goo blog サービス終了のお知らせ 

イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「魚は痛みを感じるか? 」読了

2017年11月14日 | 2017読書
ヴィクトリア・ブレイスウェイト/著  高橋 洋/訳 「魚は痛みを感じるか? 」読了

これは切実な問題だ。僕も魚に対してはかなりひどいことをしている。著者はイギリス人でキャッチ&リリースの国だから痛みを覚えるといっても唇に釣り針が掛かったくらいのことを思っているのだろうが、美味しい魚を食べたくて釣りに出る僕はもっとすごいことをしてしまっている。
目の後ろに鉤やナイフを差し込んでぐりぐりするし、うきぶくろに空気が溜まった真鯛はお尻から管を突っ込んで、それは多分腸壁を突き破ってしまっているはずだ。
タチウオはコンクリートブロックに頭をぶつけて失神させてしまい、エソはほぼ生きたまま腹を剥いて頭を落としてしまう・・・。
人間だったら拷問以上のことをしてしまっている。もし、魚が痛みを感じているというのならこれはえらいことなのかもしれない・・・。

著者の解説を順に追って要約していくと、魚には “侵害受容”と言われる、傷害を受けた時に反応する能力よりももっと高度な伝達系があるという。その刺激は間違いなく脳にまで達している。
痛みや苦しみを感じるかどうかというのは魚が“意識”を持っているかどうかで決まる。意識には3つのカテゴリーがあり、ひとつは「アクセス意識」、ひとつは「現象意識」、そして「自己意識」。それらをすべて兼ね備えていれば、情動的であり痛みや苦しみを感じていると定義される。僕にとっては悲しいかな、魚はこの3つのカテゴリーを持っているらしい。
「アクセス意識」とは客観的な認識力、例えば自分の記憶に基づいて周りの状況などを認識できる力である。魚はエサが常にある位置や岩場の位置をかなり正確に認識しているそうだ。実験ではある種のハゼは隣の水溜りの位置を認識して敵の追跡から逃れているという結果が出ているそうだ。また、相手は自分より強いか弱いかということをかなり長い間記憶することができるというような実験結果もあるらしい。
「現象意識」とはそれを主観的に認識する力。客観的に認識したものを、例えばこれは安全だとか、危険だとか、そんなことを分析して認識できることである。魚の脳には構造上、人間の前頭葉に当たる部分が存在し、ドーパミンという物質(快感や安心感のもとになる)を受容できる細胞も存在しているらしい。
「自己意識」とは自分の行動について考え、起こりうる様々なシナリオを想像し、検討して自分の行動様式を修正できる能力である。これについては共同で狩りをする魚、この本ではハタとウツボが紹介されているが、戦利品の分け方で自己意識を持っているような振る舞いをすることがあるそうだ。
こういう事実を総合すると魚は傷みを感じているということになる。

魚だけでなく、イカやタコ、海老などの甲殻類についても同じような見解があり、イカを締めるときに眉間にピックを差し込むなどというのは相当な暴挙なってしまうことになる。
実際、カナダやイギリスでは実験に使われる魚や無脊椎動物にまで規制を広げるような法的整備までなされている国もある。
しかし、ひれがボロボロになった水槽の魚を見ていてもそこをかばうようなそぶりを見せないし、当然ながら生け簀の中に納まった獲物は怯えた顔をしていない。確かに体表の色や模様がちょっと変わることがあるが、それが恐怖や痛みを表現しているということになるのだろうか・・・。
そもそもいくら魚やイカが高度な知能を持っているとはいえ、さすがに言葉を話すわけではないから、「痛い!」とか「怖い!」とい言葉をどうやって理解しているのかがどうも理解できない。まあ、そう言ってしまうと犬や猫も言葉を持っていないだろうということになってしまう。

著者は特に養殖業について密度や環境についての配慮が必要と言っているが、釣りについても、特にキャッチ&リリースについて、何度も痛みを味あわせる行為については疑問を呈している。それならいっそのことなるべく苦しませないように一気に殺してしまう、「クリーンキル」のほうを認めている。ドイツやスイスでは一定の大きさの魚のリリースを禁止する法律があるそうだ。それなら僕のやっていることはキャッチ&リリースよりも魚の福祉に従っているということになるけれども、血だらけになったデッキを見ているとやっぱり相当残酷なことをやっているなと我ながらたじたじとなってしまう。
だからと言って著者が魚釣りを非難しているわけではない。大きな魚の繁殖力や、過剰な放流による問題なども合わせてもっと熟慮が必要であるとしている。

そうかと言って、明日から魚釣りを辞めますなんて言うこともできないので魚を締めるときはなるべく苦しませないように一息に、睨まれていると怖いので指で目に蓋をするくらいはしてみようか・・。
そして、命を奪うからにはきちんと美味しくいただくようにしたいものだ。


「空想科学読本15[愛は地球を滅ぼす]編 」読了

2017年11月08日 | 2017読書
柳田理科雄 「空想科学読本15[愛は地球を滅ぼす]編 」読了

たまにこのシリーズを読むとやっぱり楽しい。取り上げられている題材のアニメやマンガは半分くらいはストーリーもキャラクターもわからないのでウイキペディアやユーチューブを検索しながら読み進めてゆく。
とてつもなく大きなエネルギーやパワーを発揮するキャラクターはまさしくインポッシブルサイエンスであるが、別の意味でいうと、ここまでのテクノロジーや身体能力がないと人類は宇宙へ乗り出すことはできず、ひいて言えば人類の永遠の存続はありえないということだと思う。そんな先のことまではまあ心配することもないのではあるけれども。

そしてそんなとんでもない芸当は未来永劫実現できることはないと思うのだが、著者は、「科学は、人々の夢を実現し、それまでになかった新しいものを生み出す。」と書いている。
これから先もそれまでになかった新しいものが生み出されてくるのかもしれないけれども、はたしてどこまでが人々にとって必要なものなのだろうか?しゃべるだけでコンピューターに動いてもらう必要はないし、自動運転の車にも乗りたいと思わない。もっと突き抜けて瞬間転移するような装置ができればありがたいと思うけれどもそれはないものねだりだ。
ほんのわずかな進歩のために膨大なエネルギーと富つぎ込むということに果たしてどれだけの意義があるのか・・・。こんなのはやっぱり空想科学の中だけで十分じゃないだろうか。

「働かないアリに意義がある 」読了

2017年11月04日 | 2017読書
長谷川英祐 「働かないアリに意義がある 」読了

ぼくのようなサラリーマンにはなんとも心強いというか、僕みたいな人間がいてもいいのだよと思えるタイトルだったので手にとってみた。
アリやハチの巣の中には約2割の働かない個体がいるらしい。ある瞬間ではなんと7割のアリは何もしていない。
この本はそれらの個体はコロニーを維持するためにおいてなぜ必要なのかということと、アリやハチというのは誰でも知っているとおり、女王がいて、その子供の働きアリや働きバチが全体でひとつの社会生活を営んでいるけれども、どうして彼らは自分の子供を作らずに女王の子供をせっせと世話するのかということを、遺伝の法則の見地から解説している。タイトルは「働かないアリ・・・」であるけれども、後者の解説のほうがはるかに多くなっている。
しかし今回は働かないアリについてのみ感想を書いてみたいと思う。

働かないアリであるけれども、実は彼らもちゃんと働くことがある。それは巣の中の仕事がすごく忙しくなってきたときだそうだ。例えばエサや蜜が大量に見つかったり、巣の温度がすごく高くなったときに働き者のアリだけではまかないきれなくなると遅れて仕事に参加するらしい。個体によって仕事に対する反応閾値がちがうようにできているのだ。そうすることによって巣の中を効率的に運営しているらしい。ホコリを見たらすぐに掃除をしたくなる人と、全然気にならない人がいるのと同じことだ。
そうしないでみんな一斉に仕事にとりかかってしまうと、いざというときにすべての仕事をやりきれなくて破滅の危機に陥ってしまう。そんなセーフティネットのような役割を果たしているのが働かない連中らしい。どうも僕が思っていたのとは違って働かないのではなくていざというときのために待機をしているのだった。だめだ、僕の方がアリ以下になってしまう。
そして、みんな女王の子供で同じ遺伝子を持っているはずなのにどうしてそんな仕事に対する閾値の違いが出るかというと、女王は最初の交尾をするときに複数(20匹くらい)のオスと交わるそうだ。そこで閾値の違いが遺伝として働きアリに伝えられるらしい。
僕の父ちゃんはきっと実は低い閾値の人だったのかもしれない。

しかし、巣の中にはもっと強烈なやつがいて、本当に何もしないアリもいるらしい。これをチーターと呼ぶそうだ。英語で「cheat」という単語は「だます」と訳される。そこからの名前だそうだが、彼らの存在意義というのは何もない。“社会”というものができるところでは必ず裏切り者ができる。それは利他的な社会ではそれを自分のためだけに利用しようという輩が生まれてくるという必定があるいうのだ。だから社会をだましているやつらということになる。
ただ、彼らにも様々な運命が待っている。美味しい汁だけ吸っているやつらはどんどん増殖することができる。しかし、増えすぎると宿主を滅ぼしてしまう。だから増殖力のあるチーターは滅び、うまく社会をだまし続けるチーターだけが生き残り、社会全体としては存続することができる。すなわち僕のような“会社の寄生虫”は少ないほどよい。他の人にはばれずに寄生し続けるのにも苦労がいるのだ。

個が立ちすぎれば群れもろとも滅び、他者のために尽くせば裏切り者に出し抜かれる。「群れ」の甘い蜜を一度吸ってしまうと真に面倒くさい。「群れか個か」という問題から逃れるすべはない。
さらにそれに折り合いをつけることは神を目指す行為だと・・・。そしてそのような効率だけを求めるのではなく寄生虫のような無駄を愛することこそ人間らしいとこの本は締めくくられている。

僕のようなアリがいてもいいのだと思うと少しホッとする1冊であった。


「サイエンス・インポッシブル ~SF世界は実現可能か~」読了

2017年10月31日 | 2017読書
ミチオ カク/著 斉藤 隆央/訳 「サイエンス・インポッシブル ~SF世界は実現可能か~」読了

SF小説や映画に出てくる武器や乗り物は現代科学で実現可能かということがテーマの本だ。要は、アメリカ人が書いた空想科学読本のようなものだ。(もう少しお硬く書かれているけれども・・)

まずは実現度合いを3つのステージに分けている。
実現可能度 Ⅰ:現代の物理法則に則って、科学技術が進歩すれば実現可能
実現可能度 Ⅱ:現代の物理法則の周辺にあるような際どい部分を使わないと実現できない。もし実現できたとしても数千年後の未来になるかもしれない。
実現可能度 Ⅲ:現代の物理法則では実現できないもの。まったく新しい物理法則の発見が必要。
となっている。

Ⅰのステージではスターウォーズに出てくる、ライトセーバー、スタートレックの転送装置、フェイザー銃、シールドなどなど。そのほか、宇宙エレベーターや恒星間飛行が可能な宇宙船などが取り上げられている。念力まで書かれているが、それは科学ではないような気もするが・・・。
Ⅱのステージではデススター、ワープ航法、タイムマシン、インフレーション理論で語られる別宇宙への旅行など。
Ⅲのステージでは永久機関や予知能力が取り上げられている。

どれもこれも途方もないエネルギー量(恒星数個分くらい)をコンパクトにして人が持てたり乗り物に積み込んだりしてできるもので、Ⅰのステージのものでも数十年先、数百年先に実現できるかどうかと書かれている。デススターが本当にできてしまっては困るのだが、今の物理法則に照らし合わせると作れないことも無さそうらしい。ただし、映画のような形ではなく、パルサーという放射線のジェットを噴出している星(超新星爆発を起こした星の残骸だそうだ。)のジェットの向きを変えて破壊したい星に照準を合わせるという方式になるそうだ。
ただ、そのときの人類が持っている科学技術力というのは、タイプⅢ文明という途方もなく高い科学力を持った文明に発展するまで待たなければならないようだ。
文明の進歩段階も4つのステージで分けて説明されているのだが、タイプⅠ文明というのは太陽エネルギーですべてのエネルギーをまかなえるようになった文明。タイプⅡ文明は恒星が持つエネルギーを余すところなく使いこなせる文明。タイプⅢ文明は銀河規模のエネルギーを使いこなせる文明。今の地球は主に化石燃料を燃やしてエネルギーを得ているのでタイプ0文明に分類される。

そのタイプ0の文明の最低ラインに位置している僕から見るとどれもこれも実現不可能に思えるけれども、すでに現在の技術の数々がかつては不可能だと言われてきたものであったそうだ。今までの科学技術の歴史を見てくると不可能やありえないということを克服してしてきた歴史でもあったのだ。
100年ちょっと前までは原子の存在さえも疑われていたそうだ。それが今はその原子を見ることができるようになり原子を構成する素粒子までも見つけようとしている。宇宙の始まりはそんな素粒子サイズだったというところまでわかってしまった。
そしてそれを利用して実際に今の生活が成り立っている。車が自動で走り始めるのも目の前に迫っている。そうなってくると、ここに書かれているとんでもないような乗り物や武器が実現しないとも限らない。

しかし、理論の裏付けと技術が出来上がっても、さて、それを誰のお金で誰のために作るのか。光速を超える宇宙船しかり、宇宙エレベーターしかり、世界の富のすべてを何倍すれば完成するのか・・。地球が亡びようとするとき、その宇宙船に誰が乗るのか。これはもめるぞ。
今でも宗教、民族紛争、格差、イデオロギー、世界の人々を分断する要因はいくらでもある。
だから残念ながらこの本に書いている科学の産物はすべて実現不可能になる可能性が限りなく100%のような気がする。

「超ひも理論をパパに習ってみた 天才物理学者・浪速阪教授の70分講義」読了

2017年10月23日 | 2017読書
橋本幸士 「超ひも理論をパパに習ってみた 天才物理学者・浪速阪教授の70分講義」読了

最先端の物理学を物理学者とその高校生の娘との会話でわかりやすく解説しようというものだ。が、全然分かりやすくない。まあ、文科系の大学しか出ていないのでそれはそれで仕方がないことだとは思うが・・・。

テーマにしているのは、物質は“質量”というものをいかにして得ているか。そんなもののようである。その理由には四次元以上の次元の世界が関係しているという。
物質は原子でできているが、その原子はクオークというもっと小さな素粒子でできている。陽子は素粒子が3個集まってできているらしい。
どうして四次元以上の次元世界が関係しているかというと、低い次元の住人は高い次元の切り口しか見えない。異次元にまで広がっているものは切り口が通り過ぎていってしまうと消えてしまったように見える。そんな風に素粒子の世界をか考えると陽子には質量の違うものがたくさんあったり、陽子を構成する三つのクオークを分離できないとかいうことが説明できるらしい。
実際にそんなように見える現象が実験でも見ることができてきているということだ。

しかしながらこの次元にあるはずの物質が異次元空間で説明できるというのはおかしくないのか?というところから生まれてきたのが超ひも理論と言われるものらしい。
素粒子というのは粒様の形ではなく、ヒモのような形をしているというのだ。そういう風に考えると素粒子(光子)と重力がすぐに説明ができるらしい。
ひもは1次元なのでひらひら揺れる方向は1方向しかない。光が偏光するのはそうだからだそうだ。
そして、輪ゴムになったようなひもは重力を生み出す。ちなみに重力を生み出すのも素粒子で、グラヴィトンという。輪ゴムは右方向と左方向の2方向に波打つことができ、どうしてだかわからないがそれが重力を生み出すもとになるらしい。

登場人物の女子高生はパパの解説でそこそこ理解しているようだが、読んでいるこっちはさっぱりわけがわからない。
まず、頭の中で想像してもまったく形が浮かんでこず、ヒモが僕たちの体の原料というのなら、昔の家の藁と土とを混ぜた壁のようなものを考えればいいのか・・・。それとももっと技術が進んだFRPを想像した方がいいのか・・・。

電車の中で見る、化粧にしか興味のなさそうな女子高生を見て、こいつらは人間のクズじゃないかと思っていたけれども、僕も脳みそのレベルはこいつらとあまり変わらないような気がしてきた。僕はクズどころか、細切れのヒモなのかもしれない。それはあまりにも小さいからきっとホコリとかチリとかそんなものなのだろう・・・。


「限りなく完璧に近い人々 なぜ北欧の暮らしは世界一幸せなのか?」“未”読了

2017年10月16日 | 2017読書
マイケル・ブース/著 黒田 眞知/訳 「限りなく完璧に近い人々 なぜ北欧の暮らしは世界一幸せなのか?」“未”読了

サブタイトルは「なぜ北欧の暮らしは世界一幸せなのか?」となっているが、著者はそんな北欧の国々の制度、暮らしを揶揄して異様にしか見えない。
デンマークは過去の栄光を引きづり、外のことに無関心。
アイスランド人は自分たちが世界の覇者だと勘違いしている。
フィンランドはすでに石油に依存しすぎている。
このあと、スウェーデンの章が続くが、読むのを止めてしまった。
僕は読み始めた本はどんなに面白くなくても最後まで読み切る主義だが、この本は読む価値がないのではないかと思った。

デンマークは元々王国だったが、1500年代からどんどん領地を減らしてきたものの、その頃のプライドをずっと引きずっているというのだ。だからデンマーク人は何にでも国旗を付けたがる。
アイスランドはヴァイキングの国。自分たちが一番力を持っていると勘違いしている。リーマン後の金融危機にも危機感を抱いていない。
フィンランドは石油が発見されたことで国は豊かになったが石油が枯渇した後のことを考えていない。
などなど、スウェーデンに対してはどんな評価を下したのかは知らないが、少なくともこの三つの国に対しては政治だけでなく、国民性に対しても批判の言葉を浴びせている。国民性なんて、その国の人すべてがそうであるわけでなく、たとえそうだとしてもそれを他の国の人にとやかく言われる筋合いはなかろう。

北欧の国々はすべて高い税率と引き換えに手厚い福祉の恩恵を受けている。教育、医療、年金、おそらく普通に生活してゆく分には何の不安もない。しかし、著者はそこに自由があるのかと問いかけている。競争がないところには本当の自由はない。安定した生活の中には革新は生まれないと言いたいようだ。
しかし、自分は自由だと思うためには少なくとも生活の安定が必要だ。そういう意味では北欧のシステムというのは素晴らしいと思うがどうだろうか。

イギリスとデンマークを比較して書かれたコラムを以前に見つけていた。
内容は以下のようなものだった。

*******************************************

デンマーク人は今あるものに感謝する能力に長けていて、今の状況に満足をしているんだ。もうひとつは、社会が非常に平等だということ。だからこそ誰にでもチャンスがあるということが大きい。北欧諸国では、誰もが高等教育にアクセスできるため、自分がなりたいものになれるというチャンスがある。

これに対して私が生まれ育った英国は、教育という点では劣る。どれだけおカネを持っているか、どれだけちゃんとした地域に生まれたかで、その後受けられる教育が決まってしまう。

ここから世界が学べることはひとつ。すべての子どもに平等な教育の機会を与えることだ。大学教育も含めて。

――あまり幸福感を感じていない日本人が、デンマーク人から学ぶべきことは何でしょうか。

日本人がすぐに幸福感を感じられる国民になるような明確な回答はないが、たとえば小さなことでも感謝する、今あるものに感謝するという姿勢が大事だと思う。何かモノを得て満足を得るのではなく、家族や友達と過ごしたり、自然の中で過ごしたり、高くなくてもおいしいモノを食べたりという、意味のある時間にもっと重きを置いたらどうだろうか。

*******************************************

この本にも、デンマーク人は集落のつながりを大切にして現状に非常に満足している。と書かれていた。それを別に解釈をすると「過去の栄光を引きづり、外のことに無関心。」となるのであればちょっと著者の心はひん曲がっているように思う。ちなみに著者は英国人だ。

どちらにしても日本の今の状況よりもはるかにいいのではないだろうか。
今は選挙の真っただ中だ、制度は変えることができても文化を変えることはできない。多分、昔の日本も集落のつながりを大切にして現状に非常に満足しながら人々は生きてきたに違いない。
壊れてしまったものは多分、もう元へは戻らない。北欧の人々はきっとそういうことがわかっていてそれを維持するために高い福祉制度を発達させたのであればだれに揶揄さることもないのではないかと思うのである。



「ノミのジャンプと銀河系」読了

2017年10月15日 | 2017読書
椎名誠 「ノミのジャンプと銀河系」読了

久々に椎名誠の本を読んだ。20年ほど前は読む本のほとんどがこの人の本だったこともある。
椎名誠といえば、20代のサラリーマン生活を描いたもの、怪しい仲間たちと日本中をうろついたエッセイ、世界の辺境を目指した体験、そしてナンセンスなSF、自伝的小説といくつかのジャンルがある。今話題の藤井聡太四段の愛読書のひとつになっていた「アド・バード」は作家の書いたSFだ。

しかし、この作家も御年73歳。この本はそんな作家の集大成のようにも思える。
様々な体験の中で生まれてきた疑問、SFにちなんだけた違いな宇宙の大きさや未来の技術について多分僕も読んでいるような一般向け書籍なんかを参考にして書かれたエッセイになっている。
一般向け書籍を参考にしている脱力感というところが椎名誠らしい。

なんだか、世界の辺境を渡り歩いた船乗りが年老いて、ロッキングチェアに揺られながら昔を思い出している。そして、実際に目にしてきた普通では考えられないけた違いの世界を目の前にいる誰かに自慢するわけでもなく淡々と語っている。そんな感じがする。それはそれで人生の玄冬の頃をこんなに過ごせれば本望なのではないかと思うのだ。


「キリンの子 鳥居歌集」読了

2017年10月13日 | 2017読書
鳥居 「キリンの子 鳥居歌集」読了

「鳥居」という歌人を知っているだろうか。ネットでの紹介文を拾い集めてまとめると以下のような感じになる。

三重県出身。自殺、貧困、虐待、いじめ、不登校、DV、ホームレスなどの現代日本社会が抱えるさまざまな不幸をその生い立ちに抱えた天涯孤独の少女だ。
2歳で両親が離婚し、小5の時には目の前で母に自殺され、その後は養護施設でいじめや虐待を受け、満足に食べ物や服も与えられぬまま、ついには不登校に。施設を出てからは、親類からの嫌がらせが止まらずDVシェルターへ避難したり、血のつながりのない人の家を転々としたり、ホームレスを経験した。学校に行けなくなってしまったために、養護施設の職員が読み捨てた新聞で文字を独習したのだという。
現実が何もかもいやになった時、図書館で出会ったのが「短歌」だった。短歌の持つ「孤独のにおい」に自分と同じものを感じ、生きづらい現実を異なる視点でとらえるための「短歌」に惹かれながら、すがるように独学でよむようになった。
現代歌人協会の2012年の全国短歌大会で、穂村弘さん選で佳作に選ばれ、短歌界で最も歴史ある「第61回現代歌人協会賞」受賞。
「鳥居」とは、神の世界と人間の世界をつなぐ結界である。このペンネームには現実と非現実、2つの世界の境界を越え、自由に行き来できるような力を短歌に宿したい。同時に年齢や性別を超える存在になりたい、という思いが込められている。
こんな境遇のひとがいるのだということにも驚きであるが、そんな人が短歌を詠むとは・・・。

こんな環境だったので中学は“形式卒業”という形になっていて夜間中学などで再度学びなおそうとしても受け入れてくれないそうだ。そんな境遇の人々というのは歌人のような人だけではなく、不登校を経験した人たちもあてはまり、学びの機会をもう一度得たいという気持ちと、ちゃんと中学を卒業しなければセーラー服を脱ぐことができないという気持ちでセーラー服を着続けて活動をしているらしい。

短歌のことなどまったく分からないけれども、こんな悲惨な境遇を詠んでいるにもかかわらずその雰囲気は淡々としていてむしろ透明感さえ感じる。友人が目の前で電車に飛び込んで自殺をしたという場面を詠んだものもあったけれどもそれさえも生々しさを感じない。
短歌とはこういうものなのだろうか、それともこの歌人だからこその詠み方なのだろうか・・。
それでも世の中を悲観しているふうでもなく、中には家族のすばらしさ、自然のすばらしさを詠んでいるものまである。そういう、何かに光明を見出せる人だからこそこうやって世の中に出ることができたのだとは思う。
僕にはそんな感性があるわけはなく、この歌集に勇気付けられるようには思わないけれども、歌人のように世の中の嫌なこと、嫌いなこと、ついでに嫌いな人にも何かの光明を見つづけて生きたいものだ。

「外来魚のレシピ: 捕って、さばいて、食ってみた 」読了

2017年10月12日 | 2017読書
平坂寛 「外来魚のレシピ: 捕って、さばいて、食ってみた 」読了

外来生物や外来植物というと、ブラックバスかキリン草くらいしかすぐに思い浮かんでこないのだが、相当な種類がすでに日本にやってきているらしい。
この本は、そんな外来生物のうち、水辺にいる生き物を獲って食べようという企画だ。外来生物といってもほぼ全部魚(ひとつだけカミツキガメというのがあった。)なのでまずは釣りをするところから始まる。
もともと食用に導入されたという過去を持つ魚が多いようで、食べるとけっこう美味しいそうだ。ペットとして入ってきたものでも、カミツキガメは絶品らしいのであなどれない。
そんな外来生物はほとんどが特定外来生物というものに指定されているらしくて生きたままの移動が禁止されている。
大体、淡水の生物は泥臭くて少しの間きれいな水で泥を吐かさないと不味いと言われているが、著者もそれに習ってその場で締めて料理を始めてもかなりの味わいというのだから大したものだ。
僕もブラックバスだけは食べたことがあるけれども、確かに美味しい魚であった。

釣ったものを何でも食べようというのは賛成で、僕も普通の釣り人は持って帰らない魚をよく食べる。サンノジはカルパッチョにするとかなりいけるし、ボラはこのブログに何度か書いたとおりだ。青ブダイは肝に毒があることをあとから知ってあわてふためいたが、煮物もフライもうまかった。カンダイもしかり。タカノハダイはこれが釣れる日は水温が低くてアウトなので仕方なく持って帰る。酢を入れて煮付けにすると美味しい。今はさすがに食べないけれどもギンタも食べた。(ギンタと聞いてその姿を思い浮かべられる人はかなりの魚通なのではないだろうか。)というか、僕の魚釣りのルーツはギンタ釣りだ。小アジの前にギンタ釣りで魚釣りを覚えたのだ。小学校に上がる前によく和歌浦漁港に父親に連れていってもらった。100円で買うオチョコに一杯のゴカイでかなりの数が釣れた。ヌルヌルして小さい魚だけれども母親はやはり酢を入れて煮てくれた。どこの地方かは忘れたが、これの干物は高級品になっているとテレビで見たのはほんの数年前のことだった。そういえば、この魚は最近めっきり見なくなった。どうしてなんだろう・・・。
中には不味いものもある。イズスミはダメだった。あれは苦い。それに切り身にしたとたんに身が見る見る黒ずんでくる。見た目も悪かった。黒アナゴは美味しいけれども骨が多くて食べにくかった。

和歌山の川や池にどれだけの外来生物が潜んでいるのか知らないが、そんな情報があるのなら、僕も一丁釣ってみようかなんて思ってしまう1冊である。
まあ、釣技の無さが最大の問題になってしまうのであるが・・。

「原点 THE ORIGIN 」読了

2017年10月10日 | 2017読書
安彦 良和、斉藤 光政 「原点 THE ORIGIN 」読了

安彦良和と聞いてピンとくる人はかなりなアニメマニアだ。軌道戦士ガンダムの第1作のキャラクターデザインと作画監督をした人だ。そしてこの本は安彦良和が歩んだ人生を本人のエッセイと弘前新聞の記者が同時進行で紹介するというものだ。

安彦良和は1947年生まれで学生時代は全共闘の闘士として活躍した人だそうだ。
友人には安田講堂に立てこもった人もいれば、浅間山荘事件の当事者もいたというのだから、ご本人は淡々と書いているがかなりの人に思える。その活動の場が弘前大学であった。
どうしてそんな人が対極であるようなオタクの象徴の世界の第一人者となったのか、それに興味があってこの本を読んでみた。
結果としては、学生運動に挫折をして食べるために東京に出て、たまたま虫プロダクションに就職してアニメにかかわる仕事するようになったということだ。そこでもとも漫画を描くことがうまかったという実力が認められたらしく、オタクが学生運動をやっていたというわけではなかったようで、むしろこの世界と距離を置きたかったというのが本音らしい。
だから、学生運動やそれまでに心に持っていた世界に対する思いというのはその後漫画家として世に出した作品に表れているようだ。僕はその漫画を読んだことがないのでこの本に書かれていることだけしかわからないが、ふたつの世界大戦、東西冷戦、ベトナム戦争、そして社会主義の崩壊、それらの国々の内戦、それらはいかにして引き起こされたのか、そういうものを漫画を使って解き明かそうとしているらしい。また、どうして日本人は大きな戦争に突入していってしまったのかということを神話の世界までさかのぼって解き明かそうとしている。

ガンダムも異なる思想を持った者たちの戦争を描いてはいるが、安彦良和の考えをすべて反映させているわけではない。(それはそうで、原案者は別の人だ。)
むしろ、ニュータイプというエスパーが世界の人すべてが解りあえる世界に導くというような考えはまったくなく、だから人々がすべて解りあえることは絶対にない。人々は戦争をやめることはできず、そして戦争は何も生み出さない。そんなある意味諦めにも似たような考えが根底にあるように思える。ガンダムとの共通点は、どちらとも正義でも悪でもないというところだろうか。そんなアニメの世界観がこの業界にある意味革命をもたらし安彦良和は一躍時代の寵児に躍り出た。
そういう、諦めにも似た部分というのは、安彦良和のエッセイの淡々とした書き方にも現れているような気がする。

しかし、一方で、その思いを掘り下げるだけ掘り下げ、人の本質というものを浮き出させようとするこの人の情熱というのはこの世代の人たちがもっている独特のエネルギーなのだろうか。日本の国に共産主義が似合っていたのかどうかは分からないが、学生たちが、自分たちの力で革命を起こすことができるのだという気持ちになれるだけでもものすごい。そしてすべての人は挫折することになるわけだが、よく考えたら、高度経済成長を支え、バブル崩壊まで先頭を走っていた人々というのはまさにこの世代の人々ではなかったのだろうか。そう思うと、やはり途方もないエネルギーと何らかの変革を起こしてやろうという野心を心の内にもっていた人々であったのかもしれない。

もうすぐ選挙が始まるが、立候補する人たちのうち、いったいどれだけの人が本当に革命を起こすことができると信じているのだろうか。首相を退陣させるのだと意気込んでいる人たちも退陣させたその後にどんな世界を創るのだというビジョンはあるのだろうか?あったとしても果たして実現できるのだろうか。政権を持っている人たちも今のままで日本が崩壊しないと本気で思っているのだろうか。(本当に崩壊しないのかな?)

戦争は何も生み出さないがこの国の政争も何も生み出さなさそうで困ったものだ・・・。