拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

バカをこくスマホ

2018-03-31 06:49:52 | 日記
日の出が早くなった。遮光カーテン越しでも体がそれを感じるらしく、私の目覚めも早くなった。野菜も安くなった(日の出時間とは関係ないが)。さて。私のスマホは充電が終わると「何%まで充電できました」としゃべる。それだけでは飽き足らないらしく「私(スマホ)、占いとかもできるんですよ」とか言って会話をしようとするが、占いなぞさらさら興味がないし、スマホと会話するほど寂しくもないのですぐ音声をオフにする。それでも、よっぽど寂しいのか、隙をみては話しかけてくる。その内容がここにきて急におかしくなった。「充電って宮殿に似てますね。バッキンガムで充電したらバッキンガム充電ですね」。カー(私がカラスになって鳴いてやった)。さらに、「私(スマホ)の主食が石油ならサウジアラビアに行かなければならないですね」。ばかこくでね(お!「こく」と言ってる!)。産油国はサウジアラビアに限らない。そもそも日本のガソリンスタンドに行けば石油を売っている。それに主食が電気でも大元は(ほとんどが)石油だから同じことだ。とムキになってスマホに反論している私、いつのまにかスマホがこくバカを楽しみにしている。「花子とアン」の終わり頃に登場する出版社の社長さんを演じる脳科学者さんの演技が大根(近くのスーパーで100円を切った)すぎて、きょうび、小学生の学芸会でももうちょっとまともだと思いながら思わず見いってしまうのも同様の心理であらう。その「花子とアン」(BSの再放送)も今日が最終回。「非凡に通じる平凡」という言葉がよかった。さて、新年度は、BSで「まっさん」の再放送をするほか、地上波で夕方「カーネーション」の再々放送をするという。前掛けをした軍国婦人とヒロインの対決はどの作品にも出てくるが、糸子は強烈だった。楽しみ。因みに、「ちりとてちん」のヒロインのお母さんも糸子であった。

津軽弁とフランス語

2018-03-30 09:04:43 | 音楽

なんとなくハート型に見えるのだが。ピザ生地を伸ばす棒は洗ってすぐ乾く。そういう材質なのだろうか。因みにこの棒のことを麺棒というそうだが、耳をかくやつ(あるいは、カセットデッキのヘッドを掃除するやつ)もめんぼうだったよなと思ったらあっちは綿棒であった。さて。東北弁の中でも津軽弁は雰囲気がフランス語によーく似ているそうな。新婚さんいらっしゃいに出てきた津軽出身の新婦が「新婚旅行に行ったパリで店員の態度がよくなかったので津軽弁でまくしたてたらその店員はフランス語で怒られたと思ったらしく態度が一変した」と言っていた。で、津軽弁を実演。ほ、ほんとだ。フランス語っぽい。そう言えば、ロシア語もフランス語っぽく聞こえることがある。津軽とロシア、共通するのは寒いこと。寒いところの言葉はフランス語に似る!?だが、ロシア語がフランス語っぽいのは、近世においてロシアが先進国フランスの文化をたくさん取り入れ、ロシアの貴族の公用語もフランス語だった、そのせいだ、という話もある。そういえば、トルストイの「戦争と平和」で、ロシアがナポレオンと戦争することになって、あるご婦人が「これからはフランス語を話すのはやめましょうね」と呼びかける(朝ドラの戦時中のシーンにも必ず白い前掛けをした軍国婦人が登場してヒロインをいじめる)。だが、このご婦人自身が禁を破ってフランス語を口走ってしまい「だってロシア語なんてださくて」と言い訳をするシーンがあったっけ。私、この小説は学生時代に1年かけて読んだ。ちびりちびり読んでって1年かかったのではなく、途中、長いこと中断して結局1年かかったのだ。でも、中断してもよく戻って完読できた。「源氏物語」など、過去何回か中断し、次に読もうと思ったときには何もかも忘れてるので結局最初から読み直すはめになり、いまだ完読できていない。因んだ話その1。ヴァーグナーの指輪は完成まで何十年もかかったとか言っているが、実際は、ジークフリートの第2幕を書き上げたところで長いこと中断したため完成まで時間がかかった。その2。時効は「中断」するとゼロに戻る。止まったところから再開するのは「停止」である。

ばしこぐでね

2018-03-29 18:38:04 | 言葉
ピエトロ(ドレッシング)のCMで佐々木希さんが「ばしこぐでね」と言っている。秋田弁で、「ばし」=「ウソ」、「こぐ」=「言う」で「ウソを言うな」という意味だそうだ。「ばし」については、はぁそうですか、と納得するだけ。気になったのは「こぐ」だ。元は「こく」なんだろうな。それが訛って「こぐ」になったんだろうな。それは想像がつく。しかし、「こく」=「言う」についてはすぐさま納得するわけにはいかない。なにか近い用法とかが身近にないものだろうか。まず思いついたのは「告る」。でも「告る」なんて言い方をし始めたのは最近のことだ。次に候補にあがったのが「扱(こく)る」。稲のようなものを狭いところにはさんでひきあげる=脱穀するという意味だそうだ。すると、扱って実がこぼれ落ちるようにウソがぼろぼろ出てくる感じなのだろうか。ちょっと無理だなぁ。調査続行。で、ようやく見つけたのが、「体から出る」という意味での「こく」。ウソは口から外に出る。これだ!そう言えばHE(ヘリウムではない)を「こく」と言うではないか。なぜ最初に気がつかなかったんだろう。ということで問題は解決した。HEといえば、中国語で「くまのぷーさん」を「○○○尼」というそうだが、私、最初この文字をちらっと見たとき「尼」を「屁」と見間違えて、そうか、だから「ぷーさん」か、非常に納得したのであった。

ベートーヴェンの交響曲と渚のシンドバッド

2018-03-29 08:42:58 | 音楽
二つ前の「ドンナ・ジョヴァンナ」は、自分としては近来稀にみる大傑作なのであるが、自分の意識と世の評価が一致するとは限らないのが世の常。ベートーヴェンも、「第7」が大人気なのに対して、「第8の方がずっといいのに」と言ったという。さて、私がピンクレディーの曲の中で「渚のシンドバッド」が大好きなのはイントロの振付けだと書いたが、イントロ自体も大好きである。なによりも、移動ドのドでドードーと始まる。こういう潔さは大好きだ。先にベートーヴェンについて触れた。ではベートーヴェンの交響曲のイントロはどうであろうか?渚のシンドバッドに共通するもの(=イントロが主調で始まるもの)には○を付け、そうでないものには×を付けよう。まず第1。ハ長調なのにヘ長調の属七和音で始まる(×)。第2。序奏が主調のニ長調で始まる(○。でも序奏が長いので「渚の」的ではない)。第3。きたー!序奏は(移動ドで)ドッ、ドッ(これだけ。「渚の」以上に「渚の」的。◎)。第4。変ロ長調なのに序奏は変ロ短調(×)。第5(運命)。序奏がない(比較のしようがないから無印)。第6はおいといて第7。序奏が主調のイ長調で始まる(○。第2と同様序奏が長いので「渚の」的ではない)。第8。序奏がない(無印)。第9。ニ短調だがラとミの中抜け和音(空虚五度)で始まる(×)。さて、問題は第6(田園)だ。八分休符の後、(実音で)ラ♭シレドー♭シラソド……といきなり主題が奏でられる。この点、同時代に作られた第5と同じ(初演では、田園が第5で運命が第6だった)。だが、実は低弦は、小節の頭からファー(移動ドでドー)と出ている。つまり八分音符分だけフライングをしているのだ。これをイントロと見るのなら○、主題の一部なら無印となる(主題の一部だろうね。イントロとみるのはかなり無理であった)。以上、あさましくも○×をつけさせていただいたが、これはあくまで渚のシンドバッドのイントロとの共通性についてであって、私の好き嫌いとは一切関係ない。好きなものに○というのであれば、全9曲が◎である。

散るときの花心の色

2018-03-28 11:05:21 | 日記

咲き始めの桜の花心の色は白っぽいが散るときは赤くなるときいて注意して見てみると、ほんとだ、色が違うものが混ざってる。因みに、花心は花の中央を言うが、花唇は花びらを指すという(読みは同じだが)。その花びらが一枚一枚散っていくのが本来だが、一花まるごと落ちているのは雀の仕業だそうだ。以上、すべてこの2,3日内にテレビで得た知識である(じーさんに、なってもしらぬ、ことばかり)。本日の撮影場所=近所の名もない水路(いや、本当は名前があるのだろうが、私が勝手にななしのごんべえにしてるだけ)。

ドンナ・ジョヴァンナが男をたぶらかす物語

2018-03-28 08:19:45 | 音楽
なんでも食う雑食性といえば(前回の記事)、意味こそ違えどドン・ジョヴァンニはまさにそう。その守備範囲は相当に広い。従者レポレロの「カタログの唄」によればお相手の身分、容姿、年齢は問わないそうだ。だが、それは大昔、まだ男が男であった時代の話。草食化した現代の男からは思いもつかない。因みに、女性の肉食化は異性関係のみならず実際の食についてもいえるそうで、焼肉の好きな女性の数は男性を上回るという。そうだ!素晴らしいことを思いついた!「ドン・ジョヴァンニ」を名うてのプレイガール・ドンナ・ジョヴァンナの物語にしたらどうだ!?性別もすべて入れ替える。こっちの方がよっぽど現代に相応しいのではないか?すると、従者はレポレラ(女)。ドンナ・ジョヴァンナに捨てられた元夫でドンナ・ジョヴァンナを追いかける男はドン・エルヴィーロ。婚約中の村のカップルはツェリーノ(男)とマゼッタ(女)。そして、ドンナ・ジョヴァンナに夜這いをかけられたのはドン・ア……ア……さて、困った。「アンナ」に相当する男名がみつからない。この際、ドン安男にしよう(ドン小西って人はいる)。そして、ドン安男のフィアンセで格好いいことばかり言ってるが本当はドン安男といたすことばかり考えてるのはドンナ・オッターヴィア。騎士長は騎士長(ただし性別は女)。役者はそろった。音符は多少変えなければいけない。例えば、騎士長が「ドーンジョヴァーーーーンニ」と言って晩餐の席に来るシーンの「ドーンジョ」は「ドンナジョ」に直そう(音符を細分化して一個増やす)。待てよ、困ったシーンがある。ツェリーノがマゼッタの手を「qui」(ここ)と言って自分の体に導くシーン、どこを触らせればいいのだろう?

ヴァーグナーを聴いて狂人になる

2018-03-27 08:40:25 | 音楽
BSで放送された「海街diary」を観る。なんだか感動してしまった。菅野よう子さんの音楽もよかった。淡々と進行する物語にひっそりと寄り添う音楽であった。ときどき、あれ?これマーラーの5番のアダジェット?と思うことがあった(でも違った)。因みに、今やってる朝ドラ(今週でおしまい)のご都合主義は目にあまるものがある。息子を戦争にとられて決して笑わなくなった西川きよしさん(が演じるじーさん)が、ヒロインの「笑う門には福来たる」の一言でけらけら笑い始める。からくり人形かっ?そしてそこにかぶさる音楽がさも感動的でしょ?と言わんばかり(押しつけがましい。朝ドラの音楽は、作曲者が予め作っておいたパターンの中からディレクターが選択するから、責任はディレクターにある)。燃えさかる寄席に飛び込んでいって中で倒れて動けなくなったら即一酸化炭素中毒だろうに(ひょっこり戻ってきた)。そんなに文句を言うんだったら観なきゃいいのにと思うかもしれないが、いや、リリコが可愛いのだ(因みに、いつもヒロインの傍らにいる徳永エリさんも趣味なのだ)。そのリリコを演じるのは広瀬アリスさん。一般では、妹の広瀬すずさんが先で、で、アリスさんが妹に似てるということらしいが、私、寡聞にしてこの姉妹のことを知らなかった。だからリリコのアリスさんが先で、昨日の「海街」に出てたすずさんに必死にアリスさんの面影を探したものである。さて、「今の朝ドラの音楽が押しつけがましい」と書いたが、押しつけがましいのもヴァーグナーくらい徹底すると、調教に屈した猿のごとく「ははー、まいりました」となる。こないだのソロ・コーナーでちびっと歌ったラインゴルトのエンディングなんか同じ「タンタタタターン」を何度繰り返すことか。そのうち毒が回ってきて「まいりましたー、ゆーことききまーす」になるのだ。「ドグラ・マグラ」を完読して狂人になるという噂があるが、これは出版されたときの本の帯に書いてあった文句だというから信憑性にはとぼしいが、ヴァーグナーを聴くと間違いなく狂人になる。だから私は狂人である(この表現は「ドグラ・マグラ」の影響)。とか言って、ロッシーニも大好きなコウモリ野郎である(何でも食う雑食性である)。そうだ!「ランスへの旅」(ロッシーニ)の第1幕のエンディングの重唱をソロ・コーナーでやろうか!?あれは楽しいぞ。

ドグラ・マグラの音楽感想文のような読書感想文

2018-03-26 18:30:13 | 音楽
私は探偵小説の類は普段は読まないのだが、われらがディーヴァY内さんが夢野久作の「ドグラ・マグラ」をキンドルで読んでると伺って、「タダ」でダウンロードできるということも確認して、早速真似をして読み始めた。かなりの分量だったと思うのだが1週間で読了。普段、グリム童話のドイツ語で四苦八苦してる身からすると、日本語の小説を読むことの楽さ加減は大リーグボール養成ギブスをはずして剛速球を投げられる星飛雄馬のごとし。それよりも、なんといっても内容の怪奇さが半端でない。さすが、推理小説の日本三大の奇書の一つと言われるだけのことはある。ウィキペディアですら容易ではないと言っている粗筋の記載をするつもりは毛頭無い。以下、印象的だった部分を断片的に記していこう。まず、当時(大正時代)の精神病院の実体を歌で歌った部分。各節は「あーあ」で始まり、「チャカポコチャカポコ」(木魚の音?)で終わるのだが、メインの部分、これ全部、チャララララララ、チャラララララララ(7音+8音)で成り立っている。例えば「今は文明開化の御代だよ」というくだりがあって、意味的には「今は、文明開化の、時代だよ」と切るのが正しいだろうが、あえてそう読まず、「いまはぶんめい、かいかのみよだよ」と切って読めばスイスイ進む(声楽の先生からは、言葉の途中で切ってはいけませんとお叱りをたまわるかも知れぬが)。問題は各節の頭の「あーあ」。これは独立したものと考えた方がよい。カルミナ・ブラーナで、「アーーーーア」と言った後、早口の歌詞が続く箇所があった。あんな風に考えればよかろう。それから、「ものを考えるのは脳髄ではなく各細胞である」という部分。あらびっくり。ちょうどNHKでシリーズが終わったばかりの人体のなんとかで、まさに「脳を経由せずに各臓器間でメッセージ物質のやりとりをしている」という話を聞いたばかり。そのことを100年も前に作者が予想していたのであろうか。ところで、私はキンドルにタウンロードして読んだので知らなかったのだが、この奇書の紙の本の表紙のイラストはまるで成人コーナーに置かれてる本のよう。この表紙を見たら推理小説ファンは勘違いして買わないだろうし、逆に勘違いして買った人はひどく落胆するであろう。それから、この作品は映画化されていることが分かった。桂枝雀の快演が光るそうだが、ネットでみる限り中古のDVDがそうとうお高い。見てみたいがこの値段じゃなぁ。それよりもえらい情報を仕入れてしまった。この小説を完読した人は精神に異常をきたすのだそうだ。この小説を敬遠する人の理由は表紙の絵よりもそのことなのだそうだ。私がそれを知ったのは完読後。もう取り返しがつかない……と、そこにもう一人の私が現れて言う。お前はとっくに普通じゃなくなってるからおかしくなりようがない……おお!そうであった。そういえば私はオペラ○○○いと言われていたっけ。

歌いまくる会の発祥の地

2018-03-26 11:58:25 | 音楽
本番まであと1か月余りとなったKMCのマタイの練習に行ったら、Kさんが「すみません、カンタータの会に行けてなくて」と仰る。そんなことを仰られたら私だって「すみません、カンタータの会をさぼりまして(だからここに居る)」と言わざるを得ない。あれ?少し前にカンタータの話を書いてなかったっけって?あれはそっくりの二つの会の後から作った方(年代順に歌う方=歌いまくる会。通称=第二)。さぼったのは元からある方(BWV順に歌う方。通称=第一。正式名称は恥ずかしくて言えない)。第一はBWV47から参加して7年弱連続出場だったが、とうとう休場とあいなった。この際、言っておくが、歌いまくる会(第二)は私が幹事だが、第一は、私はただの一兵卒。両方とも勧誘に努めてるので勘違いされる向きもあるようだ。じゃあなぜ勧誘するのか?第二は幹事だから当然だ。S先生にピアノを引き受けていただいてるんだから、歌い手もそろってなければ失礼だ。じゃあ第一の勧誘はなぜ?それは第一もパートをまだまだ厚くしたいからだ、というと、ウソつけ!お前、自分がアルトに専念したいんで、必死に他のパートを集めてるんだろうっていう「夜警の声が聞こえる」(BWV140より)。いたたたっ、本音をつかれた?だけどね……(以下会話が続く。因みに、会話の主は私と私。妄想会話である。妄想会話って今急に思いついた造語だが、ググると結構ヒットした)。まあ、「ついで」ってこともあったろう。第二の勧誘をしていて他にこういうのもあるよ、と言って第一を紹介しているんだから。さて、話を第二に移そう。歌いまくる会(第二)は、飲み屋でS先生と話していた流れでできた。だから、歌いまくる会の発祥の地は飲み屋である。因みに、飲み屋で私は酒瓶が空になっても逆さにしてしつこく振る。S先生はそれを見て「またやってる」とお喜びになる。その「お喜びの気分」が第二の芽になったようにも思える。すると、一滴の酒も逃すまじとする私のいじこい性格が会の誕生に寄与したと言えなくもない(言えるもんかって?)。因みに「そっくりの二つ」と書いたが、最近読破した夢野久作の「ドグラ・マグラ」に「そっくりの二人」というのが出てくる。この小説の話はまた稿を改めて。

バッハの会に鳴り響いたヴァルハラのテーマ

2018-03-25 11:08:26 | 音楽
昨日の歌いまくる会の曲目はBWV71。バッハの生前に楽譜が発売された唯一のカンタータ。市の参事官の交代式のために作曲されたとあって全体的に華やかさが際立つが、それでもミュールハウゼン時代の作品らしい節回しがここかしこにある。年代順に歌っているのでそこらへんがよく分かる。さて、ミュールハウゼン時代も残りは二曲。次回は196で、その次がいよいよ4番。そういえば、今回のBWV71に4番で使われるコラールそっくりのメロディーが登場する。そこらへんに「同時代」を感じるが、だが4番は独特だ。そのこともあって、作曲時期をミュールハウゼン時代の最初にもってくる研究者もいれば、最後におく人もいる。われわれの会では「おいしいものはとっておく」式で最後に歌おう。今回、ソロ・コーナーで私が歌ったのは二重唱とソロ。二重唱は「ヘンゼルとグレーテル」(フンパーディンク)の「夕べの祈り」。そしてソロは、「ラインゴルト」(ヴァーグナー)からドンナーが雲を呼んでフローが虹をかけてヴォータンがぶつぶつ言うシーン。これを歌うのが長年の念願だった。今回それがかなった。ドンナーが「雲を呼んで空を掃き清めよう」と歌う最後の音符でレの♭がとれて長調になって雲がわきあがるところ、鳥肌が立った。そして会場に鳴り響くヴァルハラのテーマ。鈴木先生ならいきなり楽譜(ヴァーグナーの巨大なオーケストレーションを無理矢理ピアノ譜におしこめた無理きわまりないもの)をお渡ししても弾いて下さるに違いないと思い、その通りであった。そう、これは鈴木先生のピアノを聴くための選曲であった。ああ幸せ!

免疫

2018-03-24 08:55:02 | 日記
猫が容器からこぼして床にちらばったフードを食べているのを見て思い出した。私の実家の家訓は「落ちた物は拾って食べろ」であった。父はこの「家訓」を人類普遍の絶対真理のごとく言っていた(そのときの父の偉そうな顔が今でも目に浮かぶ)。だが、私が長じて外界と交わるうちに、この絶対真理は非文明的な蛮行であることが分かってきた。そして絶対真理の伝道者である父は私の中で野蛮人に格下げになった。ところがだ。格付変更から大分たってどっかのお医者さんが書いた本を読んだら「清潔すぎる環境で育つと免疫が発達しない」とある。はたと思い当たった。私は賞味期限が過ぎた物を食べてもお腹をこわさない。これはもしかしてわが家の「家訓」の賜物なのだろうか。そういえば、野良猫は「落ちてる物」を食べるのが当たり前。それでいちいちお腹をこわしていたら野良猫稼業は務まらない。人間界にも「3秒ルール」なるものがある。一度落ちたなら3秒だろうが3時間だろうが同じだと思うのだが、要はもともとへっちゃらなところにあえて「言い訳」をしているのだろう。畑にうわってる野菜の泥の付きようは落ちてる物の比ではないが、とれたては旨いと言って引っこ抜いた物をばりばり食べる人もいる。ただし、父が家訓を言ったのは免疫のことを考えたからではなく、単に食べ物を粗末にしてはいけない、との思いからだったと思う。そういえば、修行僧はおひつの中にうっすら白いものを残すだけでも許されないと聞いた。では修行僧も「落ちた物は拾って食べろ」と言われているのだろうか。さて、現在の私。父が反面教師になったせいもあり、猫がテーブルの上をべたべた歩き回ってることもあり、以前はテーブルの上に落ちた物も食べられなかった。だが、最近は「努力して」食べるようにしている。それでも床に落ちたら無理だ。落ちた瞬間、猫の毛とほこりでまっしろけっけになるから。すると、私の実家の床は綺麗だったんだなぁ。母が掃除をしてたんだなぁ。

詩が先か、音楽が先か

2018-03-23 08:40:46 | 音楽
アサイチにユーミンが出てる。こういう生番組に出るのは笑っていいとものテレフォンショッキング以来だという。それ覚えてる。お友達紹介のときにタモリさんと名前の読みが同じ某氏(某事件で注目されていた)を呼ぶとか言い出してタモリさんをあわてさせたんだった。そのユーミン、「音楽が先で詩は後から」と言っている。クラシックでも必ずしも「詩からインスピレーションを得て曲ができる」(詩が先)とは限らないようで、「バラの騎士」の第3幕の最後の二重唱はシュトラウスの曲が先にできていて、それに合う詩をホーフマンスタールが付けたそうだ。そこは大作曲家。相手が気鋭の詩人でも歌詞についてかなりの注文を付けたようで、そのあたりの関係性はヴェルディとアリゴ・ボーイトの間にも見て取れる。まあ、オペラの台本を書く人にもいろいろいて、劇場の座付き作家として台本を量産する人もいれば(今やってる朝ドラの万丈目さんの役どころ。このドラマ、しばらく脱落していたが、リリコが可愛いので、最近またちらほら見ている)、芸術性にこだわる人もいたりして、例えば、プッチーニのボエームの台本は、ストーリーを組み立てるイルリカとそれに芸術性を付与するジャコーザの二人の作家の共同作業であった。台本作家といえば、バッハのカンタータにも台本作家は欠かせなかった。もちろん、聖書やコラールが土台なのだが、その合間の部分は、土台を元にした自由詩が使われていて、その作者は、今で言う座付き作家(朝ドラの万丈目さん)みたいな人たち。ほとんど名前が残ってない。偉い人たちは、その台本の「不出来」をあげつらっている。私にはいいんだか悪いんだかは分からないが、語順はドイツ語学校で習うルールを無視していることが多い。歌詞はえてしてそうだというが、ゲーテ・インスティトゥートの試験なら落第だ。でも、バッハが毎週カンタータの作曲で大変だったと言うんだったら作家さんだって同じく毎週の作業なんだからお疲れ様だったと思う(韻とかも踏まなきゃいけないし)。

夫婦で合唱

2018-03-22 11:09:55 | 日記
(承前)彼女だけではない。某女史も、長らく単身赴任をされていたご主人が帰宅され、今では「ずーーーーーっと」(女史の表現)家にいるという。「もう、うっとうしくて」「なんで?」「だっていびきをかくのよ。うるさいったらありゃしない」「昔だってかいてたんでしょ?」「……昔はかいてなかったわ」。この夫婦の寝所を覗いたことはないから真偽のほどは分からない。それにしても、われわれの同期の結婚観の悲惨なこと。まるで「夫婦60歳にして席を同じくせず」だ。しまった。彼らにわれわれの後輩であるあの夫婦の話をすればよかった。最近歌の会でご一緒している某夫婦はまさに大学の合唱団の後輩。いつもご一緒で、デュエットをする様が限りなく麗しい。こういう「大後輩」がいるんだよ、と言ってやればよかった(そんなことを言ったらさらに巨大なブーメランになって返ってきたかもしれないが)。実際のところ、あちこちの合唱の会にはご夫婦で参加されている例がかなりある。どのご夫婦も仲がよい。夫婦で合唱をするのが円満の秘訣なのかもしれない……って、はいはい言われなくても分かってます。私が言えることではありません。まったくこの件について私は大きな事は言えないのだ。だから字も小さくなるのだ。

ブーメラン

2018-03-22 09:19:43 | 音楽
昨日は大学の合唱団(室内合唱団)の同期会。歌を歌って場所を移してお食事会になって出る話が子供の結婚相手の実家との付き合い方。こういう話になると私に出る幕はない。バッハのバの字も出ないし、猫のネの字も出ない。思い出話として「僕たちがイェフテを歌った時にイェフテの娘を歌って下さった市川倫子さんは、日本で最初にツェルビネッタを歌ったえらーい人だったんだよね」と言っても座はシーン。私らの代は人数がたくさんいたのだが音楽を続けてる人はほんのひとにぎりなのだ。だから、学生時代、あんなに美声を響かせていた某君も昨日の会ではおそるおそる歌ってる(カラオケはよく行くらしいが)。そうだ、某君は歌いまくる会に来て歌えばいいんだ!で、昔の美声を取り戻せばいいんだ!さっそく勧誘。ついでに奥さんも誘ってみる(私らの代は同期で三組が結婚していて、どのカップルも別れてない。これが同期会を開ける大きな要因)。すると、奥さん曰く、「ダンナが行くんだったらあたしは行かない」「えー?なんで?」「夫婦は一緒にいない方がいい」。そ、そんな、夫婦で仲良くすればいいじゃん。すると「いーじまくんだって、リコンしたじゃない」。いたー、とんだブーメランが返ってきた。