拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

第九のメロディーのぱくり、ぱくられ疑惑

2017-01-31 08:32:06 | 音楽
モーツァルトの「Misericordias Domini K222」の伴奏部分に(以下全部移動ド)「♪ミーファソソファミレドーレミミレドシ」というメロディーが出てくる。第九とそっくり。時系列からいってぱくったのはベートーヴェンだろう。前科もあるし(バスティアンとバスティエンヌ:ドーミドーソドドミソミドー、エロイカ:ドーミドーソドミソドー。でも、主要三和音を使っただけとも言える。もしかしたら、ちっさい子供に何か曲を作ってごらんと言ったらそっくりなのを作るかもしれない)。いや、ここから第九に一足飛びではない。間に、ベートーヴェンの合唱幻想曲が入る。これ、♪ミミファミと始めると例によって音余りになる。♪ミミ|ファミレド|ドシラシ|ドドレミ|ミレ……うーん、こっちはアウフタクト始まりのせいもあってK222とは雰囲気が違う。これを第九の起源と考えると「ぱくり説」もすこし怪しくなる?ベートーヴェンの代理人弁護士だったらそう言うだろう。ぱくった者はぱくられる。シューベルトのザ・グレイトは、これは「ぱくり」でよいだろう。シューベルトはベートーヴェンを尊敬していた。「ぱくる」をきれいな言葉で言うと「オマージュを捧げる」。ぱくり方は、最初は控えめ。第4楽章に、「♪ソーファミミファミレドー」というメロディーがそろーっと出てくる。何度か繰り返した後、だいぶずうずうしくなって「♪ソーファミミファミレドドレミミーレレー」。ぱくりの全容が明らかになる。さらにブラームスの第1交響曲。第4楽章のメロディーばっかり言われるが、第3楽章ですでに「♪ソーファミファミレミファミレミレドレー」。もし、ブラームスがシューベルトから「ぱくった」と抗議されたら、「あなたなんかぱくるもんか。私がぱくったのはベートーヴェン大先生だ」というだろうか。あるいは、「たしかにあなたのをぱくった。しかし、それはもともとあなたがベートーヴェン大先生からぱくったものだ。ぱくったものをぱくっても罪にならない」。これは、日本の刑法では通らない理屈。泥棒から泥棒すると窃盗罪が成立する(保護法益は占有(占有説))。

スッペの「ボッカチョ」

2017-01-30 08:44:03 | 音楽
(承前)少し前まで当ブログのPはポリーニのことだったが、最近は「苦痛」を意味するラテン語。そのPが苦痛をもたらすのはPを持ってる方か?それが向けられる相手方か?場合によって逆転するようだ。例えばボッカチョの「デカメロン」(でかいメロンでもスイカでもない)にこういう話が出てくる。ある若い娘が「神への最善の奉仕の方法」を求めて荒野に暮らす隠者の元を訪れる。隠者は、娘が無知なのをいいことに、その方法とは隠者の体の悪魔を娘の体の地獄に入れることだ、と言って実践(古事記の冒頭もそんな話だったっけ)。娘は、なるほど隠者の体についてる物は悪魔に違いない、私に苦痛を与えるから、と言う。この時点でPが苦痛を与えるのは相手方。ところが日が経つうちにだんだんその「ご奉仕」が娘にとって愉しいものとなっていき、娘が隠者を責め立てるようになった。隠者は粗食なので若い娘に満足を与えることができない。娘は、なぜ私の地獄を冷ませてくれないのか、と隠者をなじる。この時点で、Pの苦痛はその所有者のものとなった。「ボッカチョのデカメロン」は世界史の教科書に載っているが、その内容に触れたのは中学んとき、正月だからこその深夜放送でやってた映画。監督がパゾリーニだからもともと淫靡なところにもってきて輪をかけて淫靡だった。興味を持った私は文庫本の原作を読んだ(その文庫、最近再び購入)。作者のボッカチョはスッペのオペレッタの主人公でもある。少し前、某会のソロ・コーナーでこのオペレッタの二重唱を某姐さんからのお相伴を預かり歌わせていただいた。とっても楽しかった。大昔の浅草オペラで田谷力三が歌った「♪こいーはやあさしー、のべーのはあなよー」はこのオペレッタのアリアだそうだ。そのスッペ、オーストリア人だから「ズッペ」と読んでいいのに「スッペ」なのはオーストリアだからか(Sが濁らない。Salzburgもサルツブルク)。それとも、もともとイタリア系の名前だそうで、そのせいか(ご先祖はクロアチアに移住したベルギー人の貴族だそうだ)。

「する」

2017-01-29 10:36:31 | 言葉
少し前に、英語が堪能な方は「コックさん」で赤面するかも、と書いた。その記事を読まれた某さん(怒られるので、ご本人を特定できるような情報は一切書けないのが残念)からコメントをいただいた。某さんは、ラテン語の歌詞の「fac」の連呼を恥ずかしくお思いになるのだそうだ。そうだよな。意味は全然違うんだけどな。某さんが連想なされた「f○○○」に相当するドイツ語は「ficken」。元の意味は「素早く出し入れする」「擦る」。それに対して、ラテン語の「fac」は「する」の命令形。ん?「する」?意味、違うくもないか。このとおり、今回の記事は第一に学問的興味から書いたものであるが、多少淫靡なのでご注意を(後から言ってどうする?)。えーい、ここまで書き連ねたらついでだ。私がラテン語の歌詞で気になるのはレクイエムの「de poenis」。学生のとき歌ったヴィクトリアのレクイエムで、この歌詞をやたら伸ばす部分があった。「苦しみから」という意味だが、Pが苦しいというのは、これを所有する方にとってだろうか、それともこれが向かう相手方にとってだろうか、ということが当時から気になっていた。ご存じの方は、(こっそりでもいいから)教えて下され。

民族大移動

2017-01-29 10:06:52 | 日記
トランプ氏が「次の国防長官は、ジェイムズ・マードッグ・マティス」と、まるでプロレスのリング・アナウンサーのよう。「マードッグ」は「狂犬」?そうか、「マッド」+「ドッグ」が縮まって聞こえたんだ。「エクツェ」(Ecceのドイツ語読み)が「エッツェ」に聞こえるようなものだ。でも日本人は頑なに「マッドドッグ」「エクツェ」と言う(私も歌うときは頑なに舞台ドイツ語を使う。日常言葉と違うのは百も承知。私だって会話では間違っても「aber」を「アーベル」なんて言わないし)。そのトランプさん、TPP離脱を表明。イギリスはEU離脱だし、世界を覆い始めた保護主義の暗雲。もとは、シリアの難民がヨーロッパに押し寄せたことだった。歴史は繰り返す。中世のヨーロッパの都市が城壁で覆われ相互に孤立したのは東方からの異民族の襲来があったからだ(「進撃の巨人」の城壁をみるとそのことを思い出す)。近代、その城壁が壊されたところからヨーロッパの膨張が始まった……等々を某大学の入試の論文に書いたら、受験的な論点など一つも書かなかったのに合格した。あんなことを書く人間をうからせるなんてすごい、こういう大学に行くべきか、と一瞬思ったが、結局別の大学に行った。そっちに行っていたら人生変わったろうか。変わったろうな。室内合唱団にだって入ってないはずだし。私が入った会社の同期で私と同じ大学出身者は5年で半減していたが、その大学の出身者は全員残っていた。でも、そっちに行っていても性分は変わらないから会社はやめていただろう。

ロボタンとボロット

2017-01-28 11:58:43 | 日記
(承前)前の記事に書いた「丸出だめ夫」にはたしかロボットが出てくる。なんて名前だっけ。ロボタン?ブーッ。ボロットだった。ロボタンは「ロボタン」のれっきとしたタイトル・ロールだった。そのロボタンに出てくるのがボッチとキーコ。キーコは烏だと記憶していたが九官鳥だった。このどっちかに「花岡実太」(はなおか・じった=鼻をかじった)という先生が出てくるはずだが……いや、どちらにも出てなかった。出てたのは「忍者ハットリくん」だった(数年前、当ブログでも一度確認をしたはずだ)。うーん、記憶というのはボケてなくてもいい加減なものだ。ちなみに、この名前でぐぐったらまっさきにヒットしたのがAV男優だった。すると、飲み屋で大声で「花岡実太」の話をするのは控えた方がよいということだ(こちらは子供時代を懐かしんでるだけだが)。

料理は煮るのが基本?(おまけ=赤面する外国語)

2017-01-28 11:33:18 | 日記
今私が子供だったら(精神年齢は子供だが)、「大人になったらコックさんになりたい」と言うだろう。この文を読んで赤面した人は英語が堪能な方。では英語で「料理人」は?「cook」は動詞だしなぁ……え?これ名詞の意味(料理人)もあるの?知らなかった(無知丸出し。因みに、大昔「丸出だめ夫」というドラマ(原作はマンガ)があった)。「cook」する人だから「cooker」……ではない、とご丁寧に辞書に書いてあった。因みに「cooker」は料理器具のことだ。じゃあドイツ語は?料理をするという動詞は「kochen」。それをする人だから「kochener」なーんて言葉を勝手に作ってはいけない。こっちの名詞は逆に動詞が短くなった「Koch」。因みに、カラヤン時代のベルリン・フィルにコッホという名オーボエ奏者がいた。じゃあ「コック」はどこからきたんだ?英語のクックが訛ったのか?そしたらオランダ語(kok)だってさ。ところで、ドイツ語の「kochen」には「煮る」という意味もある。「煮る」=「料理する」かぁ。料理の基本は煮ることなのか。そう言えば、「煮炊き」っていうよなぁ……なぁんてことを、朝はラーメンを煮て、夜はパスタを煮ながら考える。さて、ここからの話は若干淫靡(Achtung!)。冒頭の文章を読んだ英語堪能な人は赤面するかも、と書いた。いくつか前の記事にも書いたが、ある人にはなんてことないのに、別の人にとっては赤面する言葉というのはままある。当ブログでよく話題にするドイツ語の「種」。ドイツの花屋さんの看板にはでかでかと書いてあるのに多くの日本人は赤面する。この言葉のある意味だけが強調されたからだ。発音で日本人が赤面するのは、某外国語の「不足する」という動詞の一人称。某DIVAは、これに主語が付いたらなおさらやばいというご自身の歌のご経験を教えて下さった。こんな話にも付き合って下さるほど某DIVAは懐が深い(このくらいぼかして書けば検閲は通るだろう)。

哀悼・シングウイズジョイ(カンターテ・ドミノその3)

2017-01-27 11:08:55 | 音楽
「Cantate!」「Singet!」は英語で「Sing!」。「Sing」にまつわる悲しいお話。シングウイズジョイという魅力的な名前の牝馬が日曜日のレース中転倒して骨折。天国に駆け上がった(キリスト教では厳密には人間と動物を一緒に埋葬してはいけないそうだが(でもケルンの大聖堂では聖人と飼い犬が一緒に眠っていた)、動物も天国には行けるのだろうか?)。サラブレッドは3本脚で体を支えることができない。昔、テンポイントがレース中に骨折したときは、全国から膨大な「助命嘆願」が届いたんで、なんとかしようといろいろ手を打ったが結局だめで、逆に馬を苦しめることになってしまったそうだ。競馬はたまにこれがあるのでつらい。今回、中継していたテレビのアナウンサーがもっぱら騎手のことばかり心配し、馬のことに触れなかったことに抗議が集中したそうだが、でも難しいよな。昔、同じようなシーンでべそをかいたMCがいたがそういうのは見たくなかった。今回、馬が立てなかったから分かる人はみんな分かってた。シングウイズジョイの冥福を祈る。

「Cantate」VS「Singet」(カンターテ・ドミノその2)

2017-01-27 11:07:54 | 音楽
「Cantate domino canticum novum」をドイツ語にすると「Singet dem Herrn ein neues Lied」。バッハのモテット1番だ。あれ?Hプレトリウスの「Cantate」はこの後「annuntiate」(=「告げる」。「アナウンス」の語源であることは明白)と続くんだけど、モテット1番は「褒めよ、称えよ」だよな。出だしは同じだけど違うんだ。Hプレトリウスのは詩篇96。モテット1番は詩篇149。いや、「Cantate domino」が詩篇96で「Singet dem Herrn」が詩篇149と言ってはいけない。たまたまHプレトリウスの「Cantate」とバッハの「Singet」がそうだっただけ。例えば、シュッツの「Cantate domino」は、SWV463は詩篇96だが、SWV81は詩篇149。逆に同じシュッツの「Singet dem Herrn」(SWV194)は詩篇96だ。そのシュッツの「Cantate domino」(SWV463)。「(各声部が交互に)♪カンター、カンター、カンター、カンターテ(一瞬の空白の後tuttiで)カンターテドーミノー……」。同じ詩篇96を使ってるせいかHプレトリウスの「Cantate domino」とよく似てる。他方、SWV81は同じ詩篇149を使ってるバッハの「Singet」と同様、明るい曲調。こっちは4声だからSの会でもできるぞ。

「カーン」tate domino(カンターテ・ドミノその1)

2017-01-26 10:08:51 | 音楽

ヒエロニムス・プレトリウスの「カンターテ・ドミノ」を合唱団で歌ったのは大学一年のとき。そのときの強烈なインパクトのせいで、私にとっての「プレトリウス」は「ミヒャエル」ではなく「ヒエロニムス」となった。練習で思い出すのは、鈴木仁先生がひたすら冒頭のソプラノの「カーン」にこだわられたこと。手を頭の上に持ち上げながら「カーン」「カーン」と何度も繰り返された。男声は、しばらくしてトゥッティで「カンターテ、ドーミノ、カンティーク、ノーヴム」と歌うところから入るのだが、ほとんど「お構いなし」だった。そう言えば、団内で、「ミヒャエル」と「ヒエロニムス」の両プレトリウスの関係はなんだ?親子か?ということが問題となった。今のようにぐぐれば何でも出てくるという時代ではない。解決したのは、遠山音楽図書館でヒエロニムスの楽譜を閲覧して、そこにミヒャエルとはなんのrelationshipもない、と書いてあったのを読んだときだ。いずれまた歌いたいなぁ、この曲。8声(!)だけど。

いじわるばあさん

2017-01-25 09:05:31 | 音楽
「だいとうりょう」の「だい」を取ると「とうりょう」。なんだ海賊の親分と一緒だ……じゃなかった。海賊の「とうりょう」は頭領だった。でもトランプさんてフック船長みたいだ。お前気に入らないから海に投げ込む、とか。そのトランプさん、アメリカ・ファーストが口癖。小池さんはトミン・ファーストが口癖(意味は大分違うと思う。トランプさんのは排外主義)。そう言えば、大昔、東京都知事だった故青島幸夫氏は初代いじわるばあさんだった(このドラマの主演)。その後、参議院選挙にうかったんで(同時にうかったのが今豊洲移転問題でその責任の有無が取りざたされてる元知事)、議員が意地悪ってぇのも具合が悪いということで、いじわるばあさんは降板したのだった。私が小学校3年か4年のときだったと思う。ところが最近ぐぐってみたら、青島さん、まだ議員さんをやってるときに、いじわるばあさんに返り咲いていた(知らなかった)。いじわるばあさんの原作者は長谷川町子。私にとって長谷川町子は「さざえさん」でも「いじわるばあさん」でもなく「えぷろんおばさん」。家に単行本があったので。で、ときどき銭湯のシーンがあって、それが女湯。小学生の男の子は少しどきどきした。考えてみれば長谷川町子さんは女性だから女湯を描くのは自然のこと。ふんどしを締めた三助も描かれていた。女湯にいるのが三助、男湯にいるのが「湯女」……いや、湯女は江戸時代だった。するサービスもあまり大きな声ではいえない。ピアニストの都子さん(仮名)は、だからこのことを連想して「女の子に『ゆな』って名前恥ずかしいわよねー」としきりにおっしゃてた。私も秘かに同意したが、その場にいた人の多くは「なんで」という感じだった。同じ言葉でも聞く人が何を連想するかで高尚になったり卑猥になったりする。「Venusberg」を直訳すると「ヴィーナスの山(丘)」だが、タンホイザーの世界のVenusbergはそれこそ「湯女」が跋扈する世界。「Venusberg万歳」と叫んだタンホイザーは仲間の騎士から殺されそうになる(「風俗万歳」と叫んだようなものだから)。さらに、この言葉には医学的に「恥ずかしい丘」という意味もあるそうで、だから、このオペラは当初の題名(Venusberg)から「タンホイザー」に改められたのだった。因みに、昨日の「Ecce歌合戦」は、タンホイザーの歌合戦を念頭に置いて書いた(ほんとかよ)。

Ecceの発音

2017-01-24 09:43:39 | 音楽
メンブラのEcceの発音について巻き起こった歌合戦(架空)。まずは教会ラテン語を信奉するA氏が歌う。(さっちゃんの歌詞で)♪Ecceーはね、エッチェってゆーうんだほーんとーはね、だけどちっさいからEcceのことエッツェってゆーううんだね、おかしいね、Ecce!これを聞いていきりたったのがドイツ式発音の信奉者のB氏。♪Ecceーはね、エッツェ(注)ってゆーうんだドーイツーではね、だけどちっさいからEcceのことエッチェってゆーううんだね、おかしいね、Ecce!(A氏は、教会(宗教)音楽は教会で歌われていたように歌うべきと主張する。B氏は、ブクステフーデは北ドイツで活躍した人だから、作曲者の身近で歌われていたであろう発音で歌うべきと主張する。両者一歩も譲らずにらみ合い(スザンナとマルツェリーネのなじり合いのごとし)。そこに古典ラテン語を信奉するC老人(白くて長い髭)が登場。♪Ecceーはの、エッケってゆーんーじゃむーかしーはの、なのにわかいやつーらがEcceのこといーろいーろゆーううんじゃの、おかしいの、Ecce!争いは三つどもえとなる。そこに何事も丸く収める世話役さんが登場。♪Ecceーはね、なーんでーもいーーんだほーんとーにね、だからひとりひとーりがすーきなとおりうーたえばいーいいんだよ、へいわだねー、Ecce!これではまるでバベルの塔だ(人々が違う言葉をしゃべりだしたので工事が中断した)……現実に戻る。ナクソスで聴いた14種類のうち11は「エッチェ」(教会式)。どれが正しいなんととってもじゃないが言えないが、私は、鈴木仁先生に室内合唱団で習った発音(ラテン語は教会式、ドイツ語は舞台ドイツ語)が身についてるのでそれでやりたい。注:ドイツ語は「エクツェ」だというコメントをいただきました。それが正確な発音ですが、最近の発音では、クが小さくてツェにくっついちゃってるものがあり、それだと「エッツェ」に聞こえます。

バンベルク(ブロムシュテット、ホルスト・シュタイン)

2017-01-23 10:07:15 | 音楽
昨夜はEテレでブロムシュテット指揮バンベルク交響楽団の田園と運命を放送してた。暮れの第九でも感じたが、ブロムシュテットはまさにスーパー高齢者だ。ずーっと立ったまんま。89歳なのにまったく音楽に弛緩がない(ベームもカラヤンも最晩年は止まっちゃうんじゃないかって感じの緩さだった)。意気軒昂なベートーヴェンだった。始まる前の団員のインタビュー。バンベルクは小さな街で団員同士近所に住んでてみんな仲良しなんだと。ほんとに小さくて可愛いくてきれいな街だった。1日だけ行ったことがあって。ドイツ人の先生に旅のお奨めを聞いたら、ドレスデン、バンベルク、ヴュルツブルクがいい、と。で、ニュルンベルクに1週間逗留してそこから毎日近郊の街を訪れたその一つがバンベルクだった(このときは、シーズンオフのバイロイトにも行った。駅から丘を見上げると祝祭劇場があってまさにヴァルハラのようだった。でも、実際劇場に行ったらパイプ椅子が並んでるのが見えて、少し人間社会に引き戻された)。バンベルク交響楽団は、ホルスト・シュタインの指揮で、生で聴いたことがある。そのときのマイスタージンガーの前奏曲は圧巻だった(生で聴いたこの曲の文句なくベスト)。ホルスト・シュタインは、ちょうど私が中学生の頃、サヴァリッシュ、スイトナーと並んでよくN響を振りにきてて(ブロムシュテットはそれよりも後)、クラシック好きの私達中学生は火星人と仇名していた(まったくどうしようもないガキどもだ)。シュタインは、指揮の実力ももちろんだが、大変な美声だったという。炎のコバケンも、第九で歌手が落ちると自分が代わりに歌ったそうだが。バンベルクがらみの話をもう一つ。別の年、バーデンバーデンに旅行に行った帰りの飛行機で隣にうら若きドイツ人の女の子が乗っていて、ちらっと話したらバンベルク出身だという。おお、行ったことがある、いい街だね、とか話してるうちに成田着。すると、「Vielleicht、あなたは新宿に行くか?だったら一緒に行ってくれないか」と言う。「Vielleicht」は「多分」と訳されることもあるが、本当はもっと可能性の低い「ひょっとして」の意味なんだと聞いた。このときのFraeuleinの「Vielleicht」はまさに後者の意味で用法を確認できた気がした。

「大人を通り越しちゃった」(うまいことを言う)

2017-01-22 11:25:19 | 日記
母との間で「お前、時間があるとき何してるんだ」「合唱」「がっしょー?」という毎回同じ会話を1か月繰り返してたら、最近は母の方から「お前も仕事と家事と遊び(合唱)で大変だね」と言うようになった。私はそれに「猫の世話とあなたの管理」と付け加えた(心の中で)。とにかく、1か月同じことを言い続けるとさすがに記憶されるということが分かった。そんな母の部屋がどうも臭う。どうやら風呂に入ってない模様。前から「シャワーを浴びろ」と言うと「ときどき浴びてる」と言っていたが、これがウソだった。そのことをなじると「浴びろと言われて、昔浴びたことがあったな、と思ったから言ったまで。ウソではない」と言い訳をする。ぼけてるくせに妙に頭がいい。よし、最後の手段、言うまいと思ってたことを言ってやる。「お母さん、この部屋臭いよ」「えーっ?」。かなり効いたようだ。シャワーの出し方とかをチェックしている(私んとこよりよっぽど設備がいい。すぐお湯が出てくる。私んとこなどこの寒さでお湯の蛇口をひねっても熱く出てくるまで1分かかる。その間、石けんで手もみをするからより手が清潔になる(負け惜しみ))。で、母が「シャワー浴びるとき石けんをつけるべきかね」(おっ、石けんで話がつながった)。私「そんなの自分で考えなよ、いい大人なんだから」「大人を通り越しちゃったから」。これには感心。なかなか気が利いたことを言う。母は関西人。のくせしてこれまで冗談を言うのを聞いたことがない。そんな関西人もいるんだ。本人に言わせると、関西と言っても「端の方」だからだそうだ(私は母の郷里の和歌山に行ったことがない)。さて、以上は昨日の話。今朝行ってみたら、「ちょっと待って」と言ってなかなかドアを開けない。なんとシャワー中だった。「臭いよ」の効果は絶大。ようやくドアが開いたらシミーズ姿の母。朝から目の毒。

バックハウスのハンマークラヴィーア・ソナタ

2017-01-22 11:24:30 | 音楽

されどでござる(ユジャワンの話の続き)。私にとってのハンマークラヴィーア・ソナタの「永遠の演奏」はバックハウス(最初に聴いた演奏)。中学生の頃1000円の小遣いで、毎月1枚ずつバックハウスのベートーヴェンのソナタ全集のばら売りを買っていた(小学生の頃は300円の小遣いで毎月「巨人の星」の単行本を買っていた)。当時、レコード1枚の標準価格は2000円で、「廉価版」は1000円だった。バックハウスのステレオの新録音は2000円だったから、私が買ってたのは当然廉価版のモノラル録音の方。だが、バックハウスはハンマークラヴィーア・ソナタの再録音をしなかったら、ステレオの録音はモノラル録音を疑似ステレオ化したものだった。とにかく、そういったことで、若い番号の曲から順に聴いていって、いよいよ第29番。レコードに針を降ろして数秒後、突如鳴り響く巨大な和音。ベートーヴェンがこれを書いた40代は甥カールの問題で作曲が滞っていた頃。そんな中、忽然と姿を現したのがこの大曲。その「いきなり感」が冒頭にもあふれる。それでいて、すぐ脱力のエレガントな世界に移行する。大層気に入って、レコードがすり切れるほど聞き込んだ。その後、ピー(ユジャワンについて書いたブログ参照)の近代的な、スポーツカーで突っ走るような演奏が現れ、ユジャワンもその流れだと思うが、そういった演奏に慣れしたんだ今、バックハウスの演奏を聴くと、その気風壮大な演奏にはやはり圧倒される。特に、リンクしたyoutubeの第1楽章の展開部の後半部分、和声が変化しながら再現部になだれこむ部分(7分20秒から40秒にかけての部分)は圧巻。私にとってこれをしのぐ演奏はない。因みに、池田理代子の「オルフェーブル(じゃなかった。これは馬だった。正しくはオルフェウス)の窓」の最後の方に若きバックハウスが登場する。それから、このソナタの作品番号は106(ユジャワンの演奏を検索しようと思ったら「wang op106」でOK)。「106」と言えば、バッハの「Gottes Zeit」のBWV番号と同じ。