わってきた。僕の汚穢の境界線は他人との間にあるようで、その接近の度合いが強い電車の中でその変化が顕著だ。目の前にぶら下がるリュック、無理に組んでいる隣の足などが汚穢でならない。
また、コロナ以降、今ではすでに沈静化しているのもかかわらずアルコール消毒液が欠かせない。
変わらないのは、海山での汚穢の境界線だけだ。そこでの汚穢は野グソとクモの巣くらいだ。それはずっと変わらない。きっと僕の汚穢は自分と他人の間にその臭いを嗅ぎ取ってしまうようなのである。
少し違うかもしれないが、「虎と翼」に出てくる多岐川幸四郎のセリフにこういうものがあった。『人間、生きてこそだ。国や法、人間が定めたもんは、あっという間にひっくり返る…。ひっくり返るもんのために、死んじゃあならんのだ。法律っちゅうもんはな、縛られて死ぬためにあるんじゃない。人が、幸せになるためにあるんだよ。幸せになることを諦めた時点で矛盾が生じる。彼がどんなに立派だろうが、法を司る我々は、彼の死を非難して、怒り続けねばならん。その戒めに、この絵を飾るんだ。』
そうなのである。僕は人が決めた境界線のように、あっというまにひっくり返るものに汚穢を感じるようである。確かに自然界の様子というのはなかなか変わるものではないので汚穢の境界線もなかなか変わらないはずなのである。といっても最近はそうでもないようだが・・。
そして、何よりもその境界というのはより長く生きるための安全地帯を作るようなものであると僕は結論付けた。
最後まで読んでみて、「汚穢」と「神」はよく似ているのではないかと思い始めた。この本の前に読んでいた本では、神は人間が生み出したものであり、その定義は時代とともに拠り所とされる存在から敵対するもの、そして人間らしさを取り戻す象徴として復活してきたと書かれていた。同じように汚穢についても、清潔と汚穢の境界は人間がその線引きの位置を作り出し、その境界は時代とともに変化してきた。そして、それらが生まれた原因となったのは、人が「死」を認識しそれを恐れるようになったからではないか。死とは対極である誕生の前われらはどこに居たのか、そして、死後どこに行くのか。その入り口と出口の外、形而上にいてそれを示そうとするのが「神」であり、入り口と出口の内側、形而下にあってひとの拠り所として存在するのが「汚穢」なのであると思うのである。
その変化のしかたというのは神と同じく、その地位は次第に低められ隅のほうに追いやられて隔離されるような変化をしたけれども、すべてが人工的で無機質になってしまおうとしているとき、もう一度自分の側にそれを取り戻すことで有機的な本来の人間の姿を復元するために汚穢なものを復活させる必要があると考える人たちが出てきた。そういう意味で、かなりの部分で共通しているのではないかと思うのである。
この2冊の本を借りた時、清と濁の両極端な本だなと思ったのだけれども、人間らしさというのはどこにあるのだろうかということを考える上では同じ視点に立っているのではないかと思うのである。